2018年7月23日月曜日

読書閑談 ペリー日本遠征記(その4)気ままに拾い読み

第3章から第6章 那覇入港まで

第3章には希望峰を目指してと題されて、まずセント・ヘレナからケープタウンまでの航路と海の様子が述べられる。
当初の提督の考えでは、マデイラからケープタウンに至る蒸気船にとっての最良の行程は、石炭が十分にあれば、ヴェルデ岬からまっすぐアフリカ沿岸のケープ・パルマスに向かい、それから海岸に沿ってテーブル湾に至る航路であった。ところが途中で、風の具合が思わしくなくなったために、念の為に石炭を補充したほうがよいとの判断にしたがって舵をセント・ヘレナに向けたのであった。
ところが、ジェームズ・タウンを出帆してみると、南東貿易風と逆波の速い流れが進度を阻害した。蒸気力を増やすのはたやすいことであったが、この船の効率は一日あたり石炭26トンで最大になることがわかっていたし、この海域での石炭の入手が難しいことと、値段や積み込み費用と荷役時間を計算すれば、石炭を多く消費するより速度を上げないほうが得策と考えられた。だからそのようにして進んだという意味の文章。

この海域での石炭入手の可能性については、イギリス 人 が セント・ポール・ド・ロアンゴ に、 アフリカ 海域 の 蒸気 巡洋艦用の石炭貯蔵所を設けている 。ある英国会社がヴェルデ岬諸島のセント・ヴィンセントのポート・グランドに石炭貯蔵所を設けて、立ち寄る蒸気船に妥当な値段で供給されるという。
以上調査の結果として。いまのところ、アメリカ船が確実に石炭を補給できる保証はない。それなら、合衆国を出港する蒸気船に先立って、まず石炭船を先に送リ出すことだ。と、ここに書きながら実は、遠征隊のアメリカ出発に先立って2隻の石炭輸送船を送り出したことがのちに明かされる。
最良の航路は、マデイラからセント・ヴィンセントを経て、ケープ・パルマスを通り、海岸沿いに南下してケープタウンに向かう。海岸沿いの航路をとれば、陸からも、海からも微風であり、海流も都合よく南向きである。
今回は、こののち、ケープタウンでファニュール・ホール号から石炭の補給を受けた記述がある。
訳文に表示された地名・島名はグーグル地図ではそのままの検索では見つからないことがある。例えば、ヴェルデ岬とあるのは、原文にCape de Verd islandsとあり、現在ではポルトガル発音のカボ・ヴェルデで通用している。1975年にこの名称の共和国ができた。遠征記の当時は一群の島々を指す。
セント・ヴィンセントは、サン・ビセントで見つかる。セント・ポール・ロアンゴは遂に見つけられなかった。パルマス岬はリベリアにあるチッチャな岬だ。

1月24日本船はテーブル湾のロベン島と本土の間を通過して碇泊する。この島はハンセン病患者の隔離と政治犯を収容する刑務所であったが、1853年当時はどうだったのだろう。マンデラ大統領も27年の獄中生活のうち18年間をここに収容されていた。1999年、人種隔離政策の記憶を伝える負の世界遺産になった。ケープタウンの記事を読んでいる折も折、7月18日は生誕100年に当たり各地で記念の催しが行われた。この読書のいい思い出になりそうだ。
ケープタウンは1650年にオランダ人によって建設されたが、1759年にイギリス人の手に渡り、アミアン和約のあとオランダに返還された。遠征記は1806年以後イギリスに占領されて今日に至っていると書いている。アパルトヘイトの問題はまだ先のことだ。
暑さと強風とホコリの町、あまり楽しくなさそうだが、町は繁栄している。ケープタウンの人口は22,500、それを除いた植民地人口は20万、うち白人は7.6万、有色人種10万人とある。原住民のホッテントットはもはや純粋種はいなくなったとか、ヨーロッパ人に滅ぼされた原住民はわずかにブッシュマンが残っているとある。ホッテントットは子どもの頃よく耳にした。ブッシュマンとどちらもいまや差別語になった。
「しかし、我々アメリカ人には、他国の国民が、征服した国々の、原住民に加えた非道を罵る権利はない。厭わしい偽善でその行為を取り繕うイギリス人に比べればまだしもましかも知れないが、我々も土着の原住民を欺き、残忍に扱ったことについては彼らと大差はないのである」(ペリーのことば)。

2月3日午前11時出港、18日、モーリシャスのポート・ルイス着。途中難しい風向と採るべき針路についてサスケハナ号の記録と比較して最良航路を探っている。とにかくアメリカ海軍では蒸気船の経験がまだないからいつも調査しながら進む様子がみえる。
英海軍のステイクス号と遭遇したときの相手船の外輪操作に触れている。同船は帆で進んでおり、エンジンから切り離された水受けを全部付けたままの外輪が船の動きに連れて回転するにまかせていた。イギリスの蒸気艦はしばしば燃料の節約のために、簡単な操作でエンジンから外輪を切り離す。この接続と切り離しの作業はわずか2、3分で完了する。 合衆国海軍の蒸気艦の場合は、エンジンを取り外すことがほとんど不可能であり、帆だけを使うための実地の方法といえば、水に浸かっている水かき板を取り外すしかない。この作業は穏やかな天気のときしかできないうえに、約2時間を要し、再び取り付けるにはその2倍の時間がかかる。このことだけでなく一般的にアメリカの艦船が各国に遅れを取っていることを嘆いている。

ポート・ルイス港ではハリケーンの猛威に耐えられるよう水先案内人が活躍し、すべての入港船舶が係留用の錨に軍艦用の鎖で繋がれる。強風の脅威と戦いながらも、知識と絶えざる気配りによって見事に管理されている港湾運営を称賛した提督は港務長のイギリス海軍大尉に感謝の覚書を送った。

第4章モーリシャスからセイロン、シンガポールへ。
モーリシャスと隣接するブルボン島は1505年にポルトガル人によって発見され、のち、オランダ人、フランス人、イギリス人と領有が代わっている。ペリー提督が訪れたのはイギリス領時代である。ブルボン島は正確にはレユニオン島と改名されていたはずである。記事は気象条件と植生に触れ、近年大増産中の砂糖を特筆している。しかし、農園労働の人手不足は1833年のイギリス政府の奴隷制廃止以後、植民地各地の共通問題であった。モーリシャスの農業労働も黒人奴隷がいなくなった。それに一般的に黒人は働きたがらないのである。しかし当地では移民でクーリーと呼ばれる労働者がそれを補って港湾荷役と農園労働に従事していたとある。クーリーとあるだけで人種は書いていないが、ふつうはインド人とシナ人をいうはずだ。
島の全人口は18万人、そのうち10万人近くがマダガスカルやアフリカからの黒人、マレー人、マラバールからの漁師、ラスカル人(インド人船員か)、シナ人とある。白人は9千ないし1万人。大部分はフランス系のクレオールという。そして役所関係のイギリス人。

モーリシャスといえば『ポールとヴィルジニー』の悲しい物語があるそうだが、どれくらいヒットしたものやら、私は縁がない。遠征記には、この物語はフィクションで、題材はここの港で遭難したフランス船サンジェナール、ときは1744年8月14日、作者は当地に在任したフランス士官だったと明かす。遭難者の中には二組の恋人らしい男女がいたのは事実だそうである。大いにもてはやされた物語にあやかって、さる別荘の持ち主が亡き恋人たちのための記念碑を庭園に作った。自分の別荘に人寄せの名物を付け加えた人物はもてなし好きだったそうであるが、100年以上も経って訪れたミシシッピ号の乗員たちには、荒れた墓碑があるだけで挨拶もなく、ちゃっかり見物料をとられたそうである。ちなみにセントヘレナのナポレオンの墓でも見物料をとっていたそうで、こういう習慣はイギリスのものだと書いてある。

モーリシャスでは12月から4月までの期間はもっぱらサイクロンやハリケーンが話題になるという。ネットで調べてみると次のようだ。どちらも熱帯低気圧、発生場所によって名前が違う。サイクロンはインド洋北部または南部、太平洋南部、ハリケーンは大西洋北部、太平洋北東部、太平洋北中部。日本人に馴染み深い台風は太平洋北西部で発生する。
ミシシッピ号はサイクロンの季節にセイロンに向かおうとしている。数名の経験ある船乗りの勧告に従って、150海里迂回する次の航路をとった。「カルガドス諸島の西を過ぎ、アガレガ島とラヤ・ド・マーラ砂州の間を抜けた。それから砂州の北端を回航し、モルディヴ群島の南端であるポナ・モルクに向かって東に舵を取り、そこを過ぎると、セイロン島のゴール岬を目指した。」

ここで再び石炭の話が出る。「合衆国を出発する前、提督の提案に従って、ニューヨークのホーランド・アスピンウォール商会は石炭を積んだ二隻の船を、一隻は希望峰に、もう一隻はモーリシャスに向けて出発させていたが、結果的にこの措置は賢明だった。」これがなかったら、後続のポーハタン号とアレガニー号は燃料調達に多大の困難をきたしただろうと書いている。
約500トンの石炭を補充したミシシッピー号は2月28日にポート・ルイスを出港し、モーリシャスで積み込んだ石炭でシンガポールに達することができそうなら、シンガポールかゴール岬(セイロン島)のどちらかに寄港して燃料を補給することにした。
13日後の3月10日夕方にゴール岬に着いた。セイロンの名は遠くなった現代でもスリランカの港はコロンボだ思い込んでいるので、ゴール岬といわれてもピンとこない。英語表記はPoint de Galle、コロンボの100kmあまり南にある。歴史のある港のようだが、調べればわかること、先を急ごう。ゴール岬の港はイギリスーインド間の郵便汽船の共同集結地で、紅海との往復だけでなく、喜望峰回りでインド・中国に行く船も寄港する。大量の石炭がイギリスから運ばれて貯蔵されているが、立ち寄る船が多いため、時には不足することもある。そのためオリエンタル汽船海運会社は外国軍艦には1トンたりとも供給してはならないと厳命を出しているので、ミシシッピ号は政庁から僅かな供給を受けただけだった。ここでも先回りの石炭船計画が図に当たったことがわかる。
この港町では、スコットランド生まれの合衆国通商代理人が債務不履行で処罰され自宅監禁されていて、提督と士官たちは面目を失ってきまり悪い思いをした。原因は合衆国の領事制度に不備があるためであり、不適格な人選と衣服費をまかなうにも不足する報酬ではやむを得ない面もある。何やら西部劇のシェリフの安直さを思い出す。
ここの歴史についてはポルトガル人による発見のあとオランダ、イギリス、フランスの争いが続き、1815年以降は住民の要望により全島がイギリス国王の領有になったと書く。不幸なシンハラ人に対して誰が最も残忍な圧政を行ったか判断するのは難しいが、どの支配者もおのれの欺瞞と背信に言い逃れはできまいと痛烈である。ヨーロッパ人が来る前は自然が美しく、産物が豊かな島であったのにと残念がっているのは、明治の岩倉使節団一行が東南アジアに来てみて、ヨーロッパ人の実態を見抜いたことを思い起こさせる。島の産業について自然の恵みの豊富さの割に産業が発展しないと報告される。魚・米・ココヤシを常食とする島民がそれ以上求める必要がないからという皮肉な理由が挙げられる。まさに天国のような土地柄であれば、資本主義だの商業主義だのといわずに、そっとしておきたい気分になる。
野生動物については象の多さに触れ、象刈りの話が面白いといえば象に悪いが、あまりにも多いのに驚く。ライフルでの倒し方も教えてくれる。インド象よりは小型で牙を持つものは少ないそうだ。尻尾一つ持っていけば、7シリング6ペンスの報奨金がもらえるという話は昔の日本のネズミ捕りみたいだ。
蛇は20種類しかいないというが、それだけいれば十分だろうに、こっちは蛇が大嫌いだ。アナコンダ、ボア、ニシキヘビなど、人が乗った馬を丸呑みしたとか、話のタネだけの言い伝えもあるが、鹿を丸呑みして腹がふくれて簡単に捕まる話もある。落語の蛇含草はここにはないらしい、とは私の勝手な付け足しである。真面目な話では毒蛇に噛まれたときの応急処置が紹介されている。
セイロン島の人口144万余、うち白人8275人、141万人余が有色人種、2万余りが外国からの居住者とある。暮らしと言語、宗教も簡単に触れている。原住民を原文ではアボリジニーと表記してあるが、話すのは独自のことばで、書くときにはサンスクリットかパーリ語を用いるとある。特記事項としてシャム軍艦との遭遇のことが記され、1836年に結ばれた条約が死文化されていたのを復活させるべく交渉したと記録されている。

3月15日シンガポールに向けて出港した。大ニコバル島とスマトラ島北端にあるプラウ・ウエーの間を通過して、マラッカ海峡に入る。難所で知られる同海峡も夜間に一度投錨しただけで無事に抜けたようだ。海峡通過中イギリス軍艦と礼砲を交換した。3月25日シンガポール入港。

第5章シンガポールから中国海域へ
数年前に自由港とした方策が大成功して一大商業港として繁栄している港の状況を記している。シナの交易は注目すべきだ。ジャンク船によって行われるが、彼らは北東モンスーンに乗って訪れ、茶、絹などを小売しながら港内にとどまり、南西モンスーンが吹き始めると戻って行っては次の航海に備える。彼らが持ち込む積み荷は大量のシナ人移民、多額のドル、茶、絹、磁器、煙草、桂皮、南京木綿、オウレン(薬草)、精巧な細工物など大量、持ち帰る品々はアヘン、ツバメの巣、ヨーロッパ製品などである。街の様子を述べた部分で港に面した住宅に比べて、マレー人やシナ人の粗末な住まいが目をひいた。郊外の道路や小路に近い沼沢地を選んで、杭の上に木造の家を作り、出入りのために一枚の板を渡すのだ。この方式は150年後のいまでもブルネイなどの海岸に見られる水上住宅と変わりないことに驚いた。ミシシッピ号が訪れた当時の人口は8万人だそうだが、イギリス領有前は200人だったという。シナ人は6万人をくだらないそうで、その他はユダヤ人、マレー人、アラビア人、近隣諸国の土着人という。ラッフルズの優れた手腕によってこの地を領有できたイギリスと東インド会社は、その手順が公正であったことは特筆されるべきと強調している。ラッフルズはジョホールとシンガポールのラジャからこの島の主権と領地とを規定の金額と年金とによって購入し、その支払も適正に行われてきた。これは一般に、立派な国々を暴力によって平然と奪い取り、住民を隷属状態に置くヨーロッパ政府の中で、極めて稀有のことであるとしている。
シンガポールはイギリスの郵便船にとって、寄港地、また石炭貯蔵地として重要な拠点である。積極的な東洋汽船海運会社は町から2マイル半のところに新港を建設し、巨大な石炭貯蔵所をつくった。シンガポール港では、船舶に必要な大抵の物資が適正な価格で手に入る。水は良質で、港務長が管理している貯水タンクから供給される。
イギリスが領有した当初、島は全く開拓されていなかった。それがペリーが訪問したいまではかなり奥まで開拓されてるが、シナからの勤勉な移民の努力によるものである。
ヨーロッパ産の様々な動物が輸入されている。馬はずんぐりした気の荒い種類で、大きさの割に素晴らしく丈夫である。簡易な馬車に繋がれて利用されているが、台に乗って手綱を取る御者は稀で、大抵が馬の先に立って走っている。これなら自然に馬と人とに仲間意識が生じるから酷使することもなく、動物愛護な観点からは良い方法である。(馬が一歩歩けば人は2歩歩くから、自然に馬に優しくなるとは面白い風景ではないか)。明治以後に同地を旅した日本の作家たちにも馬車に乗る話はあるが、このことは初耳だ。マレーの虎とはよくいわれるが、実際に人食い虎が多くいたことが書かれている。さらに、ラッフルズは虎だけでなく、マレー人のバッタス族という人食い族は互いに食い合う部族だそうだ。それでいて読み書きができ、古代から法典も作っていたから全くの未開人とは言えない存在だ。
遠征記のシンガポールに関する記事は、100年の時を隔てたはいえ、リー・クヮンユー大統領の独立国シンガポールとはあまりにも様子が違いすぎる。

さて、必要な燃料を積み込んで3月29日に出発した。4月6日にはマカオの錨地、更に翌日夕刻香港に錨を下ろした。この間インド洋と南シナ海の海の様子は船乗りには興味深いことのようで、成長の早いの速いサンゴ礁のため変化する水深などの記述がある。
香港に着いてみると、僚艦プリマス号、サラトガ号、輸送船サプライ号が碇泊していたが、政府からペリー提督の旗艦に指定されたサスケハナ号が見当たらない。清国駐在弁務官や公使館付き書記官、広東駐在の合衆国領事などを乗せて2週間前に上海に向かったと聞く。提督は驚き、落胆したと書いてあるが、実際はかなり怒ったはずだ。国務省と海軍当局の仲の悪さの象徴のような事件だろう。とりあえず、サスケハナの指揮官ブキャナンに上海でミシシッピ号を待つよう命令を出した。到着を歓迎する英仏各国士官たちから厚遇されることに触れているが、提督のことばをひいて「長い間の外国での勤務のうち、私が厚遇を受けなかった試しは一度もなかった。実際、合衆国政府を除くあらゆる国の政府は自国の士官たちに公式の饗応に使うテーブル・マネーを潤沢に与えているため、士官たちにとって、その金を使ってもてなすことは義務であり、また喜びであることも間違いない」と記述のあるのは著者の大いなる皮肉であろう。イギリスが領有した12年前には不毛の地であったヴィクトリア市に14,671人住んでいるそうだ。インドと香港の間では大量のアヘン取引が行われており、アヘンは香港に輸入されてから海岸伝いにシナに密輸される。街頭のいたるところにある市場で、中国商人が外国人を呼び込み、巡回商人たちが忙しそうに回って歩く光景が見られる。彼らは独特の服装と奇抜な道具で人目を引く。わが隊の画家は香港の少年理髪師の肖像をいきいきと描いた。

香港を発ったミシシッピ号はマカオを経由して広東河(珠江)の黄埔(ワンパオ)に錨を下ろした。大型船はここまでで、あとはボートで広東に行く。この道程の風景はアメリカ人が絵や話で想像していたものと雲泥の差で、まことにみすぼらしい光景の連続だったらしい。提督の心の広東とのギャップと記している。交易に重要な土地であっても、広東は風景も人心も荒れた土地で海賊や強盗も多く外国人も被害にあう。
第6章 マカオ・香港、上海、そして琉球へ向かう
広東を去る際、合衆国領事フォーブス氏の僚友スプートナー氏のはからいでマカオにある氏の邸宅を3名の士官とともに使わせてもらった。衣食は自前でまかなうが、細々した買い物を頼めばたちどころに取り揃えてくれる。細かいことまでよく気を配り、余分な金は一切受け取らず、ひたすら商売相手を快くもてなす東洋商人の気風だと感嘆頻りである。私はこの箇所を読んで、コンラッドの小説『ロード・ジム』に登場する船長相手のもてなしの 仕事を連想した。上海でも提督が滞在した邸宅の持ち主、このラッセル商会というアメリカの会社は、早くから清との貿易に携わっている会社でアヘンも扱っていたようだ。船長相手どころではない大物らしい。前出のフォーブス氏などもアメリカの富豪に列する人物と考えられる。いずれ調べてみたい材料だ。
4月28日の夕方、ミシシッピ号は再び海に乗り出した。サラトガ号は通訳に任命されたS.W.ウィリアム博士を待ってマカオに残る。上海に向かう途中のシナ沿岸は安全な航路ではないし、上海へ行く揚子江の入り口も砂州が多くて危険である。サスケハナ、プリマス、いずれも軽い座礁を経験した。ミシシッピもパイロットのミスで水路から外れたが、エンジンを使って自力脱出できた。サプライ号はなんと22時間後に風向きが変わって助かった。広くて美しい道路や建物が揃っている景色が紹介される。二つのゴシック風の教会、英国国教会とアメリカのプロテスタント監督派、いずれもこの地での布教の努力の実りとしてキリスト教徒たちに、この信仰の発展への希望を抱かせる、とあるのは、この遠征記の編者が牧師さんでもあったことを思い出させる。
マカオで滞在したラッセル商会の邸宅にここでも世話になった。ソーダ水はお好きですかと丁重に聞かれた提督は、自分の欲しいのはサラトガのコングレス鉱泉のミネラル・ウォーターだけだと答えた。翌朝、その召使いは、なんとその瓶を持って現れたのであった。滞在中ひっきりなしに晩餐会と舞踏会が催され、士官たちはいたるところでこの上なく親切な饗応にあずかった。街の印象は外国人居留地以外は、シナ人街特有であまり良いものではないが、アヘン戦争後の発展は間違いなく進んでいる。道台(タオタイ)というのは知事兼司令官で大変な仕事を受け持っている高官である。挨拶に出向いたために答礼を受けた。大層な服装で身を固め天蓋付きの輿に乗って銅鑼の響きで到来が告げられる。こちらが訪問するときにも輿に乗せられて行列である。折からシナは太平天国の内乱中で事態は刻々と動いていた。提督も関心は深く、1853年5月の日付で洪秀全の主張と情勢を記録している。提督は危機に直面しているアメリカ市民の利権を考慮して、アメリカ人とその財産を守るためと、遠征隊の目的をないがしろにしないように、プリマス号1隻を残すことにした。
アメリカ領事館と上海港

ミシシッピ号は5月4日に上海港に到着し、17日までの間に、旗艦乗り換えや石炭食料等通常の積み込みを行った。今回は特に琉球諸島で使用する予定のシナのキャッシュ(銅銭)5トンあまりも積み込まれた。1853年5月16日朝、ミシシッピ号が、次いで翌日提督がサスケハナ号で河をくだった。プリマスは事変の経過を見るため残され、財産保護の見通しがつき次第あとを追うことになった。出港のときに出会ったカプリス号が加わった。
サスケハナは揚子江河口に到着すると錨を下ろして3日碇泊した。ミシシッピとサプライはその両側に碇泊した。ミシシッピ号に積む予定の石炭を運んできたジャンクが砂州に乗り上げた。―ーそれでどうなったんだ。わからない。
5月23日、那覇に向けて出発した。ミシシッピはサプライを曳航した。航海中戦闘準備の演習と、琉球を訪れたときの艦上の規律、どこで日本の住民に会っても友好的関係を保つこと、緊急の場合以外は武力に訴えないことなどの確認と命令などが読み上げられた。25日陸地が見えるようになり、26日夕刻那覇沖合に到着、マカオから来たサラトガ号と合流して入港した。

今回から角川ソフィア文庫『ペリー提督日本遠征記(上)』kindle版、原文参照にはインターネット・アーカイブのPDFを利用することにした。(2018/7)