2019年6月22日土曜日

『古事記』の序文を読んで。

『古事記』は、筆者が参照している岩波文庫の校注者、倉野憲司氏の解説によれば、書名をこのように名付けるという説明はないそうである。もとの読み方はわからないままに、コジキと音で読みならわされているとある。原本は失われており、現存するのはすべて写本である。内容は上中下の三巻に分かれている。上巻のはじめに序文があり、原文では「古事記上巻 幷序」とあって、幷と序との間に返り点がついている。この返り点は底本が解読の便宜を考慮したためと考えられる。倉野氏の読み下し文では、「古事記上つ巻 序を幷(あはせ)たり」と読ませる。現存する最古の写本「真福寺本」の影像には、「古事記上巻 序」と見える。この序文は漢文であるが、写本の「幷」は正格の漢文でなく崩れた語順だそうである(三浦佑之氏)。時は和銅5年(712年)正月、書いたのは太安万侶、女帝元明天皇に奉った上表文の形をとって、古事記撰録の由来が述べてある。
国宝真福寺本 国立国会図書館蔵
太安万侶の墓誌が1979年1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から発見された。当時海外にあった筆者は後々までこの事実を知らなかった。1980年に帰国してより週末ごとに奈良近辺を訪れていたが、安万侶の墓があるとはつゆ知らず、行きそびれてしまった。ブログなどを通じて発見者の茶農家の話などを読むと、千二百年余もの時を隔てて、よくもまぁ、という感動にうたれる。過去には実在を疑われたりした安万侶について、世間の見方はこの発見によってどのように変わったのだろうか。参考までに墓誌発見にかかる記事のURLを下記しておく。
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c12/
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c13/

倉野氏の解説は、「序文は四句六句を基調とした四六駢儷体(べんれいたい)の気品の高い漢文で書かれていて、必ずしも達意の文ではないので、その解釈は学者によって区々であり、今日もなお定説を見ないありさまである」と述べている。語り出しは、臣安萬侶言(臣安萬侶まをす)で、これは別として、続く文は夫(それ)とか、然(しかれども)のあとは対句になっている。
夫、混元既凝、氣象未效、無名無爲、誰知其形。
然、乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二靈爲群品之祖。
達意の文ではないというのは、意味がわかりにくいのである。たとえば、読み下してみて「神倭天皇、秋津島に經歴したまひき。化熊川を出でて、天劔を高倉に獲、生尾径を遮りて、大烏吉野に導きき。」とあれば、何のコッチャとなるだろう。これは神武天皇が東征した伝承のうち、熊野から吉野に至るありさまを述べている。神の化身の熊が川を下って、高天原から降された劔をタカクラジという人から手に入れ、尾のある人が路に溢れて歓迎し、八咫烏が吉野に導いた、となるのだそうである。これまた、何のコッチャであろう。
「參神」とか「二靈」にしても、これだけで前者がアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビの三神、後者がイザナギ、イザナミのことだと注記されているが、こんな語り方はないだろうと思う。ここには書かないが、この序文の成り立ちに大きな疑問があるようだから、こんなところにボロが覗いているのかも知れない。ま、こんな具合であるから、序文はいい加減にわかったつもりにして読み進めるとしよう。
倉野氏は序文に見出しをつけてくれている。はじめの部分には「序第一段 稽古照今」とある。読み下し文に「古(いにしえ)を稽(かむが)へて…今に照らし…」とある部分からとっている。要するに第一段の内容を指していて、すべて神代の伝承である。「序第二段 古事記撰録の発端」、読んで字のとおり。天武天皇が即位して帝記を撰録して旧辞の誤りを正して後代に伝えんと思うと詔して、稗田阿礼に勅語して日継(ひつぎ)、舊事(ふること)を誦み習わせたが、未完に終わる。「序第三段 古事記の成立」。元明天皇が和銅四年9月18日、臣安萬侶に詔して稗田阿礼の誦む所の勅語の舊事を撰録して献上せしむと言われた。お言葉にしたがって詳しく記録したが、云々(後述)、ともかく三巻を録して献上奉る。とある。日付が和銅5年正月28日 正五位上勲5等太朝臣安萬侶。位階を見ると墓誌に從四位とあったから、古事記完成後に昇格したとみえる。古事記で賞せられたか他の功績のためかはわからない。
さて、ここに筆者が云々としておいた部分であるが、文字を持たない神代の伝承を阿礼が口頭で伝えるところを和銅の世に用いられている漢字によって記録することの難しさにほとほとまいりました。そこで、ひと工夫したのであります、と述べて具体例を示しているのである。
たとえば、一句の中に音と訓を交えて用いたり、あるいは一事をすべて訓で表したりした。言葉の筋道がわかりにくいものには注をつけたが、意味の取りやすいものはそのままにした。また、姓で日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)といい、名で帯(たい)の字を多羅斯(たらし)というなどはそのままにしておいた。このようにして、天地開闢より始めて推古天皇の御代で終わっています、という具合に書き終えている。
このように古事記の序文を読んで見れば、文字を持たない日本の大昔に漢字が到来して、それが字音と字訓を持つ文字であることをうまく利用して日本独特の「ことば」、つまり日本語が表記されたことを知り得るのである。
倉野氏は歌謡の表記などに字音のみで表記した箇所がかなりあることに注意を喚起する。序文にあげられた用例はあるにしても、それだけが『古事記』に用いた表記ではないのであって、古言をさながらに伝えようという配慮から、字音のみによる表記をも採ったと思われる。安万侶はこのようにして、一層国語的表現に適する変則の漢文を作り出したことに注目すべきだとされている。
倉野氏が岩波文庫の一冊をまとめるうえでは、ここまでの説明でよいとされたのであったろうが、漢字で日本語を表す、つまり日本語の書きことばの創造という課題をこなすには、これではまだ足りないではないかと、次に記す小池清治氏はより細かく補足してくれる。
安万侶が記した「然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難」。これを読み下せば、「然れども上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなお)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し」。ここに小池氏は注目する。
言語表現を「言」と「意」、すなわち音声的形態と意味に分けて考える認識方法を安万侶は『易経』に学んだとみる。それは次の文言であると。「書不尽言、言不尽意」(書いたものは話しことばを表現し尽くさない。話しことばは心に思ったことを尽くさない)(『易経』の「繋辞伝」)。小池氏は、この文言を「書」というものの実態を観察し本質を見抜いた上での諦めと決断の表明ととる。中国の広い国土に無数にある方言(音声言語)を忠実に「書」として文字化したならば、そこには無数の「書」の体系が発生したに違いない。例として小池氏は中国語での「日本人」の音声「リーベンレン」は地方によって「アーベンレン」、「イーベンレン」、「ジーベンレン」などになる。「日本人」という「書」が「言」を尽くしていない。表意文字ははじめから、言語の音声的側面を犠牲にし、切り捨てることによって成立したものである。安万侶はこの事を言いたかったのであろう。ただし、中国の例では既に文章語ができていたうえでのことであるが、安万侶には「上古之時」でも、元明帝の当代でさえも、話しことばを書きことばにするのは難しかったということである。だから、せめて『古事記』がその時の最上の答案であり、「漢字仮名交じり文」になった、と考えよう。ただし「仮名」はまだ発明されていないので、漢字の間に読むための注記をこれまた漢字で挟むことをした。こうして出来上がった『古事記』には正式漢文と変体漢文が混じる結果になった。変体漢文は、安万侶が、こうしておけば意味は通じるであろう、と考えた文である。言い方を変えれば、意味さえ通じればよし、とすることで妥協しておこうというところか。したがって、どう読んだか後人が迷うことになるのは当然である。

以上は、気まぐれに『古事記』序文に取り組んだ筆者の覚書である。先人がどう読んだか、何を見たか、を古い記録に表れた材料に探るのはいつの時代にあっても議論は尽きない。序文第二段の天武天皇のことばにある「諸家之所賷帝紀及本辭」(諸家のもたる帝紀及び本辞)と阿礼の「誦習」も議論の一つである。稗田阿礼の才能の豊かさが鍵であって、「諸家の本辭」ではなく、阿礼が誦む所の天武帝の「勅語の舊事」を撰録したとする説に筆者は味方したい。煩雑を避けて詳細は省くが参考までに北野隆(さとし)氏の名をあげておく。
なお、古事記の文章詩句に漢訳仏典の影響があることが小島憲之氏や神田秀夫氏が指摘されていることも倉野氏は付記している。これもまた筆者には刺激的な指摘である。

参照した論考:『古事記』倉野憲司校注、岩波文庫 1989年
       『日本語はいかにつくられたか?』小池清治、ちくまライブラリー 
       1989年
       北野隆「稗田阿礼の『誦習』:カタリの力」:
       ymjcp-46-00010016.pdf、このファイル名をインターネットのアドレ
       ス欄にコピーして、開いたwebサイトでPDFファイルをダウンロードし
       て読めます。
(2019/6)