2014年6月12日木曜日

読書随想 『夏目金之助 ロンドンに狂せり』 末延芳晴著(2004年青土社)

著者は1942年生まれ、東大文学部中国文学部卒業、1973年から98年までニューヨーク在住、アメリカの芸術・文化についての評論活動、永井荷風や夏目漱石など明治時代文学者の探求を続け、現在は京都在住で著述評論活動を行なっているそうです。
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図書館で何気なく手にしたこの著書はノンフィクション的作品で小説をあまり読まない私も最後まで興味深く読みました。
単独で見知らぬ土地に出掛けて住み着く者が抱く孤独感のような感覚が生きている著作でもあると思いました。




狼群の中のむく犬のごとく


本書の表題は「夏目狂せり」という電文めいた文言が伝わっているのを借りたものでしょうが、金之助は倫敦滞在の最後の時期に極度の神経衰弱の状態で『文学論』の仕上げに集中していました。日本人関係者が心配しているときに、往路同じ船でドイツに留学した藤代禎輔が文部省から「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」との電報を受け取ったと回想しています。しかし金之助は準備が出来ていないことを理由に同行して帰国するのを断り、藤代も金之助の状態から、別段心配するほどのことはないと判断して先に帰国の途に就きました。(藤代禎輔はのちに京都帝大教授、ドイツ文学者)



                        81, The Chase 夏目金之助が狂気のように苦闘した止宿先、
                       屋上のサンルームは近年追加されたもの。金之助の部屋は3階だった。


というわけで夏目金之助は狂するところまではいかなかったが、紙一重の手前で『文学論』の執筆と闘いながら引きこもりの状態にありました。漱石自身も「神経衰弱と狂気とは否応なく自分を創作の方面に向かわせる」ものとして感謝の意さえ表していると『文学論』の「序」をひいて著者は強調しています。これらの事情は最終の第十八章に自我のよりどころを求めてとして述べられています。

著者が眼目にして底流とした金之助の精神の状態は幼児期の体験から不幸が始まっています。富裕な名主の家筋も時代が下がって没落した結果5人兄弟の末子として生まれた金之助は里子に出されたり、養子にやられたり、養家の塩原姓のまま生家に戻ったりののち21歳で夏目家に復籍しました。研究者はこの間の漱石の記憶には捨て子にされたとの強い心の傷が残ったとします。著者もこれを認めて後の作品での反映に触れています。さらに帝大入学前後に長兄、次兄、親しかった義姉を相次いで失い、続いて肺結核にかかる不幸が続いて、この頃から神経衰弱の症候が強くなったと伝えられています。

また、三歳の頃に患った疱瘡によりかなり目立つあばたが顔に残ったことはずっと漱石を悩ませます。留学の4年前熊本で結婚しますが、鏡子夫人は環境や家事に不慣れでうまく対応できないことから川に身を投げて自殺未遂となるなど、この結婚生活は留学中も円満ではありませんでした。

数えたてれば不幸のかたまりであるような金之助に政府派遣留学生の重圧がかかることになるのです。熊本第五高等学校で英語講師をしながら教師が嫌になっていた時期にあたったそうで、留学生を拝命すべきかどうか迷います。指定された留学目的が英語教授法の研究だったからです。いったんは辞退しますが、留学目的の変更を認められることになり、英文学研究を目的として承諾することにしました。1900(明治33)年5月のことでした。

さて、準備なって9月8日横浜から船上の人となった金之助は往路のほとんどを船酔いはげしく、食事も十分にとれない状況にあったらしい。他の船客がすっかり慣れてからも、ひとり金之助は船室で寝込んでいたといいます。著者はこれを船酔いだけではなく、生来の神経症を病んでいたためだとしています。
欧州に渡ってから汽車に乗るとコンパートメントは白人ばかり、皆じろじろと金之助の顔を見るのですが、彼はこれを顔のあばたのためだと思いこみます。ところが倫敦に行き着いて町を歩くと、自分の皮膚の色が周囲と違うことに気がつきます。日本出立前に新調した洋服は船上でも西洋人の服装に見劣りしないことを確認していましたから、服装には自信がありました。ところで金之助は立派な八字ひげを蓄えていました。街頭で行き交う婦人達が金之助を見ながら、チャイニーズかな?とかチャイニーズらしくないわね、などと噂するのが耳に入ってびっくりします。
漢文で教育を受けた彼にとってシナは尊敬する国です。ところが英国人達は見下しているのです。夏目金之助もここに至って自分は黄色の皮膚を持った東洋人で、この国では差別されていることを自覚します。そしてこのことがまた精神状態に作用するのです。
この頃日本でも英国でもシナ人は軽侮される存在でしたが、漱石はシナびいきだったのです。それでも自分がシナ人とみなされると、その心情は面白くありません。このあたり先進の英国にある日本人の心情は複雑です。

76 Gower st. ようやくの思いでたどり着いた最初の宿。家賃が高いので二週間で引き払いました。
当時造船所を訪れる日本海軍軍人の定宿だったそうです。
帝国大学英文科卒業で政府派遣留学生とあれば晴れやかな肩書きであるはずですが、ここロンドにあっては何の効力もありません。目に映る街の壮麗さに圧倒され、背の高い英国人の間に紛れ、地理不案内で再三迷子になる不安も重なって、金之助の精神は萎縮する一方でした。そんななかでケンブリッジなど勉学先や個人教授などを捜し求めたあげく、独学で英文学を研究する途を選びます。そしてしばらくはシェイクスピア研究のクレイグ先生に就きますが、やがて自らに課した『文学論』をまとめる時間を惜しんで独り止宿先にこもります。このあたりから自閉症的傾向が強くなったようです。

留学目的を英文学研究に変えてはみたものの、ひたすら英文を読むばかりでは充実感が得られない一方で、何か創造的な課題に取り組みたい衝動も感じていました。それは書くという行為で自分を表明する、後に作家の途を選ぶことになる自己解放の願望でした。けれども留学生としての使命を優先させて自己の願望は押さえ込んで文学を研究することにしたのです。
漢文の文学と英文の文学は同じか、文学とはいかなるものか、などという大きな命題に強引に取り組もうとしたのでした。留学二年目に入ってから猛然と英文のノートつくりに励み、そのノートの厚みは5、6寸に達したそうです。

先に述べたようにロンドンに来てからの暗い心持ちのままでのこのような無理な自己鞭撻が、もともとそれほど頑丈ではない金之助の精神生理に狂気をもたらしたのでありましょう。
たまたま同じ止宿先に短期間滞在した化学者池田菊苗(後に味の素の創始、功労者)と議論を重ね楽しく交流した金之助は科学的な方面にも興味を惹かれています。寺田寅彦には普遍性のある科学研究への憧れを書き送っています。文学にも科学的な研究方法を探ったのかもしれませんが、できあがった結果は気の毒なものであったようです。
帰国後帝国大学でこの研究をもとにして講義をしていますが、学生相手の英文学の講義にすぎない結果となったそうです。
のちに講演「日本の開化」などの文明論に表明されたような、日本は内発的に発展すべしという漱石の高い理想などが展開されていればと惜しまれます。

私は漱石のよき読者ではありませんので、末延氏が綿密に追及されている作品への反映をひたすら感心しながら読ませて頂きました。随想とはいえこのような印象記しか書けませんが、漱石の心の奥深く隠れていた精神生理の流れを作品に追うという手法には深く敬意を表します。
(止宿先の写真は http://kazekaoru.hanamizake.com/ にお借りしました。)

本書には金之助が日本に出した絵葉書が多数色刷りで収録されています。ここにはネットで拾った街頭風景を参考までに提示します。堂々たる建物が並ぶ街路であっても実は馬糞だらけだったようですから、実際にはかなり匂う街であったと想像します。写真は匂わないから幸いです。
ピカデリー 1900年

ピカデリー・サーカス 1900年頃
リージェント・ストリート 1900年