2019年3月10日日曜日

百姓と国学と剣客ーー宮和田又左衛門のこと

宮地正人の『幕末維新変革史』では民衆の動向を検討する場合、平田篤胤の国学の影響度が重視される。平田国学が人々のあいだで最も盛んだった地域は東濃と南信地方であったとして、これは「島崎藤村の『夜明け前』の世界」としてとりあげられてれる。次いで盛んだったのは東国の下総相馬郡であったとする。ここでは平田国学の動向と時代の関係は本書に譲り、読み物的に面白かったことをひとつ取り上げる。本書下巻、「第33章 幕末期の東国平田国学者」の内容は宮和田又左衛門充胤という人物とその一家のことで占められている。用いられた史料は、宮和田保編『宮和田光胤一代記』非売品 2008年、と注記されている。

宮和田又左衛門充胤(文化13(1816)年-明治21(1888))。この主人公の名は幕末史に詳しくない人にはまず知られていないだろうし、多少知識のある人には、足利三代木像梟首事件(文久3 (1863)年)での宮和田勇太郎や、大村益次郎暗殺未遂事件(明治2(1869)年)の宮和田進が思い出されるだろうと著者は述べている。
勇太郎は光胤の実子、進は養子だが、この二人がしでかした事件はサムライの仕業にみえる。では宮和田親子はサムライだったのかといえば、全くそうではなく百姓の身分であった。これは百姓の宮和田又左衛門の物語である。
下総国相馬郡宮和田村、今日では茨城県取手市藤代町に編入されている。物語のそのころ、下総と常陸の国ざかいは利根川ではなく、まだ小貝川だった。小貝川は名だたる暴れ川であって流域一体は長年氾濫原であったが、1620-30年代の大改修工事の成功によってようやく開発され、水田地帯に村々が成立していった。

小貝川や利根川のもたらす洪水は、これで一段落したわけでなく今に至ってもなお続いている。現在では台風や大雨によって堤防決壊などが繰り返されるが、その被害が河川の沿岸に限られるように変化しただけである。昔は利根川水系の洪水は江戸市中まで被害がおよんだそうだ。

寛永期より宮和田村の名称が出現するが、それは開発地主、宮和田氏の姓が村名になったからである。当然宮和田氏は郷士・名主となる。
又左衛門が剣を握ることになったきっかけは、弘化3(1846)年の関東一円の大洪水にあった。数十年に一度という大水害で村全体が海のようになった。又左衛門初めての経験であったが、名主としては村の百姓を翌年の収穫まで食い継がさなければならない。これ以前、領主旗本内藤家(総高4500石)は支配村々五カ村から、屋敷替えのため2000両を上納させていた。又左衛門は百姓救済のために屋敷替えを延期して上納金を下戻すよう出願する。ところが内藤家では、この金を貸付資金にして利子を稼いでいたため具合が悪く、逆に又左衛門を江戸屋敷に召喚して不正の件ありとして投獄してしまった。家は閉門処分にされ、祖母の重病にも対面が許されず、翌年の死にも帰宅が許されなかった。又左衛門は幼くして母を失ったので、この祖母が父親と相談して名主の家を継げるよう厳しく育ててくれた大恩があるのだ。12月から翌年4月まで入牢させられた上に30両を納めて帰宅を許された。怒り心頭とはこのことであるが、帰宅して不正の筋と言いがかりをつけられた件を調べてみれば、逆に内藤家に680両もの貸付があることが判明した。幕府に訴えでたが、役人どもは結託して言を左右し、埒のあかぬままその年も12月になった。これで、地頭糾弾も手立てがなくなったと自覚した又左衛門は、この上は、なんとしても内藤一家を切り殺して、自決するほか道なしと思いさだめた。おりしも、嘉永元(1848)年12月9日、水戸藩剣客跡部主税之助が宮和田の家に泊まったとき、主税之助に本心を打ち明けて、率直に質問した。
 「幕吏共不正わいろ送答むつび合い、えこひいき、如何共致方なし、此上は相手も其旗本の一人なり、又用人共迄一家一類切り尽し、快く割腹と決心致し居、壱人にて幾人位い切り殺せ出来べくや」と。

相手は剣客、いとも簡単に「稽古次第」との一言。この一言で剣術を稽古し始め、やがて江戸の千葉周作の玄武道場館に入門、一人息子の勇太郎も嘉永2年11月より千葉道場に入門させ、父子ともにメキメキと剣術の腕を上げていった。
著者いわく。「非法非道な領主への百姓又左衛門の憤怒は幕府倒壊まで決して消えることはなく、領主は又左衛門に精神的に見限られたのである」と。
他方領主殺害の場合、連座制により息子に累が及ぶことを恐れ、勇太郎の保護を水戸藩士に依頼する。百姓としては家を存続させなければならない。嘉永4年1月、又左衛門は勇太郎を水戸藩士で千葉周作の高弟、北辰一刀流の使い手、海保帆平に預ける。また勇太郎に対しては、筆道を秋山長太郎に、漢学を会沢正志斎に、習字を東湖の高弟原田成之助に学ばせた。これ以降、万延元(1860)年海保塾を離れるまで、宮和田勇太郎は水戸藩士の庇護のもとにあった。

又左衛門の剣の筋が良かったため、嘉永3年からは近辺の村々の人々を門弟として取り立て始め、安政元(1854)年には宮和田村に文部場という道場を建てるまでになった。さらに安政4年からは江戸日本橋近く、ヘッツイ河岸に道場を進出、諸藩のサムライ、旗本の家来、町人や大店の奉公人などにも教え、史料のある文久3(1863)年までに、江戸と在方あわせて300人以上の人々を門弟にしている。こうした道場の経営にもなかなかの才能を発揮していた。
又左衛門のような豪農には元来鋭い経営感覚が求められた。義兄弟の関係を結んでいた川崎長左衛門という旗本用人がいた。元来宮和田村の少し北、牛久に所領を持つ旗本由良家用人だったのが、安政4年には1500石の旗本で典薬頭今大路右近の用人となっていた。ところが上総の所領で5年越しの村方騒動があって、安政2年の江戸安政大地震で破損した今大路家江戸屋敷の修理も出来ない窮状、困りぬいた長左衛門が又左衛門に助けを求めてきた。川崎に代わって上総東金に出向いて村方の騒動をおさめて修復金を拠出させるまでに事を納めた。それでも今大路家の財政は逼迫、京都の所領に主人名代を名乗って家来二人と槍持を従えて乗り込み、金子調達の段取りをつけて戻ってきた。名主としての豊かな経験と能力と人物がこの課題を果たさせたのだと著者は述べている。
ところで、弘化3(1846)年から名主役を離れた又左衛門は、内藤家主従一家皆殺しの決意をしたものの、ペリー来航後はさすがに国事に関心が移り、「内藤家の当主を自分の家来にでもするか」というレヴェルまで精神的圧迫度が緩和してきたとはいえ、思い出すのも、嫌悪感の湧き出る相手、この内藤家が以前の通り、名主役を務めてくれと頼み込んできたものの、又左衛門は言を左右にして、いっこうに引受けようとはしなかった。

又左衛門は元来熱烈な水戸藩支持者であり、水戸学を信奉していた。ところが安政5年来の条約勅許問題以後の動きが水戸藩存亡の危機を招いたので、会沢正志斎に自説の強硬論を申し入れたが、応答がなく、別ルートから会沢の対幕府方針を聞き出した。その結果朝廷よりも宗家を重んじ、たとえ亡ぶとも徳川宗家次第との考えがわかり、会沢の人となりは藩士でありながら副将軍を自称し、人を使って手柄を立てるだけと見極めた。単に幕府を維持するがための尊王攘夷論であること、水戸学もただ幕府存続のための政治論だったことに失望して、安政6年9月28日、同郷人の師岡節斎の紹介で平田国学の塾、気吹舎(いぶきのや)に入門する。

平田国学はサムライも百姓も学び入門するが、百姓が学んだ場合には特にその歴史の論じ方が心にくい込んでゆく。神武天皇以来の日本歴史の中では、武士階級が全く存在しなかった上古の時代が長らく続き、しかもこの時代は安定し繁栄したものであり、社会的には朝廷を下から支える60余州の国々があり、それぞれの国の主体は「御国の御民(みくにのみたみ)」、つまり生産者である百姓だったという主張である。又左衛門も百姓だ、武家の時代は永遠ではなく終りもあるはずと理解した。君臣の大義とは封建領主と家臣との主従関係ではなく、仁政を施す天子と全国60余州の生産者としての「御国の御民」との関係なのだ、という見通しがついた。
幕府倒壊後の明治3(1870)年の又左衛門の歌がある。
  もののふと いかめしき身も いにしえに かえりてみれば すめらみたから
  みたからと いやしめられて のきし身も 今かえりては  たのしみもあり

こうして又左衛門は多数の剣術門弟の中で見どころのある青年たちを積極的に気吹舎に入門させる紹介者の役割を果たすようになった。彼がのちに泉州堺に移住してからは、彼が入門させた若者たちが周辺の青年を気吹舎に入るように努めた。
幕末期の平田国学の地域的拠点は、なんといっても東濃・南信の『夜明け前』の世界だが、それに次いで、この下総相馬郡が活発な平田国学者を生み出していった。
又左衛門の紹介した若者の一人に高木英一郎(維新後は宇佐美比古雄)がいるが、この男はのちに足尾銅山鉱毒事件で名をあげる田中正造が慶応元(1865)年に気吹舎に入門する際の紹介者となる。

文久2(1862)年12月、将軍家茂が奉勅攘夷を誓約して上洛することになったので、京都に充満する浪士たちを統御する重圧が幕府にのしかかってきた。このとき、平田篤胤生前からの気吹舎門弟の旗本松平主税之助が浪士組を編成するための浪士取扱いの命を受ける。浪士組は新選組の前身になった市中見廻り役の集団である。京都に集まっている有力浪士を束ね得る優れた力量の人材を徴募・採用の対象としていた。松平は早速、同門のよしみで又左衛門を片腕と頼んで浪士取り立てに協力を依頼してきた。しかし、松平が幕府を支えつつ朝廷との結合を強める立場であったがために又左衛門は婉曲に断っている。
同じ気吹舎にあっても門弟たちの幅はひろく、考え方には相当のヴァリエーションがあり、そして各々が自分の信じるところが先師篤胤の思想だと確信していて、当主平田銕胤はそれを裁定する意図はなかった。
同じ文久2年には息子勇太郎が上京して国事運動を行いたいとのたっての願いを聞き入れて、その上京活動資金捻出に、本格的に宮和田家の土地田畑等の財産処分をおこなった。勇太郎出立にあたって与えた又左衛門の訓戒は平田国学解釈の見事な又左衛門ヴァージョンとして著者は紹介する。
大君につかえまつらんに忠なるは論なし、命を全くし、己れ死しても我が子に又忠を尽くさせんこそ心掛けなるべし、右を全うせんには、第一子孫をふやすも忠の一なるべし、大君には御国に敵はあらじ、然れば忠孝を思う益良雄は生を全うし仕え奉らむ心得専一也、己れの武勇に誇り少しの義気に迫り命惜しまぬは忠孝にならざると知るべし、(中略)、己れ一身の義勇に迫る勿れ、時としては早く関東に下り、外々にも士気引起こし、父母親族をも養い、必其方迄男子不絶の我が家を子孫絶やさぬ様、皇大御神に祈り奉れ、(中略)今世の人は三百年の少恩は知れど、三千年の大恩をしらず、えみしらに皇国を汚さるをも心とせぬえせつかさのみ多ける中に、賤が男ながら神の御末に生まれいで、えみしらに皇国をあなづられるをむなしく見て、産みの親にのみまめまめしく仕えるをとて、心ある親のなどかうれしと思わん
家の存続と家の繁栄を中核とする百姓の論理が貫かれ、三百年の主従関係にかわり三千年の天子と御民の関係が国家論の骨子となっている。外圧に屈しつづける幕府と諸大名は「えせつかさ」であって新たなものに換えられなければならないと規定される。

等持院足利三代木像梟首事件は文久3(1863)年2月22日に起きた木造の首が三条河原にさらされた事件だ。犯人たちの主流は平田門下の人たちであった。その中に京に向かった勇太郎が入っていたのだった。京都所司代松平容保は事件を倒幕思想の表れと見て、それまでの緩やかな方針を転じて厳罰でのぞんだ。勇太郎は伊勢の菰野藩に預かりの身となってしまった。世の動きは激しく、いつ処刑されぬともわからず、子煩悩の又左衛門は不安の中に置かれてしまった。遂に夫婦で少しでも近くにいてやろうと移住を決意した。

文久4(1864)年1月のこと、行き先は泉州堺、旧知の渡り用人の川崎長左衛門がこの年から1300石の旗本今井家用人となっていたのを頼った。肩書は旗本今井彦次郎家来となった。ここでも北辰二刀流の道場を開いて手広く門弟を取り立てたという。さまざまな形での尊攘志士たちの働きかけには決して乗らなかった。国事活動にはいっさいかかわらず慎重に日を過ごしていた。いっとき疑われて新選組に連行されたこともあったが、この慎重さのために難を免れた。平田門人としての活動はしっかりおこない東西の気吹舎間の情報取次にあたっていた。
勇太郎は幽閉されたまま当面死罪にならなかったが、先行きはどうなるか。万一を慮った又左衛門は養子を迎えることにして、門弟の中から真面目で腕のある三河国長篠出身の金子真平を選び、宮和田進と名乗らせた。慶応3(1867)年、江戸に出向いた際、進は気吹舎に入門した。

慶応4(1868)年1月3日戊辰戦争が始まって幕府軍は大敗し、将軍慶喜は大阪から船で江戸に逃げ帰った。1月7日の朝又左衛門夫婦と進が堺の自宅に居るとき、故郷宮和田村の領主内藤鉢之丞ら主従5人が落ち武者となって現れ、食物を求めた。主従を斬り殺し自分は切腹して果てようと心に決めて剣術を習い、今まで怨恨が心中深くつかえたまんまの又左衛門の眼前に現れたのだ。しかし、夫婦はこの5名に飯・肴・餅を与えて事情を聞いた。
「1月6日の夜中、急登城を触れられ登城するに、上様は先立って紀州に御出立、それ故紀州路に早々出立致すべしと荒々しく申し渡され、その身そのままにて逃げ来たりし故、今に食事も取れず空腹」との事、又左衛門にとっての御一新とは正にこの瞬間になった。53歳にして彼の胸のつかえを歴史の激動が見事に氷解し去ったのである。怨恨はここに一洗され、疲労の極にあった鉢之丞には駕籠をやとい紀州に落ちのびさせてやった。

6日後の1月13日、又左衛門は大納言中山忠能の御召により今井屋敷から乗馬で出立、槍一筋を持たせ、門弟3、40名を従えて大阪に向かい上京する。一方、勇太郎は無事釈放されて堺に来たが父は出立のあと、京に上って6年ぶりに父子対面がかなった。
又左衛門の心の悦びの様子を伝える手紙が遺されている。慶応4年2月、故郷宮和田村親族に宛てている。「誠に心よき時節に相成申候、一同只今死に候ても、是外にのぞみ無之事と申居候、此段御一笑可被下候、余りうれしくて何も何も出来不申」

さて、それでは養子の宮和田進はどうなったか。残念なことに死亡した。大村益次郎暗殺に加担し、乱闘のさなかに闘死している。大村は長州に諸隊と呼ばれる組織をつくりあげて民衆のエネルギーを解き放つことによって幕府軍を敗退させた功労者である。新政府では新しい軍制を建てる構想を進めていたが反対者も多く、暗殺には遺恨説もある。宮和田進が何故加わっていたかについて、著者は伝えていないが、又左衛門夫婦が東京に戻ったあとも中山家に仕えていたとある。進には夫婦約束を交わした女性がいた。お光という。明治2年10月「ご両親様、御兄上様」に宛てた見事な筆跡の書状をしたためている。
進義、先達て申上候通り、九月四日夜打死被致候故、両人の約束の義、今更申上候て誠に誠にすまぬ事と存候得共、何卒何卒前以御相談申まいらせ候、後また此地にて両人の心にて夫婦と相成候義、幾えにも御免被成度、私義は進存命中に両人とも申合せ、何程のかんなんもいとい不申、たとえ米のかゆすすれ不申とても、麦かゆより食事出来不申とてもかまい不申と、両人申合、夫婦約束いたしたる故、此末はいか成苦労致し候事一切くるしからず候
著者は、この書状の返事がどのようであったか不明だとしながらも、又左衛門はこの娘のいたわしい気持ちに打たれ、二人の間柄を許したものと思われると記す。

著者による又左衛門の物語はこれで終わっている。その後の人生については知らない。Wikipediaには維新後は刑法官、のち富岡八幡宮神職となっている。
平田国学にとっての明治維新はよい結末にならなかったようであるが、又左衛門の心を捉えた天皇を60余国の御民が支える国の形という部分は、現在でも多くの日本人の心に遺されているものであろうと思う。(2019/3)