2014年6月19日木曜日

小さな発見 女化開拓のこと--熊楠の謎の一つが分かった

1886年末に渡米した南方熊楠は上陸したサンフランシスコにしばらく留まった後、ミシガン州ランシングにあるミシガン農学校に入学した。なぜこの地を選んだのか。 熊楠の経歴について、このことは長らく私の疑問であったが、久しぶりに関連図書を読み出したところ判明した。しばらく熊楠問題から遠ざかっていた間に研究も進み、新著もいくつか出版されたおかげである。 当座の疑問は解決したが、副産物が出てきた。それが「女化」である。 女化は地名、関西人の私にとっては当初読み方も分からない不思議な地名としか思えなかった地域でした。読み方は「おなばけ」、現在は茨城県牛久市女化町(オナバケチョウ)という町名になっていますが、民間伝承の豊かな古い地名です。
一時期、この地を通過する道路をよく利用しましたが、あるとき大々的な拡幅工事が始まったかと思うと、あっという間に細い地道が立派な幹線道路に生まれ変わりました。あれは確か筑波万博に付帯する事業だったのでしょう。本稿末尾注⑵『女化』の文字を発見して、つい懐かしい思いから背景事情を追いかけてみました。
明治11年より和歌山県士族津田出が開拓をはじめた女化ケ原は、日本で最初の洋式大農法で開拓されました。
写真はpainreef3108さんのをお借りしました。
Wikipedia記載の歴史には「元は荒涼とした草原地帯であったが、1878年(明治11年)、津田出により、大規模農場経営の第七農場として開発が始まった。後に経営は破綻し、土地は日本全国からの入植者に払い下げられた」とあります。

熊楠の研究者(注1)は熊楠がランシングの農学校を選んだ理由を探索するうちに1883-1884年当時の在校生名簿にMichitaro Tsudaという日本人らしい名前を発見しました。次いで、この人物が津田出の長男道太郎であることが確認されたのです。津田出は明治初年の和歌山藩の大参事として藩政改革に功労のあった人物で近代陸軍の基礎を作りました。新政府に移行して後、辞任して1878年にアメリカ式大農法の試みを始めます。その土地が女化だったわけであります。

荒蕪地の女化原の開拓はお雇いアメリカ人デダフルシュ・アップ・ジョンズ(注2)が内務卿大久保利通に提言して、津田によって実行に移されたようです。このために長男道太郎を農学校に留学させる必要が生じたのかもしれませんし、アップ・ジョンズが勧めたのかもしれません。いずれにしても、日本人津田道太郎がミシガン農学校に在学した事実がありました。

さて、この津田道太郎の弟安麿が熊楠の大学予備門当時に和歌山学生会を結成した仲間でした。熊楠の日記1886年11月20日条に「朝津田安麿氏と倶に其兄道太郎氏を訪、米国事情を聞く」と書いています。さらに、11月30日にも訪ねています。農学校の入学には卒業生津田道太郎を保証人に立てています。こういう事情が判明すれば、熊楠が縁故をたどってミシガン農学校を選んだことは明らかです。しかし、アメリカの学問や授業、寄宿舎生活などへの不満が募った模様で1888年11月17日寮を出てアナバーに向かいました。そして、そのまま退学してしまいます。熊楠の在学履歴はこれを最後にして、以後は生涯独学で研鑽することになります。

このようなわけで熊楠に関する謎の一つが解けましたが、津田出という人物を知り、さらに大農場経営という事業計画の存在を知りました。
お雇い外国人アップ・ジョーンズについては今のところ資料が見つかりません。ただ、千葉県謎解き散歩2、森田保編著という本に大久保利通の政策でジョーンズが手がけた牧羊計画が紹介されています。

本稿の参考図書:武内善信『闘う南方熊楠 エコロジーの先駆者』(2012年勉誠出版)。
(注1)アメリカ調査の全体については、横山茂雄・中西須美・松居竜吾『ランシング・アナ-バー時代の南方熊楠ーーアメリカ調査報告ーー」(『熊楠研究』五号、2003年)
(注2)『女化』(女化開拓史刊行委員会編、エリート情報社、1985年)42頁
ただし、注1注2とも未見。