2018年7月23日月曜日

読書閑談 ペリー日本遠征記(その4)気ままに拾い読み

第3章から第6章 那覇入港まで

第3章には希望峰を目指してと題されて、まずセント・ヘレナからケープタウンまでの航路と海の様子が述べられる。
当初の提督の考えでは、マデイラからケープタウンに至る蒸気船にとっての最良の行程は、石炭が十分にあれば、ヴェルデ岬からまっすぐアフリカ沿岸のケープ・パルマスに向かい、それから海岸に沿ってテーブル湾に至る航路であった。ところが途中で、風の具合が思わしくなくなったために、念の為に石炭を補充したほうがよいとの判断にしたがって舵をセント・ヘレナに向けたのであった。
ところが、ジェームズ・タウンを出帆してみると、南東貿易風と逆波の速い流れが進度を阻害した。蒸気力を増やすのはたやすいことであったが、この船の効率は一日あたり石炭26トンで最大になることがわかっていたし、この海域での石炭の入手が難しいことと、値段や積み込み費用と荷役時間を計算すれば、石炭を多く消費するより速度を上げないほうが得策と考えられた。だからそのようにして進んだという意味の文章。

この海域での石炭入手の可能性については、イギリス 人 が セント・ポール・ド・ロアンゴ に、 アフリカ 海域 の 蒸気 巡洋艦用の石炭貯蔵所を設けている 。ある英国会社がヴェルデ岬諸島のセント・ヴィンセントのポート・グランドに石炭貯蔵所を設けて、立ち寄る蒸気船に妥当な値段で供給されるという。
以上調査の結果として。いまのところ、アメリカ船が確実に石炭を補給できる保証はない。それなら、合衆国を出港する蒸気船に先立って、まず石炭船を先に送リ出すことだ。と、ここに書きながら実は、遠征隊のアメリカ出発に先立って2隻の石炭輸送船を送り出したことがのちに明かされる。
最良の航路は、マデイラからセント・ヴィンセントを経て、ケープ・パルマスを通り、海岸沿いに南下してケープタウンに向かう。海岸沿いの航路をとれば、陸からも、海からも微風であり、海流も都合よく南向きである。
今回は、こののち、ケープタウンでファニュール・ホール号から石炭の補給を受けた記述がある。
訳文に表示された地名・島名はグーグル地図ではそのままの検索では見つからないことがある。例えば、ヴェルデ岬とあるのは、原文にCape de Verd islandsとあり、現在ではポルトガル発音のカボ・ヴェルデで通用している。1975年にこの名称の共和国ができた。遠征記の当時は一群の島々を指す。
セント・ヴィンセントは、サン・ビセントで見つかる。セント・ポール・ロアンゴは遂に見つけられなかった。パルマス岬はリベリアにあるチッチャな岬だ。

1月24日本船はテーブル湾のロベン島と本土の間を通過して碇泊する。この島はハンセン病患者の隔離と政治犯を収容する刑務所であったが、1853年当時はどうだったのだろう。マンデラ大統領も27年の獄中生活のうち18年間をここに収容されていた。1999年、人種隔離政策の記憶を伝える負の世界遺産になった。ケープタウンの記事を読んでいる折も折、7月18日は生誕100年に当たり各地で記念の催しが行われた。この読書のいい思い出になりそうだ。
ケープタウンは1650年にオランダ人によって建設されたが、1759年にイギリス人の手に渡り、アミアン和約のあとオランダに返還された。遠征記は1806年以後イギリスに占領されて今日に至っていると書いている。アパルトヘイトの問題はまだ先のことだ。
暑さと強風とホコリの町、あまり楽しくなさそうだが、町は繁栄している。ケープタウンの人口は22,500、それを除いた植民地人口は20万、うち白人は7.6万、有色人種10万人とある。原住民のホッテントットはもはや純粋種はいなくなったとか、ヨーロッパ人に滅ぼされた原住民はわずかにブッシュマンが残っているとある。ホッテントットは子どもの頃よく耳にした。ブッシュマンとどちらもいまや差別語になった。
「しかし、我々アメリカ人には、他国の国民が、征服した国々の、原住民に加えた非道を罵る権利はない。厭わしい偽善でその行為を取り繕うイギリス人に比べればまだしもましかも知れないが、我々も土着の原住民を欺き、残忍に扱ったことについては彼らと大差はないのである」(ペリーのことば)。

2月3日午前11時出港、18日、モーリシャスのポート・ルイス着。途中難しい風向と採るべき針路についてサスケハナ号の記録と比較して最良航路を探っている。とにかくアメリカ海軍では蒸気船の経験がまだないからいつも調査しながら進む様子がみえる。
英海軍のステイクス号と遭遇したときの相手船の外輪操作に触れている。同船は帆で進んでおり、エンジンから切り離された水受けを全部付けたままの外輪が船の動きに連れて回転するにまかせていた。イギリスの蒸気艦はしばしば燃料の節約のために、簡単な操作でエンジンから外輪を切り離す。この接続と切り離しの作業はわずか2、3分で完了する。 合衆国海軍の蒸気艦の場合は、エンジンを取り外すことがほとんど不可能であり、帆だけを使うための実地の方法といえば、水に浸かっている水かき板を取り外すしかない。この作業は穏やかな天気のときしかできないうえに、約2時間を要し、再び取り付けるにはその2倍の時間がかかる。このことだけでなく一般的にアメリカの艦船が各国に遅れを取っていることを嘆いている。

ポート・ルイス港ではハリケーンの猛威に耐えられるよう水先案内人が活躍し、すべての入港船舶が係留用の錨に軍艦用の鎖で繋がれる。強風の脅威と戦いながらも、知識と絶えざる気配りによって見事に管理されている港湾運営を称賛した提督は港務長のイギリス海軍大尉に感謝の覚書を送った。

第4章モーリシャスからセイロン、シンガポールへ。
モーリシャスと隣接するブルボン島は1505年にポルトガル人によって発見され、のち、オランダ人、フランス人、イギリス人と領有が代わっている。ペリー提督が訪れたのはイギリス領時代である。ブルボン島は正確にはレユニオン島と改名されていたはずである。記事は気象条件と植生に触れ、近年大増産中の砂糖を特筆している。しかし、農園労働の人手不足は1833年のイギリス政府の奴隷制廃止以後、植民地各地の共通問題であった。モーリシャスの農業労働も黒人奴隷がいなくなった。それに一般的に黒人は働きたがらないのである。しかし当地では移民でクーリーと呼ばれる労働者がそれを補って港湾荷役と農園労働に従事していたとある。クーリーとあるだけで人種は書いていないが、ふつうはインド人とシナ人をいうはずだ。
島の全人口は18万人、そのうち10万人近くがマダガスカルやアフリカからの黒人、マレー人、マラバールからの漁師、ラスカル人(インド人船員か)、シナ人とある。白人は9千ないし1万人。大部分はフランス系のクレオールという。そして役所関係のイギリス人。

モーリシャスといえば『ポールとヴィルジニー』の悲しい物語があるそうだが、どれくらいヒットしたものやら、私は縁がない。遠征記には、この物語はフィクションで、題材はここの港で遭難したフランス船サンジェナール、ときは1744年8月14日、作者は当地に在任したフランス士官だったと明かす。遭難者の中には二組の恋人らしい男女がいたのは事実だそうである。大いにもてはやされた物語にあやかって、さる別荘の持ち主が亡き恋人たちのための記念碑を庭園に作った。自分の別荘に人寄せの名物を付け加えた人物はもてなし好きだったそうであるが、100年以上も経って訪れたミシシッピ号の乗員たちには、荒れた墓碑があるだけで挨拶もなく、ちゃっかり見物料をとられたそうである。ちなみにセントヘレナのナポレオンの墓でも見物料をとっていたそうで、こういう習慣はイギリスのものだと書いてある。

モーリシャスでは12月から4月までの期間はもっぱらサイクロンやハリケーンが話題になるという。ネットで調べてみると次のようだ。どちらも熱帯低気圧、発生場所によって名前が違う。サイクロンはインド洋北部または南部、太平洋南部、ハリケーンは大西洋北部、太平洋北東部、太平洋北中部。日本人に馴染み深い台風は太平洋北西部で発生する。
ミシシッピ号はサイクロンの季節にセイロンに向かおうとしている。数名の経験ある船乗りの勧告に従って、150海里迂回する次の航路をとった。「カルガドス諸島の西を過ぎ、アガレガ島とラヤ・ド・マーラ砂州の間を抜けた。それから砂州の北端を回航し、モルディヴ群島の南端であるポナ・モルクに向かって東に舵を取り、そこを過ぎると、セイロン島のゴール岬を目指した。」

ここで再び石炭の話が出る。「合衆国を出発する前、提督の提案に従って、ニューヨークのホーランド・アスピンウォール商会は石炭を積んだ二隻の船を、一隻は希望峰に、もう一隻はモーリシャスに向けて出発させていたが、結果的にこの措置は賢明だった。」これがなかったら、後続のポーハタン号とアレガニー号は燃料調達に多大の困難をきたしただろうと書いている。
約500トンの石炭を補充したミシシッピー号は2月28日にポート・ルイスを出港し、モーリシャスで積み込んだ石炭でシンガポールに達することができそうなら、シンガポールかゴール岬(セイロン島)のどちらかに寄港して燃料を補給することにした。
13日後の3月10日夕方にゴール岬に着いた。セイロンの名は遠くなった現代でもスリランカの港はコロンボだ思い込んでいるので、ゴール岬といわれてもピンとこない。英語表記はPoint de Galle、コロンボの100kmあまり南にある。歴史のある港のようだが、調べればわかること、先を急ごう。ゴール岬の港はイギリスーインド間の郵便汽船の共同集結地で、紅海との往復だけでなく、喜望峰回りでインド・中国に行く船も寄港する。大量の石炭がイギリスから運ばれて貯蔵されているが、立ち寄る船が多いため、時には不足することもある。そのためオリエンタル汽船海運会社は外国軍艦には1トンたりとも供給してはならないと厳命を出しているので、ミシシッピ号は政庁から僅かな供給を受けただけだった。ここでも先回りの石炭船計画が図に当たったことがわかる。
この港町では、スコットランド生まれの合衆国通商代理人が債務不履行で処罰され自宅監禁されていて、提督と士官たちは面目を失ってきまり悪い思いをした。原因は合衆国の領事制度に不備があるためであり、不適格な人選と衣服費をまかなうにも不足する報酬ではやむを得ない面もある。何やら西部劇のシェリフの安直さを思い出す。
ここの歴史についてはポルトガル人による発見のあとオランダ、イギリス、フランスの争いが続き、1815年以降は住民の要望により全島がイギリス国王の領有になったと書く。不幸なシンハラ人に対して誰が最も残忍な圧政を行ったか判断するのは難しいが、どの支配者もおのれの欺瞞と背信に言い逃れはできまいと痛烈である。ヨーロッパ人が来る前は自然が美しく、産物が豊かな島であったのにと残念がっているのは、明治の岩倉使節団一行が東南アジアに来てみて、ヨーロッパ人の実態を見抜いたことを思い起こさせる。島の産業について自然の恵みの豊富さの割に産業が発展しないと報告される。魚・米・ココヤシを常食とする島民がそれ以上求める必要がないからという皮肉な理由が挙げられる。まさに天国のような土地柄であれば、資本主義だの商業主義だのといわずに、そっとしておきたい気分になる。
野生動物については象の多さに触れ、象刈りの話が面白いといえば象に悪いが、あまりにも多いのに驚く。ライフルでの倒し方も教えてくれる。インド象よりは小型で牙を持つものは少ないそうだ。尻尾一つ持っていけば、7シリング6ペンスの報奨金がもらえるという話は昔の日本のネズミ捕りみたいだ。
蛇は20種類しかいないというが、それだけいれば十分だろうに、こっちは蛇が大嫌いだ。アナコンダ、ボア、ニシキヘビなど、人が乗った馬を丸呑みしたとか、話のタネだけの言い伝えもあるが、鹿を丸呑みして腹がふくれて簡単に捕まる話もある。落語の蛇含草はここにはないらしい、とは私の勝手な付け足しである。真面目な話では毒蛇に噛まれたときの応急処置が紹介されている。
セイロン島の人口144万余、うち白人8275人、141万人余が有色人種、2万余りが外国からの居住者とある。暮らしと言語、宗教も簡単に触れている。原住民を原文ではアボリジニーと表記してあるが、話すのは独自のことばで、書くときにはサンスクリットかパーリ語を用いるとある。特記事項としてシャム軍艦との遭遇のことが記され、1836年に結ばれた条約が死文化されていたのを復活させるべく交渉したと記録されている。

3月15日シンガポールに向けて出港した。大ニコバル島とスマトラ島北端にあるプラウ・ウエーの間を通過して、マラッカ海峡に入る。難所で知られる同海峡も夜間に一度投錨しただけで無事に抜けたようだ。海峡通過中イギリス軍艦と礼砲を交換した。3月25日シンガポール入港。

第5章シンガポールから中国海域へ
数年前に自由港とした方策が大成功して一大商業港として繁栄している港の状況を記している。シナの交易は注目すべきだ。ジャンク船によって行われるが、彼らは北東モンスーンに乗って訪れ、茶、絹などを小売しながら港内にとどまり、南西モンスーンが吹き始めると戻って行っては次の航海に備える。彼らが持ち込む積み荷は大量のシナ人移民、多額のドル、茶、絹、磁器、煙草、桂皮、南京木綿、オウレン(薬草)、精巧な細工物など大量、持ち帰る品々はアヘン、ツバメの巣、ヨーロッパ製品などである。街の様子を述べた部分で港に面した住宅に比べて、マレー人やシナ人の粗末な住まいが目をひいた。郊外の道路や小路に近い沼沢地を選んで、杭の上に木造の家を作り、出入りのために一枚の板を渡すのだ。この方式は150年後のいまでもブルネイなどの海岸に見られる水上住宅と変わりないことに驚いた。ミシシッピ号が訪れた当時の人口は8万人だそうだが、イギリス領有前は200人だったという。シナ人は6万人をくだらないそうで、その他はユダヤ人、マレー人、アラビア人、近隣諸国の土着人という。ラッフルズの優れた手腕によってこの地を領有できたイギリスと東インド会社は、その手順が公正であったことは特筆されるべきと強調している。ラッフルズはジョホールとシンガポールのラジャからこの島の主権と領地とを規定の金額と年金とによって購入し、その支払も適正に行われてきた。これは一般に、立派な国々を暴力によって平然と奪い取り、住民を隷属状態に置くヨーロッパ政府の中で、極めて稀有のことであるとしている。
シンガポールはイギリスの郵便船にとって、寄港地、また石炭貯蔵地として重要な拠点である。積極的な東洋汽船海運会社は町から2マイル半のところに新港を建設し、巨大な石炭貯蔵所をつくった。シンガポール港では、船舶に必要な大抵の物資が適正な価格で手に入る。水は良質で、港務長が管理している貯水タンクから供給される。
イギリスが領有した当初、島は全く開拓されていなかった。それがペリーが訪問したいまではかなり奥まで開拓されてるが、シナからの勤勉な移民の努力によるものである。
ヨーロッパ産の様々な動物が輸入されている。馬はずんぐりした気の荒い種類で、大きさの割に素晴らしく丈夫である。簡易な馬車に繋がれて利用されているが、台に乗って手綱を取る御者は稀で、大抵が馬の先に立って走っている。これなら自然に馬と人とに仲間意識が生じるから酷使することもなく、動物愛護な観点からは良い方法である。(馬が一歩歩けば人は2歩歩くから、自然に馬に優しくなるとは面白い風景ではないか)。明治以後に同地を旅した日本の作家たちにも馬車に乗る話はあるが、このことは初耳だ。マレーの虎とはよくいわれるが、実際に人食い虎が多くいたことが書かれている。さらに、ラッフルズは虎だけでなく、マレー人のバッタス族という人食い族は互いに食い合う部族だそうだ。それでいて読み書きができ、古代から法典も作っていたから全くの未開人とは言えない存在だ。
遠征記のシンガポールに関する記事は、100年の時を隔てたはいえ、リー・クヮンユー大統領の独立国シンガポールとはあまりにも様子が違いすぎる。

さて、必要な燃料を積み込んで3月29日に出発した。4月6日にはマカオの錨地、更に翌日夕刻香港に錨を下ろした。この間インド洋と南シナ海の海の様子は船乗りには興味深いことのようで、成長の早いの速いサンゴ礁のため変化する水深などの記述がある。
香港に着いてみると、僚艦プリマス号、サラトガ号、輸送船サプライ号が碇泊していたが、政府からペリー提督の旗艦に指定されたサスケハナ号が見当たらない。清国駐在弁務官や公使館付き書記官、広東駐在の合衆国領事などを乗せて2週間前に上海に向かったと聞く。提督は驚き、落胆したと書いてあるが、実際はかなり怒ったはずだ。国務省と海軍当局の仲の悪さの象徴のような事件だろう。とりあえず、サスケハナの指揮官ブキャナンに上海でミシシッピ号を待つよう命令を出した。到着を歓迎する英仏各国士官たちから厚遇されることに触れているが、提督のことばをひいて「長い間の外国での勤務のうち、私が厚遇を受けなかった試しは一度もなかった。実際、合衆国政府を除くあらゆる国の政府は自国の士官たちに公式の饗応に使うテーブル・マネーを潤沢に与えているため、士官たちにとって、その金を使ってもてなすことは義務であり、また喜びであることも間違いない」と記述のあるのは著者の大いなる皮肉であろう。イギリスが領有した12年前には不毛の地であったヴィクトリア市に14,671人住んでいるそうだ。インドと香港の間では大量のアヘン取引が行われており、アヘンは香港に輸入されてから海岸伝いにシナに密輸される。街頭のいたるところにある市場で、中国商人が外国人を呼び込み、巡回商人たちが忙しそうに回って歩く光景が見られる。彼らは独特の服装と奇抜な道具で人目を引く。わが隊の画家は香港の少年理髪師の肖像をいきいきと描いた。

香港を発ったミシシッピ号はマカオを経由して広東河(珠江)の黄埔(ワンパオ)に錨を下ろした。大型船はここまでで、あとはボートで広東に行く。この道程の風景はアメリカ人が絵や話で想像していたものと雲泥の差で、まことにみすぼらしい光景の連続だったらしい。提督の心の広東とのギャップと記している。交易に重要な土地であっても、広東は風景も人心も荒れた土地で海賊や強盗も多く外国人も被害にあう。
第6章 マカオ・香港、上海、そして琉球へ向かう
広東を去る際、合衆国領事フォーブス氏の僚友スプートナー氏のはからいでマカオにある氏の邸宅を3名の士官とともに使わせてもらった。衣食は自前でまかなうが、細々した買い物を頼めばたちどころに取り揃えてくれる。細かいことまでよく気を配り、余分な金は一切受け取らず、ひたすら商売相手を快くもてなす東洋商人の気風だと感嘆頻りである。私はこの箇所を読んで、コンラッドの小説『ロード・ジム』に登場する船長相手のもてなしの 仕事を連想した。上海でも提督が滞在した邸宅の持ち主、このラッセル商会というアメリカの会社は、早くから清との貿易に携わっている会社でアヘンも扱っていたようだ。船長相手どころではない大物らしい。前出のフォーブス氏などもアメリカの富豪に列する人物と考えられる。いずれ調べてみたい材料だ。
4月28日の夕方、ミシシッピ号は再び海に乗り出した。サラトガ号は通訳に任命されたS.W.ウィリアム博士を待ってマカオに残る。上海に向かう途中のシナ沿岸は安全な航路ではないし、上海へ行く揚子江の入り口も砂州が多くて危険である。サスケハナ、プリマス、いずれも軽い座礁を経験した。ミシシッピもパイロットのミスで水路から外れたが、エンジンを使って自力脱出できた。サプライ号はなんと22時間後に風向きが変わって助かった。広くて美しい道路や建物が揃っている景色が紹介される。二つのゴシック風の教会、英国国教会とアメリカのプロテスタント監督派、いずれもこの地での布教の努力の実りとしてキリスト教徒たちに、この信仰の発展への希望を抱かせる、とあるのは、この遠征記の編者が牧師さんでもあったことを思い出させる。
マカオで滞在したラッセル商会の邸宅にここでも世話になった。ソーダ水はお好きですかと丁重に聞かれた提督は、自分の欲しいのはサラトガのコングレス鉱泉のミネラル・ウォーターだけだと答えた。翌朝、その召使いは、なんとその瓶を持って現れたのであった。滞在中ひっきりなしに晩餐会と舞踏会が催され、士官たちはいたるところでこの上なく親切な饗応にあずかった。街の印象は外国人居留地以外は、シナ人街特有であまり良いものではないが、アヘン戦争後の発展は間違いなく進んでいる。道台(タオタイ)というのは知事兼司令官で大変な仕事を受け持っている高官である。挨拶に出向いたために答礼を受けた。大層な服装で身を固め天蓋付きの輿に乗って銅鑼の響きで到来が告げられる。こちらが訪問するときにも輿に乗せられて行列である。折からシナは太平天国の内乱中で事態は刻々と動いていた。提督も関心は深く、1853年5月の日付で洪秀全の主張と情勢を記録している。提督は危機に直面しているアメリカ市民の利権を考慮して、アメリカ人とその財産を守るためと、遠征隊の目的をないがしろにしないように、プリマス号1隻を残すことにした。
アメリカ領事館と上海港

ミシシッピ号は5月4日に上海港に到着し、17日までの間に、旗艦乗り換えや石炭食料等通常の積み込みを行った。今回は特に琉球諸島で使用する予定のシナのキャッシュ(銅銭)5トンあまりも積み込まれた。1853年5月16日朝、ミシシッピ号が、次いで翌日提督がサスケハナ号で河をくだった。プリマスは事変の経過を見るため残され、財産保護の見通しがつき次第あとを追うことになった。出港のときに出会ったカプリス号が加わった。
サスケハナは揚子江河口に到着すると錨を下ろして3日碇泊した。ミシシッピとサプライはその両側に碇泊した。ミシシッピ号に積む予定の石炭を運んできたジャンクが砂州に乗り上げた。―ーそれでどうなったんだ。わからない。
5月23日、那覇に向けて出発した。ミシシッピはサプライを曳航した。航海中戦闘準備の演習と、琉球を訪れたときの艦上の規律、どこで日本の住民に会っても友好的関係を保つこと、緊急の場合以外は武力に訴えないことなどの確認と命令などが読み上げられた。25日陸地が見えるようになり、26日夕刻那覇沖合に到着、マカオから来たサラトガ号と合流して入港した。

今回から角川ソフィア文庫『ペリー提督日本遠征記(上)』kindle版、原文参照にはインターネット・アーカイブのPDFを利用することにした。(2018/7)














2018年7月14日土曜日

読書閑談 ペリー日本遠征記(その3)拾い読み

読みやすくて気に入っていた角川版のペリー遠征記、図書館へ行って借り出し延長を頼んだら、残念、予約が入っていた。遠征記の続きを読むには当面古めかしい岩波版に逆戻りするほかはない。とにかく序論部分は通過したから、しばらく航海の記録を楽しもう、というのは早計で、海事については疎いから、読んでもわからないことを調べる楽しみだ。いくつか翻訳が出版されているペリー遠征記には抄訳が多い。出版社は、読者としての日本人は、日米の交渉そのものに関心が向いていると考えるからだろう。江戸湾に入っていく記事が始まる第12章までは省略されている版もある。それに対して私の関心は、そこに至るまで長々と克明に述べられている森羅万象にも向いている。さいわい岩波版は言葉遣いは難しくても記録されたすべてが翻訳されている。正直に言えばこの翻訳の日本語には理解できないものもある。そういうのは原文で考えるか、角川版の翻訳で補うことにする。原文参照は今まで参照したe-Pubはスキャナーによる読み違いが多いから利用をやめた。かわってInternet ArchiveというフリーサイトのPDFを読むことにした。

第1章にはアメリカ国内で日本遠征が議論されるようになった背景事情と遠征計画が提案・決定されてペリー提督が出発するまでの状況が概括されている。
1848年にメキシコとの戦争が終わり、締結された条約によってカリフォリニア地域がアメリカに帰属することになった。この土地が太平洋に面していることで人びとはまず商圏が広がるだろうと考えた。アメリカが大西洋から太平洋にまたがって位置することは、ヨーロッパからアジアへの道筋にあたる。蒸気の時代にあって、東アジアと西ヨーロッパを結ぶ最短ルートになれば、それは世界の街道になるに違いない。時を前後して、この土地が金を産出することが知られたために、こういう発想がいよいよ膨らんだのである。シナが好んで自国を「中国」(the Middle Kingdom)と呼ぶように、アメリカこそ「中国」というにふさわしい、とまで書いている。

私たち日本人は、真ん中に大きく太平洋と日本、右端にアメリカ大陸が描かれているような世界地図を見慣れているので、ここに述べられている西ヨーロッパから東アジアへの道筋という概念を直ちには思い浮かべにくい。そして彼らが、すでにその半世紀以上も前から喜望峰・インド洋経由で中国貿易を行っていた事実を知らなければ、そのルートが最短になるという明るい希望にまでは考えがおよばない。アメリカ人はそれまでも大西洋を横切る距離だけイギリスに負けていると認識していた。
彼らがあらためて太平洋の彼方にみたのはシナであって、日本ではなかったことがこの章から読み取れる。蒸気の時代の最短ルートとなれば、蒸気船の石炭の入手がまず課題になる。シナに行くまでの中間のどこに石炭があるのか。どうしても中間に石炭補給港が要る、となって日本が浮上する。さてその日本だが、知らないわけではないが、日本の中の情勢がわからないのだ。この部分の訳文には、原文の表現「 terra incognita in Japan」をもって未開国としているが文意を表していない。ペリーは資料を沢山渉猟して研究している。シーボルトの『日本』も全巻読んでいる。文化のある国と知っているが、外國に戸を閉ざした理由を知りたいと、調べた。ヨーロッパ諸国の過去の交渉と失敗も知った。序論に述べられてあるとおりだ。アメリカはまだ無傷だ。なんとかなりそうだ、との気分でなかったか。
ペリー提督は日本に開港を求める交渉をすることを提案して、政府に受け入れられた。その使命は最終的にはペリーに委ねられて全権を与えられた。避難港と石炭補給地を確保すること、可能ならば、平和裡に通商関係を開く努力をすることが使命になった。技術士官だったペリーは職業的な意向から、麾下の海軍士官に科学的観察と研究を行う機会を与えて将来の科学者への道を開くことも計画した。当時陸軍ではすでに多数の科学者を育てた実績があったのに比べて海軍は遅れていた。
日本遠征計画が1年前に公表されると、随行希望が殺到した。軍律に従う要のない民間人はいっさい断った。なかでも、フォン・シーベルトは関係者を通じて懇請してきたが、日本の法を犯した事件に関わって国外追放された人物であるため断固として拒否したことは特筆されるべきとある。
10隻以上の艦隊編成計画は艤装整備の進捗が遅れに遅れた。プリンストン号は期待された新しい機械が不調でポウハタン号に替えられた。数隻は東インド艦隊の駐在地にいる。その場所は明らかにされていないが、だいたいインドネシア海域らしい。提督は全部が揃うのは待ちきれず、どこかで一緒になれれば良しとして、お気に入りのミシシッピ号だけで出かけることに決めたのだった。他の資料によれば、ペリーはアメリカ海軍に蒸気船の採用を勧め、この艦の建造から関わっていて知り尽くしていたという。
ミシシッピ号:建造1841年、外輪船、排水量3230トン、蒸気機関、速力8ノット、吃水19ft(5.8m)、兵装10インチ砲2基、8インチ砲8基。
ミシシッピ号の経路
1852年11月24日、ペリー提督はミシシッピ号単艦でノーフォークを出港した。太平洋に石炭補給地をもたないために航路は外回り、すなわちマデイラ、希望峰、モーリシャス、シンガポールを経由する。
少し横道にそれながら第2章の記事を追う。

蒸気船について。
先のことを言えば、上海で旗艦の蒸気船サスケハナ号に移乗して、ミシシッピ号とともに、汽缶を持たない帆船サラトガ号とプリマス号を曳航して4隻で浦賀沖に入っていった。この時代、後にも出てくるが、蒸気船と帆船の混合艦隊では戦列編成には曳航が常態であったようだ。
帆船しか見慣れていない日本人は蒸気船を見てびっくりした。しかも真っ黒だ。黒は不吉だ。じつは外装が黒かったのはコールタールを塗っていたからで、実は木造船だったための防腐目的だった。序論にでてきた長崎でのフェートン号事件。強引に入港したイギリスの武装帆船を追い払う策謀は焼き討ちにする計画だった。相手が木造船なればこその作戦だ。これは実行される前にフェートン号が出港してしまった。木造船をやっつけるには燃やすに限る。
黒船を見て慌てて築いたお台場に大砲を据えたが、当時の日本の大砲が撃ち出す弾丸は、ただの鉄の玉で爆発はしないから目標を毀すだけだった。黒船の大砲が撃ち出す弾は爆発したらしい。

蒸気船は外輪の水掻き板で推進する。外輪の構造は日本の田舎でよく見られた水車と同じだ。板で水を掻いて進む。よく考えてみると、水車の全体が水の中だと下半分が前に進む力、上半分は後ろに行く力が働いて、結果としては前に進めない。だから外輪船は水車の上半分は水上にある。水車を回す動力は蒸気機関、水を蒸気に変える熱源には石炭を使った。初期の蒸気船は帆と蒸気動力を併用した。いまでいうハイブリッドだ。ミシシッピやサスケハナはこの型だ。帆走するときには、水かき板が抵抗力になってしまうから引き上げる。脱着作業は波の穏やかなときに行うなど条件があるうえに、時間がかかったようだ。蒸気船で先行していたイギリスは簡単に脱着する方式を間もなく開発したが、アメリカ海軍は、ようやく蒸気船を採用したばかりで、そこまでの装備はない。帆走と機関による推進力を使ってどのように操縦したのか、航海を専門とする記録ではないから。そのあたりはよくわからない。けれども海域ごとの潮流の様子や季節の風向きはペリー自身も記録していた。蒸気船による航海資料は、アメリカ海軍総出で蒐集中だったかも知れない。記録された資料は遠征記の本記には載せなくとも付帯された3巻のうちには含まれているはずだ。
汽罐はミシシッピの場合、12基据え付けられていた。最高出力毎時8ノット、平均7ノットで航行している。1ノットは約1.852km/h。ミシシッピは1日26トンほどカンバーランド石炭を消費したとある。カンバーランドはアメリカの石炭産出地、または積み出し地を指す。

マデイラ島
ノフォークを出てすぐに航路は大西洋を横断する。最初に見る陸地はマデイラ島だ。出発後17日目、12月11日。石炭と水を補給する。
マデイラ島にて
海軍長官への手紙
マデイラに停泊している間に、提督は自分の任務について計画と見通しを国務省に示すべきと考えて海軍卿宛てに書き送った。その内容が航海記事の間に置かれた手紙の写しで判明している。
日本遠征の目的は、まずフィルモア大統領の親書を手渡し、難破船員の救護と 食料、水、石炭供給のためのアメリカ船の入港を求め、更に出来れば交易のための開港を望み、こ れらを条約にまとめることであった。砲艦外交という言葉がペリーの来訪に際してよく使われるが、国務省からは厳然たる実力の誇示を背景として行うよう指示が出ていた。ペリーは武力行使は避ける意向だった。この手紙にも、もし日本が本土に避難港を設けることを拒否するなら南の島々にそれを求めようと書いている。具体的には琉球列島の名を挙げて、支配者の薩摩候によって武装を認められていない島に避難・給水の港を獲得して、穏やかに、思いやりある態度で接すれば住民の心を開いて、いずれは交流を可能にすると記している。
避難港には食料供給の能力が必要であるから、そのためには作物栽培能力を増やすこと。当艦には園芸種子を準備してある。さらに耕運機、脱穀機など簡単な農具を供給すればなおよい。オランダ人の陰謀・誣言を暴き、日本人の知識を開くため、世界やアメリカの民情、政情を示す印刷物その他刊行物。活字と材料を備える小印刷機。このようなものを用意したい。日本人は言語に関心深く、翻訳は問題ない。こうして予め避難・給水港が確立され、労働、食料の対価支払いに不平等のないようにすれば自ずから親睦も可能になる。日本政府との親しい理解が生じるなら、円滑な関係が進むであろう。
そうなれば、カリフォルニアとシナの間を往復する船に安全が得られる。イギリスの「併呑」策がまだおよんでいない日本はアメリカにとって重要な通商路の途中に横たわっている。避難港を獲得することは急務であると述べてイギリスへの対抗を明瞭にしている。
1852年12月14日、マデイラにて、と締めくくっている。
注釈にいわく、長時間かかってペリーのもとに届いた国務省の回答には要望された農機具、印刷物、印刷機などを調えてヴァーモント号で送るとあった。
国務省のいう厳然たる実力の誇示について、実際に江戸湾内にあっては、然るべき交渉相手が出てくるまでは、日本の立ち退き要求に頑として応じないで、ペリー自身は姿も表さず、黒船の威容をもって圧力をかけつづける演出をしたのであった。一説には、日本のお偉方は勿体を付けて最後に姿を見せる習慣があることを、ペリーが逆手に取ったのだとするがどうだろうか、なかなかのユーモリストでもあったようだ。

さて、私たち読者もマデイラ島をゆっくり見てみよう。当時は保養地、いまも観光地として人気がある。
このあたり岩が多い上に冬場は風が強くて、碇泊には苦心する。12日夜にようやく碇泊できた。石炭と水を受け取るのに、供給側の仲買人が希望した港に近い岩影の碇泊地は、提督が地勢を観察した結果、出航の際には蒸気船でさえも困難があることに気がついて拒否したということがあった。それほどうねりと風に悩まされる島だが、非常にきれいな風景で、雨季が丁度過ぎたために渓流が美しい滝となっているのを船から見ることができた。主要産物はぶどう酒、また保養地としてよくイギリス人が多く利用するという。記述によれば港町フンチャルの街路は舗装されていて、車輪付きの輸送車の使用が禁止されている。まだゴムタイヤがなかった時代だ。島を訪れた人は最近まで輿(原文にはsedan chairsとある)やハンモックを利用していた。原著の挿絵にみえるハンモックは二人の男に前後を担がれたハンモックに仰向けに寝そべって運ばれている。病人ででもなければ、あまりお世話になりたくない乗り物だ。これらの乗り物は不便なため代用物がつくられた。それは重い荷物やぶどう酒の樽を運ぶソリで、上に華やかな飾りの車体がついていて牛に曳かせる。他の乗り物には馬もロバもある。坂が多いこの島の道路にはロバが一番適していそうだ。
この記事を読んで私は現在のマデイラ島、フンチャルをインターネットで観光してみた。なんと今でもソリがある。柳行李のような材料で作られた籠の箱に二人用の座席がついている。トボガンというが、これは明らかに観光用だ。操縦(?)は男二人が曳いたり押したりで乗客を運ぶ。観光客が写して投稿した動画もあって愉快だった。もちろん現代のことだからバスも自動車もある。なかなかの風景美、リスボンから空路1時間45分。残念ながら行きそびれたなぁ。
マデイラ島の乗り物;ハンモック(左)とソリ運搬(右)
テネリフェ近辺の貿易風帯の変化観測を特に記録。
12月15日、本艦は錨を揚げて、17日にはカナリー諸島西方を航行している。間もなく北東貿易風の吹く海域に入ると期待して、両舷の水かき板を引き揚げ、汽缶の火を落とし、完全に船は帆にまかされた。
12月22日に提督はお触れを出して、艦隊の行動に関して故国の公刊物へ通信することを禁じ、また友人あての私信を通じても報告を禁止した。これは海軍長官の命令なのだ。隊員の日記すらも海軍省によって許可あるまでは政府に属するとされた。その半面、乗員の将来、研究者などへの道筋を考えて、乗員全部に航海中に得ることができる資料を収集し研究することを奨励する。こうして科学的な訓練指導を行った。

カナリー諸島、パルマ、イエロ島、フェロ島、テネリフェ、ブラヴァ島、フォゴ島。本船がケープタウンに向けて南下する途中の記事にはこういう島々がある。地図の上で頭に入れないと、なにか落ち着かないからグーグルマップで調べる。
余談になるが、グーグルで島名を入力しても大洋の青色の中に何も表れない。目星をつけたあたりをどんどん拡大してゆくと、島が現れ、作業を続けると地形や集落などが見えるようになる。これは面白く楽しい経験だった。
どれも皆、絶海の孤島のような感じがするが、それぞれに町があり人が住む。ホテルもあったりする。そこへ行く空路を調べたり結構楽しい。こういう島の名前をつなぐ文章では風向きや潮流について、いつどのように変わったかとかが書いてある。煩雑であまり面白くない。こちらがそういうことに慣れない人間だから仕方ない。それでも潮流を調べている人にはどのへんの緯度で何がどうなるということは大事なことのはずだ。

ハーマタンというサハラ砂漠の塵を巻き上げて吹く強風についての記事もあった。ときにはモヤと思えるほどの風。ケープ・デ・ヴェルデ諸島付近でみられる。12月30日まで北東貿易風が吹き続いた。それが変わる方向やうねリが起こる様子が興味深そうに述べられてある。
「29日に北東貿易風は弱くかつ不定になり、、時々は静まったので、水かき板が再び車輪に取り付けられて船は蒸気で運転されたが、わずかに後方の蒸気缶二つを使用しただけであった。軟らかい風と穏やかな海ならば、この二つで1時間7ノットの速度を出すに十分なことが明らかとなった。けれども追波を伴う南東貿易風が全く落ちてしまったとき、速力は4ノット半ないし5ノットに減じた。けれども、更に二つの蒸気缶を使用し毎日石炭26トンを消費して、たちまち速力は7ノットに達した。」「蒸気船にあっては、風のために起こされる高波に阻まれるようには逆風によってその運動が阻まれない」、「穏やかな海上にあっては汽船がやや勢いのある軟風に逆らって比較的速く進行することもしばしばある。なぜならば、前方から吹いてくる風は、罐の通風を増してくれるからである」
このような記述や、その後にも海流と風向、水理学上の理論と実際など述べられている。このような観測・実験記事は、これまで帆船が往来していたこの海域を今後蒸気船が代わるについて調査資料を収集・研究するためだろう。

貿易風が予想より早く止まってしまったため、喜望峰まで直行の予定を変えてセント・ヘレナで念のために石炭を入手することに決まったとある。この島はずっと長くそういう役割を務めてきたようだ。寄港するからにはナポレオンの後を偲ぼうということにもなるらしい。
1853年1月10日正午、セント・ヘレナのジェームスタウンに到着した。1502年にポルトガル人によって発見されたこの島は、オランダ人とイギリス人の領有が二、三度交代し、1773年からイギリス東インド会社が所有して1833年に会社からイギリス皇帝に移譲された。町の人口2,500とある。気候がよく、作物、水産、牧畜に恵まれた結構な島だ。会社によって道路・設備も行き届いている。牢獄とは思えないこの島だが、ロングウッドにある百姓屋のような建物のみすぼらしさは地上の栄誉の無常を感じるに十分であったようだ。
セントヘレナの古い家

提督はナポレオンが居住した当時に構築された島の防備体制について検討し、帆船の時代には風と潮流の助けも借りて難攻不落であった島の防御態勢も蒸気船による攻撃には対抗できないことを、具体的な戦術を展開して論評した。蒸気力がもたらす世界情勢の変化がどれだけ重大なことであるかを一例をもって示したわけである。この章の初めの項目見出しに「ナポレオン奪回作戦?」と銘打ってあるのが愉快だ。もちろんナポレオンはこの30年前にここで亡くなっている。
1月11日午後6時、希望峰に向かって出帆した。

第2章はここで終わるが、私はまだ、ここに至るまでに文章化しなかった記事の細部を苦心して読み続けている。
第3章以降の記事に含まれる経路と日時を次に紹介しておこう。
 マデイラ島(12月11日 - 15日)第2章
 セントヘレナ島(1853年1月10日・11日)
 ケープタウン(1月24日 - 2月3日)第3章、
 インド洋のモーリシャス(2月18日 - 28日)第4章、
 セイロン(3月10日 - 15日)、
 マラッカ海峡からシンガポール(3月25日 - 29日)第5章、
 マカオ・香港(4月7日 - 28日)第6章
 上海(5月4日-23日)旗艦サスケハナに変更。
(2018/7)