2014年6月25日水曜日

読書随想 武内善信 『闘う南方熊楠  「エコロジー」の先駆者』(勉誠出版,2012年)

著者武内氏は、和歌山市和歌山城整備企画課、前和歌山市立博物館主任学芸員であり日本近代史研究の歴史家でもあります。早くから熊楠資料の調査に関係し、特に1992年から13年間にわたる旧熊楠邸蔵置資料の悉皆調査に参加しています。

著者が玉手箱みたいだというこの悉皆調査では様々な資料が発掘されて終了しましたが、現在は手分けして、分析・翻字作業が続けられています。この膨大な資料は実家に居づらくなった熊楠が終の住まいとなる田辺に居を定めた機会に、実家から移されたロンドンから持ち帰った資料が含まれますが、もし、そのまま実家に保管されていれば和歌山全市が焼失した空襲で灰になっていたことは間違いありません。事実、実家に遺されていた弟常楠宛の書簡などはその貴重な内容とともに失われてしまいました。

熊楠研究家達が調査に取りかかるまでの道はまったく心細い感じでした。私は1965年完成の白浜の記念館と田辺市の南方旧邸を2000年にようやく訪れることができましたが、いまや立派な顕彰館も完成しているようで往時から見れば夢のようです。関係者のご努力に頭が下がります。現在平凡社の南方熊楠全集全12册(1971ー1975)がありますが、いずれ新しい調査研究資料を加えた全集発刊も考えられているそうです。なんでも40巻くらいになるとの予想だそうで驚きます。
南方熊楠旧居2000年10月31日当時(非公開)
さて、著者は常に一次資料に基づいて検証することを徹底しますが、熊楠のような歴史的な人物調査に当たっては、次のような研究方針を定めています。
1.その人の置かれていた歴史的環境の認識、
2.言説や行動の史料批判に基づいた実証的な究明、
3.現代の目ではなく、同時代の目で歴史の流れの中に位置づける評価。

このように著者は歴史研究者としての実践をこの著書で報告していますから、本書はかなり専門的になっています。難解な用語や文章はありませんが、読者には時代や歴史的事実について知識が要求されます。

著者が参加した調査で発見した資料の紹介と、それらの資料が物語る内容の解説を主題としたアメリカ時代の章では、渡米以前の熊楠が民権運動に強い関心を持っていたことと交友関係、在米時代前半には条約改正反対を含めた反政府活動に荷担していたことが明らかにされます。ここでの結論は国家に絡めとられない生き方と世界的な視点を身につける熊楠が誕生したことです。

次に大きく扱われている章は神社合祀反対運動とエコロジーについての章です。ここでは神社合祀反対と、鎮守の森保存のどちらが主題であったかがまず論じられます。次いで、政策や民間運動で自然保護という言葉の内容がどのように扱われていたか、エコロジーという用語がどのように理解されてきたかを扱っています。
ここで読者は明治政府の神社政策の変遷と被害の実態を勉強しなくてはなりません。そして、さらに当時の熊野の山林はもはや原生林的な照葉樹林ではなかったことを教えられます。

粘菌発見場所の消失への嘆きから発意される熊楠の神社合祀反対または鎮守の森保護運動は、貧窮のなかで七千円もの費えを投じて十一年間続きます。そこでなされた熊楠の訴えは現在でいう生態学的視点からの森林保護であり、入会権などに見られる森林や漁民の生活権を守る運動であり、英米独などに於ける自然保護の動向を紹介する啓蒙であったのです。
同時に読者は内外を問わず、また時代を問わず、貧しい思想と利権に走る政治家による施策の人類資産費消の愚を嘆くという現代に通じる問題に向き合うことになります。

というわけで、本書の記述のいちいちについて述べることはとうてい出来ませんけれども、調査に当たった同僚論文の考察も含めて、著者の偏向しない真摯な研究心にうたれました。

南方熊楠資料研究会と南方熊楠顕彰会のウエブサイトが運営されていますので、参考までに紹介しておきます。
www.aikis.or.jp/~kumagusu/

minakatakumagusu.web.fc2.com

余談ですが著者のロンドン訪問紀行も楽しく読ませてもらいました。
www.aikis.or.jp/~kumagusu/articles/takeuchi02.html

また、熊楠について知るには田辺の観光案内のお嬢さんのブログがあります。
tktb.seesaa.net/article/208980619.html


2014年6月19日木曜日

小さな発見 女化開拓のこと--熊楠の謎の一つが分かった

1886年末に渡米した南方熊楠は上陸したサンフランシスコにしばらく留まった後、ミシガン州ランシングにあるミシガン農学校に入学した。なぜこの地を選んだのか。 熊楠の経歴について、このことは長らく私の疑問であったが、久しぶりに関連図書を読み出したところ判明した。しばらく熊楠問題から遠ざかっていた間に研究も進み、新著もいくつか出版されたおかげである。 当座の疑問は解決したが、副産物が出てきた。それが「女化」である。 女化は地名、関西人の私にとっては当初読み方も分からない不思議な地名としか思えなかった地域でした。読み方は「おなばけ」、現在は茨城県牛久市女化町(オナバケチョウ)という町名になっていますが、民間伝承の豊かな古い地名です。
一時期、この地を通過する道路をよく利用しましたが、あるとき大々的な拡幅工事が始まったかと思うと、あっという間に細い地道が立派な幹線道路に生まれ変わりました。あれは確か筑波万博に付帯する事業だったのでしょう。本稿末尾注⑵『女化』の文字を発見して、つい懐かしい思いから背景事情を追いかけてみました。
明治11年より和歌山県士族津田出が開拓をはじめた女化ケ原は、日本で最初の洋式大農法で開拓されました。
写真はpainreef3108さんのをお借りしました。
Wikipedia記載の歴史には「元は荒涼とした草原地帯であったが、1878年(明治11年)、津田出により、大規模農場経営の第七農場として開発が始まった。後に経営は破綻し、土地は日本全国からの入植者に払い下げられた」とあります。

熊楠の研究者(注1)は熊楠がランシングの農学校を選んだ理由を探索するうちに1883-1884年当時の在校生名簿にMichitaro Tsudaという日本人らしい名前を発見しました。次いで、この人物が津田出の長男道太郎であることが確認されたのです。津田出は明治初年の和歌山藩の大参事として藩政改革に功労のあった人物で近代陸軍の基礎を作りました。新政府に移行して後、辞任して1878年にアメリカ式大農法の試みを始めます。その土地が女化だったわけであります。

荒蕪地の女化原の開拓はお雇いアメリカ人デダフルシュ・アップ・ジョンズ(注2)が内務卿大久保利通に提言して、津田によって実行に移されたようです。このために長男道太郎を農学校に留学させる必要が生じたのかもしれませんし、アップ・ジョンズが勧めたのかもしれません。いずれにしても、日本人津田道太郎がミシガン農学校に在学した事実がありました。

さて、この津田道太郎の弟安麿が熊楠の大学予備門当時に和歌山学生会を結成した仲間でした。熊楠の日記1886年11月20日条に「朝津田安麿氏と倶に其兄道太郎氏を訪、米国事情を聞く」と書いています。さらに、11月30日にも訪ねています。農学校の入学には卒業生津田道太郎を保証人に立てています。こういう事情が判明すれば、熊楠が縁故をたどってミシガン農学校を選んだことは明らかです。しかし、アメリカの学問や授業、寄宿舎生活などへの不満が募った模様で1888年11月17日寮を出てアナバーに向かいました。そして、そのまま退学してしまいます。熊楠の在学履歴はこれを最後にして、以後は生涯独学で研鑽することになります。

このようなわけで熊楠に関する謎の一つが解けましたが、津田出という人物を知り、さらに大農場経営という事業計画の存在を知りました。
お雇い外国人アップ・ジョーンズについては今のところ資料が見つかりません。ただ、千葉県謎解き散歩2、森田保編著という本に大久保利通の政策でジョーンズが手がけた牧羊計画が紹介されています。

本稿の参考図書:武内善信『闘う南方熊楠 エコロジーの先駆者』(2012年勉誠出版)。
(注1)アメリカ調査の全体については、横山茂雄・中西須美・松居竜吾『ランシング・アナ-バー時代の南方熊楠ーーアメリカ調査報告ーー」(『熊楠研究』五号、2003年)
(注2)『女化』(女化開拓史刊行委員会編、エリート情報社、1985年)42頁
ただし、注1注2とも未見。



2014年6月12日木曜日

読書随想 『夏目金之助 ロンドンに狂せり』 末延芳晴著(2004年青土社)

著者は1942年生まれ、東大文学部中国文学部卒業、1973年から98年までニューヨーク在住、アメリカの芸術・文化についての評論活動、永井荷風や夏目漱石など明治時代文学者の探求を続け、現在は京都在住で著述評論活動を行なっているそうです。
http://profile.ameba.jp/donta61/

図書館で何気なく手にしたこの著書はノンフィクション的作品で小説をあまり読まない私も最後まで興味深く読みました。
単独で見知らぬ土地に出掛けて住み着く者が抱く孤独感のような感覚が生きている著作でもあると思いました。




狼群の中のむく犬のごとく


本書の表題は「夏目狂せり」という電文めいた文言が伝わっているのを借りたものでしょうが、金之助は倫敦滞在の最後の時期に極度の神経衰弱の状態で『文学論』の仕上げに集中していました。日本人関係者が心配しているときに、往路同じ船でドイツに留学した藤代禎輔が文部省から「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」との電報を受け取ったと回想しています。しかし金之助は準備が出来ていないことを理由に同行して帰国するのを断り、藤代も金之助の状態から、別段心配するほどのことはないと判断して先に帰国の途に就きました。(藤代禎輔はのちに京都帝大教授、ドイツ文学者)



                        81, The Chase 夏目金之助が狂気のように苦闘した止宿先、
                       屋上のサンルームは近年追加されたもの。金之助の部屋は3階だった。


というわけで夏目金之助は狂するところまではいかなかったが、紙一重の手前で『文学論』の執筆と闘いながら引きこもりの状態にありました。漱石自身も「神経衰弱と狂気とは否応なく自分を創作の方面に向かわせる」ものとして感謝の意さえ表していると『文学論』の「序」をひいて著者は強調しています。これらの事情は最終の第十八章に自我のよりどころを求めてとして述べられています。

著者が眼目にして底流とした金之助の精神の状態は幼児期の体験から不幸が始まっています。富裕な名主の家筋も時代が下がって没落した結果5人兄弟の末子として生まれた金之助は里子に出されたり、養子にやられたり、養家の塩原姓のまま生家に戻ったりののち21歳で夏目家に復籍しました。研究者はこの間の漱石の記憶には捨て子にされたとの強い心の傷が残ったとします。著者もこれを認めて後の作品での反映に触れています。さらに帝大入学前後に長兄、次兄、親しかった義姉を相次いで失い、続いて肺結核にかかる不幸が続いて、この頃から神経衰弱の症候が強くなったと伝えられています。

また、三歳の頃に患った疱瘡によりかなり目立つあばたが顔に残ったことはずっと漱石を悩ませます。留学の4年前熊本で結婚しますが、鏡子夫人は環境や家事に不慣れでうまく対応できないことから川に身を投げて自殺未遂となるなど、この結婚生活は留学中も円満ではありませんでした。

数えたてれば不幸のかたまりであるような金之助に政府派遣留学生の重圧がかかることになるのです。熊本第五高等学校で英語講師をしながら教師が嫌になっていた時期にあたったそうで、留学生を拝命すべきかどうか迷います。指定された留学目的が英語教授法の研究だったからです。いったんは辞退しますが、留学目的の変更を認められることになり、英文学研究を目的として承諾することにしました。1900(明治33)年5月のことでした。

さて、準備なって9月8日横浜から船上の人となった金之助は往路のほとんどを船酔いはげしく、食事も十分にとれない状況にあったらしい。他の船客がすっかり慣れてからも、ひとり金之助は船室で寝込んでいたといいます。著者はこれを船酔いだけではなく、生来の神経症を病んでいたためだとしています。
欧州に渡ってから汽車に乗るとコンパートメントは白人ばかり、皆じろじろと金之助の顔を見るのですが、彼はこれを顔のあばたのためだと思いこみます。ところが倫敦に行き着いて町を歩くと、自分の皮膚の色が周囲と違うことに気がつきます。日本出立前に新調した洋服は船上でも西洋人の服装に見劣りしないことを確認していましたから、服装には自信がありました。ところで金之助は立派な八字ひげを蓄えていました。街頭で行き交う婦人達が金之助を見ながら、チャイニーズかな?とかチャイニーズらしくないわね、などと噂するのが耳に入ってびっくりします。
漢文で教育を受けた彼にとってシナは尊敬する国です。ところが英国人達は見下しているのです。夏目金之助もここに至って自分は黄色の皮膚を持った東洋人で、この国では差別されていることを自覚します。そしてこのことがまた精神状態に作用するのです。
この頃日本でも英国でもシナ人は軽侮される存在でしたが、漱石はシナびいきだったのです。それでも自分がシナ人とみなされると、その心情は面白くありません。このあたり先進の英国にある日本人の心情は複雑です。

76 Gower st. ようやくの思いでたどり着いた最初の宿。家賃が高いので二週間で引き払いました。
当時造船所を訪れる日本海軍軍人の定宿だったそうです。
帝国大学英文科卒業で政府派遣留学生とあれば晴れやかな肩書きであるはずですが、ここロンドにあっては何の効力もありません。目に映る街の壮麗さに圧倒され、背の高い英国人の間に紛れ、地理不案内で再三迷子になる不安も重なって、金之助の精神は萎縮する一方でした。そんななかでケンブリッジなど勉学先や個人教授などを捜し求めたあげく、独学で英文学を研究する途を選びます。そしてしばらくはシェイクスピア研究のクレイグ先生に就きますが、やがて自らに課した『文学論』をまとめる時間を惜しんで独り止宿先にこもります。このあたりから自閉症的傾向が強くなったようです。

留学目的を英文学研究に変えてはみたものの、ひたすら英文を読むばかりでは充実感が得られない一方で、何か創造的な課題に取り組みたい衝動も感じていました。それは書くという行為で自分を表明する、後に作家の途を選ぶことになる自己解放の願望でした。けれども留学生としての使命を優先させて自己の願望は押さえ込んで文学を研究することにしたのです。
漢文の文学と英文の文学は同じか、文学とはいかなるものか、などという大きな命題に強引に取り組もうとしたのでした。留学二年目に入ってから猛然と英文のノートつくりに励み、そのノートの厚みは5、6寸に達したそうです。

先に述べたようにロンドンに来てからの暗い心持ちのままでのこのような無理な自己鞭撻が、もともとそれほど頑丈ではない金之助の精神生理に狂気をもたらしたのでありましょう。
たまたま同じ止宿先に短期間滞在した化学者池田菊苗(後に味の素の創始、功労者)と議論を重ね楽しく交流した金之助は科学的な方面にも興味を惹かれています。寺田寅彦には普遍性のある科学研究への憧れを書き送っています。文学にも科学的な研究方法を探ったのかもしれませんが、できあがった結果は気の毒なものであったようです。
帰国後帝国大学でこの研究をもとにして講義をしていますが、学生相手の英文学の講義にすぎない結果となったそうです。
のちに講演「日本の開化」などの文明論に表明されたような、日本は内発的に発展すべしという漱石の高い理想などが展開されていればと惜しまれます。

私は漱石のよき読者ではありませんので、末延氏が綿密に追及されている作品への反映をひたすら感心しながら読ませて頂きました。随想とはいえこのような印象記しか書けませんが、漱石の心の奥深く隠れていた精神生理の流れを作品に追うという手法には深く敬意を表します。
(止宿先の写真は http://kazekaoru.hanamizake.com/ にお借りしました。)

本書には金之助が日本に出した絵葉書が多数色刷りで収録されています。ここにはネットで拾った街頭風景を参考までに提示します。堂々たる建物が並ぶ街路であっても実は馬糞だらけだったようですから、実際にはかなり匂う街であったと想像します。写真は匂わないから幸いです。
ピカデリー 1900年

ピカデリー・サーカス 1900年頃
リージェント・ストリート 1900年



2014年6月5日木曜日

クラウドファンディング 朝日新聞 2014/6/3

クラウド違い

ネット上で趣旨に賛同する不特定多数から小口の金を集める手法をクラウドファンディング(略してCF)というのだそうである。それなら数年前のイギリスのテート美術館がターナーの名画「ブルー・リギ」の国外流出を食い止めた例がある。ターナーの「青のリギ」

ただ今度はその手法を政治家の資金集めに応用した例が記事になっている。そして募金活動を運営する事業会社の存在、CFサイトが紹介されている。

ここで、待てよ、と気がついてクラウドファンディングを検索してみると、どうだ、この通りクラウドの花盛りである。wikipediaを参照する。なんだ、クラウドってCROWDではないか。クラウドコンピューティングでおなじみになっているのとは別物であった。これだから世情に疎い年寄りは困ります。大衆からの募金でした。図の右下、富士通の広告のはクラウド・コンピューティングでした。これ、日本語だからこんぐらかるのだ。英語であっても日本人が言えばやはり区別しにくいことになるだろう。なにしろRとLの発音の問題になってしまうから。
それはそれとして新聞にはシューティングスターというサイトが紹介されていた。
http://shootingstar.jp/)

インターネットで見ると、なるほどたくさんの活動がならんでいて、それぞれのプロジェクトの達成状況も見ることが出来る。もしも個人で立ち上げて募金しようとするなら箸にも棒にもかからなさそうなアイデアも、仲介する事業会社によって上手に宣伝をしてくれるし、応募の管理もしてくれる。応募はクレジットカードか銀行振り込みで、目標額が達成できなければ金額は引き落とされない。この方式なら安心できそうに思える。
しかし、一旦引き落とされたお金が目標未達の場合には、あらためて返却される方式をとる会社もあるようだ。こうなると事業者の質が問われるだろう。

今日の記事は運営会社が政治家に誘いを掛けたことと、政治献金を合法的に集められる手法として今後も盛んになろうが、同時に政策もしっかり打ち出してもらいたいとの希望をこめた紹介であった。

しばらくブログやらでいろいろな募金活動とその反応を見ているうちに、どちらかといえば若い人たちが思いついて始めるという形のプロジェクトが傾向的に多い気がしてきた。それに対する反応もマジやらチョーやらでなく、もっと高次の若者語で語られていると、こっちは理解の外に追いやられそうな気分になる。基盤の確かな美術館などなら分かりやすいが、有象無象のプロジェクトになると、そのうち詐欺まがいの事業者も紛れ込むのではないかと心配にもなる。

古くはニューヨークの自由の女神の台座部分の資金繰りにも利用されたとか、へぇ―に類する知識も得られたので、ちょっとトクした気分の一日であったが、ネット時代のオカネの話、健全に発展することを願っています。


2014年6月3日火曜日

映画随想 『ラルジャン』 NHKBSプレミアム4月25日放映

映画『ラルジャン』を見た。1983年フランス・スイス合作。監督はロベール・ブレッソン。
ラルジャンはフランス語でオカネのこと。映画では「ニセ札」が物語を作る。


【あらすじ】
高校生ベルノールは月初めにもらう小遣いのほかに、友達に借りを返す分の前借りをねだるが父親に拒絶される。母親にも手持ちがない。やむなく別の友人マルシャンに借りようとすると、手製の偽札500フラン札を使おうと持ちかけられてカメラ店での買い物で実行するところから話は始まる。ババ抜きゲームでババをつかまされた青年の破滅の物語。


【登場人物と行動】

○高校生たち:
写真が趣味らしいマルシャン。ニセ500フラン紙幣の出来映えには自信がある。金を借りに来たノルベールを連れてカメラ店へ。応対の主婦に言葉巧みに信用させて悪巧みが成功する。

後日、ノルベールは心中おさまらないカメラ店の主婦に街頭で出逢ってアカンベーをする。高校では主婦の訴えに教室全員が追及される。ノルベールは隣に座るマルシャンに気兼ねしたのか、心中狼狽して教室を飛び出してしまい、しっぽを出す結果になる。母親は校長からパパに話が来るからシラを切り通すよう言いつける。父親は噂をおそれてだろう、外に出るなと言いつける。高校生たちについてはこれで決着。
だが、高校生二人は偽札がこのあと、どんな結果をもたらしたか知るよしもなく、悪のタネだけ残る。大人は社会的体面を保つためには平気で嘘をつくだけでなく、そのように教育もするのだ。


○カメラ店夫婦:
帰宅した店主はレジの中に偽札を発見。妻との会話。「騙されやがって」「だって高校生よ。自分だって前に騙されたじゃないの」「よし、つかってやる」・・・・・・
燃料代金を集金に来たイヴォンに応対するのは店員のリュシアン、店主に取り次ぐ。店主は素知らぬ顔で紙幣を数えて支払う。大きな札3枚と少し小さな1枚。イヴォンは何も気がつかずに受け取って去る。

後刻、警官に連れられたイヴォンが店頭に現れる。店主が応接し何気ない顔で店員に聞いてみると言って奥に入る。出てきたリュシアンにイヴォンが問う、「覚えているかい?」。リュシアン首を振る。イヴォンが領収書写しを見せる。それにもリュシアンは「知らない」と言い張る。
警官は「お邪魔しました、行こう」とイヴォンを促す。イヴォン思わず、「そんな馬鹿な、うそつき」とつぶやくが抗弁はしない。

後日の法廷でもリュシアンはイヴォンを見たことがないと偽証する。
帰途、主婦は「悪いのは高校生なのに」。店主は「心配するな」「リュシアンはよくやった」とほめて謝礼をポケットに入れてやる。
 カメラ店主はニセ札発見を通報しない。過去の分も保管している。自分がかわいいだけの小心者。                              
   



○リュシアン:(カメラ店員) 
カメラ店でのイヴォンの一件のあと後日、店番中に客が来る。「ウインドウにあるカメラの値札の金額、この前と違うようだが・・・」「あいにく店主が留守で・・・」「じゃ、あの値でいいから買います」。
客が去ったあと受け取った代金から1枚紙幣をポケットに入れてから残りをレジに収める。店主夫婦が戻ってくるのを認め、慌ただしく帳簿を閉じるが、剥がした値札が挟んだままに・・・。やがて、店主が追及する。「初めてじゃないな。悪党め。」「不正直はおたがい様でしょ」。首にはなったが店の合い鍵を持って出る。

後日、夫妻が帰宅すると住居が荒らされている。画面が変わると大きな荷物を持って友人二人と地下鉄で逃げる姿。

カメラ店での会話。リュシアンの噂をしている。貧しい人にカネを配っているらしいと。郵便物を開けるとリュシアンから小切手が届いている。手紙はいう。「あなたは僕に卑劣なことをした。僕はイヴォンにもっと卑劣なことをしてしまった」。

夜間の道路沿いにあるATM。操作している後ろから番号キーを押す手元を盗み見る人影。カネを引き出した人物はカードが抜けなくて戸惑うがそのまま行ってしまう。あとから来た2人組「金属片を遺すな。手口がばれるぞ」そして遺されてあったカードで首尾よく金を引き出して去る。

法廷の場面。リュシアンが判事の質問に答えている。危害は加えていない。大金を他人に分け与えるのは良心からだ、無罪になるはずだ。逮捕されても何度でもやる。確信的な知能犯タイプ。

○イヴォン:(燃料店の従業員、幼い娘と妻の3人家族)

カメラ店で集金を終え、イヴォンはその足で立ち寄ったカフェでカメラ店で受け取った紙幣で支払おうとして、ニセ札と指摘される。3枚の紙幣がすべてニセ札と言われて呆れるが、犯人と決めつけられて思わず暴力をふるう。

言い分を確認するため警官が同行してカメラ店に行くが知らないと言われて潔白は証明されない。送検される。
相談した弁護士の結論は、カフェは弁償すれば告訴は取り下げられるが、疑いを晴らすにはカメラ店が問題だと。
だが法廷ではカメラ店の店主と店員が結託して偽証される。弁護士の助けで不起訴になるが失業する。
カメラ店の不正直を告訴していたが、判事からは「善良な市民を告訴するとは・・・。以後肝に銘じておけ」と注意される始末。
妻は燃料店に話してもう一度雇ってもらえば・・・と助言するが、頭を下げるのはゴメンだと言う。

金策を頼んだ知人は金は貸せないが頼みたい仕事があるとして、何事か指示する。「それだけ?」と聞き返すほど簡単な話。妻が「心配だわ」と言うが、行ってみると銀行強盗の運び屋に誘い込まれていた。今度は重罪裁判所で禁固3年。

面会に来た妻に、出所したらきっと真面目に働くと伝えるが、妻は黙って去る。手紙が来て子どもが急死したが言えなかったと。手紙の往来が途絶える。やがて妻から新しい生活を始めると最後の手紙。自殺を図るが未遂に終る。


病院から戻された日にリュシアンが入所する。面倒見るから脱走しようと誘われるが断り、おまえを殺すと復讐を宣言する。やがて出所したイヴォンは当てもなく歩き出してホテルに泊まる。その夜ホテルの夫婦を殺して僅かな金を取る。

おもちゃ屋のショーウインドウを眺めていると、ふと行きがかりの老婦人と顔があう。あとをつけて行くと、婦人は年金らしいカネをおろして帰宅する。夜になってその家に入ってゆき食事をもらい、そのまま居続ける。
洗濯物を干すのを手伝ったり、木の実を摘み取って婦人と分け合ったりする優しさを持つ。犬もよくなつく。穏やかな日が何日か続いたある夜、イヴォンは凶行に及び一家全員を殺してしまう。
カフェで来合わせた警官に自首して捕らわれる。


○老婦人:
夫に先立たれ、横暴で酒好きな元ピアノ教師の義父の面倒を見る。妹夫婦と車いすのその息子が一つ屋根の下に暮らしている。
夜になって入ってきたイヴォンに食事を与えながら、人殺しをした理由を聞いたりしたあと、「私が神ならあなたを救うだろう」と言う。
同居の5人の日常の世話を黙々と続ける辛い日々について、イヴォンに奇蹟を待っているのかと聞かれ、何も期待していないと答える。
凶行の夜、電気スタンドの光に浮き上がった姿、イヴォンを見上げる顔にはいつもの穏やかさが。「カネはどこだ」振り下ろされる斧。血しぶきが壁に飛び散る。

【気になるシーン】
カフェでにせ札を指摘される場面。思わず相手を突き飛ばしたあとのカット。右手のクロースアップ。この意図は?労働者の手か。それともこの手が後に斧を振るう手だからか。



イヴォンの同房者は復讐など止して自分の幸せを考えろ、兎に角早く出所することを考えろと助言する。この同房者が映る最初のカットは向こう向きで後ろ手に小さな本のような物を持っているのを見せる。この意図は?
原作の第二部では福音書がでてくるが、ブレッソンのストーリーでは否定されてるみたいだし。

また、イヴォンは膝が悪いことがこの場面で観客に知らされる。同房者が膝を見てやっているときリュシアンからミサに出ろと呼び出しが伝えられる。行くな、と言われながらも、車いすを押してもらって行くイヴォン。ミサでは脱走を誘われるが断る。もし膝が悪くなければ誘いに乗ったのだろうか?

老婦人の家:
表道路をつと曲がると原っぱが広がっている。踏み跡のような小径があり、その先に小川があって小さな木の橋。渡ると家がある。まわりにはジャガイモの畑やら木立がある。
銀行強盗に誘われたときに見える道路地図はパリだったが、ここはどこだろう。郊外かな。
小川の流れで婦人は洗濯もするが、この小川は世の中と家の在処をわけ隔てている象徴なのか。能狂言の橋がかり的な位置取りが謎めいている。


老婦人が朝パンを買いに出ると、街角に車を停めた警官たちも買いに来ている。一見平和な風景だが・・・。捜索の手が伸びてきているということかも。

凶行の夜:石油ランプが登場する。なぜ懐中電灯ではないのか。よく考えればイヴォンは納屋から出てきたのだ。納屋には電気は引いていないだろう。で、石油ランプは当然の登場だ。納得。そのうえ凶行の夜家の中を動き回る場面に与える効果は抜群である。

イヴォンがカフェで自首したあとの場面。
カフェの客たちがいっせいに奥の部屋のほうをのぞき込む。イヴォンが警官に囲まれて出てくる。そのあと集まった客たちは誰もいなくなった奥の部屋をいつまでも見ている。まるでそこに何かがあるかのように。

【見終わって】
画面には心の動きなど一切明らかにはならない。映画の進行は場面の切り替わりとセリフだけで音楽もほとんどない。筋書きで分かるようにくらーい映画。

騙し、偽証、袖の下、口止め料、イヴォンの周辺で行なわれる金に操られる人々の光景が次々と、しかも淡々と繰り広げられる。刑務所では看守は適当に服役者となれ合っている。塀の中も外も同じようにカネが仲介する人間社会だ。

世の中カネで回っている。イヴォンは自分ではカネにつられない。でも人々が執着するカネのため自分を失うハメになる。もともとは潔白なのに。理不尽な世の中。犯罪は世の中が作る。人間が作る。人間の心が作る。

この映画には神も信仰も出てこない。刑務所でミサが行なわれるが、そこは闇取引の場所だ。イヴォンが自殺を図って病院に運ばれてゆくとき、房内で自殺者のために祈る一人がいた。先に死は怖いなとつぶやいていた男らしい。老婦人は自分が神ならイヴォンを救うとは言ったが自分も殺されてしまう。

最後のカットはカフェの群衆が無人の部屋をのぞき込んでいる。監督は空虚を見ているのですと語ったとの話が残っている。
いったいこの監督の問いかけは何なのだろう。
クレジットにはトルストイの小説「にせ利札」に発想を得たとなっている。「にせ利札」は二部作。第一部で映画同様の運びで犯罪が起きるが、第二部では人々が信仰に目覚め始める連鎖で世の中が救われる構造になっている。
ブレッソンは徹底して悪を描いて、第二部は切り捨てたかに見える。だが、同房者のセリフに第二部のテーマ、世の中の幸せが入っている。しかし、それは否定され、世の中よりも自分の幸せを望む、それもカネだ、との現代人の思想が表現される。だからトルストイのテーマは忘れられてはいない。
「にせ利札」では世の中の掟が守られていればみんなが幸せになれると人々が考えていた。現代にはその掟が破られカネが神に代わってのさばっている。こわごわ偽証したが何事も起こらなかったではないか。

この映画は、こんなことでよいのかというブレッソンの告発でしょう。最後のシーンで人々が何も見えない奥の部屋をいっせいに見ている。何も見えないのに見ている、いや、これは何かを求めている姿なのです。

【心に残ったさまざまのシーン、または疑問】
ドア口に迎える子どもの笑顔。はじめはみんなこんなものなのに。純真無垢。
このシーンは原作にはない.ブレッソンの工夫だろう。

殺されるときの老婦人の顔:
ジット見上げる穏やかな眼、やさしげな顔立ちが輝いているかのようにみえる。
トルストイの原作では、この顔に耐えがたくなって斧を振り下ろす。そして後々、いつまでもこの顔が脳裏に表われて殺人者を悩まし、改心のきっかけになる。だからブレッソンはこの場面をこのように演出したとわかる。


カメラ店主の涙:夫婦ともう一人がリュシアンのことを話している。
  慈善活動しているという噂。貧しい人を助けるんだと言ってるそうだ。あの子ならやるかも。
  あいつは悪党だ、法廷でもシャアシャアと偽証しやがった。

  リュシアンから手紙が届いている。小切手が同封されている。100.000の数字が読める。手紙  の文面。
  「あなたは僕に卑劣なことをさせた。でも僕はイヴォンにもっと卑劣なことをした。リュシアン」。

  手紙を読んだ店主は指で眼の下の涙を拭くように見えるが、泣いたのだろうか。どうして?   良心の発露?

イヴォンのショルダーバッグ。特徴的。茶色の左右一対。時にはバックだけで持ち主の存在を知らせる。左右に掛けているから遠景でも誰か見分けられる。便利な小道具だ。

酒飲みの義父がピアノを弾いている。J.S.バッハ、「半音階的幻想曲とフーガ BWV903」 音楽はこれだけ。

がっちり無駄なく運ばれる場面構成。分析してみるとなかなか興味深い。1983年カンヌ監督賞受賞。ロベール・ブレッソン、82歳当時の遺作、彼は1999年98歳で亡くなりました。


追記:日本語字幕に表示されるセリフは、アナログ放映のBS2とデジタル放映のBSプレミアムとでは相異があります。もとの原語セリフは同じであっても限られた時間内に一定数の文字を収めなくてはならない翻訳では内容が翻訳者の意向によって変わることはやむを得ないのでしょう。
この記事を書くにあたって両者を比較しながら進めましたが、悲しいかな原語が聞き取れないという障害のためブレッソン監督の意図などは正確に伝わっていないかもしれないことをお断りしておきます。BS2の字幕作者;斉藤敦子、BSプレミアム:大城哲郎となっていました。2014/6/6