2018年6月29日金曜日

読書閑談 「ペリー提督日本遠征記」(その2) 序論だけ読んだ

浦賀沖に黒船が現れたとき、そしてその正体が知れたときに、人びとは上を下への大騒ぎとなり、混乱の坩堝に投げ込まれたのであったが、すかさずどこからともなく騒ぎを冷やかす狂歌が伝えられてきた。
     「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」
幕府の無能ぶりに当てつけたという評もあるが、これは広く民の声だったと思う。黒船到着は嘉永6年6月3日で、こんな狂歌が出回っているよという江戸からの手紙の日付が6月30日だ。民衆はいつも鋭くて素早いのだ。(静嘉堂文庫 「色川三中文書」)
蒸気フリゲート艦ミシシッピ号

お茶の銘柄に引っ掛けられた蒸気船は4隻でなくて2隻で、あとの2隻は帆船だった。ペリー提督日本遠征記は、足掛け3年にわたる航海の議会への報告書だ。表題は「合衆国政府の命令により、合衆国海軍エム・シー・ペルリ提督の指揮の下に、1852年、1853年及び1854年に行われたる、支那諸海及び日本へのアメリカ艦隊遠征記事」(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記』)という。既承のように日本には2度来航して日米条約を締結した。
遠征記には、航海の記事に先立ってペリーの要請によって編纂に携わった牧師・歴史家のF・L・ホークスの前書きがあり、次いで序論がある。序論にはそれまで日本について彼等に知られていた事柄を概括的に説明してある。その序論において、ホークスは日本の200年来の鎖国状態を打ち破って、世界の貿易国の一員として招き入れるための第一歩となる友好通商条約締結を、まっさきに実現させる役割を、最も若い国である合衆国が担ったのはまさに適任だったと述べる。
コロンブスには、キリスト教団のために日本を発見し開国するという運命は与えられなかったが、彼の発見した大陸、彼の探求した国にいたる道をさえぎった大陸の上に、神の摂理のもと、一つの国が生まれ、そしてその国が彼のめざしていた役割の一端を担い、彼を西方へ駆り立てた夢の、少なくとも一部分を実現させたというのも不思議な巡り合わせだろう。この国がジパングを発見したのではないにしても、日本が世界の国々と自由に行き来できるようになるためのかけ橋になったことは間違いない。一度はコロンブスの手の中でちぎれ、アメリカの海岸に落ちていた運命の糸を拾い上げたのは、ほかならぬアメリカ自身だった。そして、それを運命の毬にしっかりと結びつけると、毬は糸のほどけるままに転がり始めた。そして偉大なるジェノヴァ人、コロンブスによって発見された大陸の原住民と文明化した住民たちは、その糸に導かれるままに、彼の求めたはるか彼方の国、日本の地に足を踏み入れることになり、ジパングをヨーロッパ文明の影響下におくというコロンブスの夢を遂に実現させたのである。(p24-5)
この文章が書かれたのが1856年、そして、カリフォルニア州誕生が1850年、アメリカが大きく太平洋に正面したころのことである。いかにも牧師らしいホークスの語りではあるが、ピルグリム・ファーザーズ以来の宗教的建国理念が色濃く反映するアメリカの政治の基本を思い起こさせる。そして、この時代は、まだ後世にみられる多民族観による雑音はなく、単純にコロンブスが建国の英雄だったのだとわかる。しかし、この文書はアメリカの公文書だろうから国益にならない事柄は書かれていないと前提して読むべきだと思う。

ホークスの役割は徹底してペリーおよび部下や同行者によって提供された資料を編纂することに専念し、ホークス自身による追加はほぼないものと考えられる。本書下巻末に付された加藤祐三氏による解説中に「(序論は)多くの文献情報を渉猟して構成した、第一級の日本人論・日本文化論でもある」(p.556)とみえるが、ここにいう「渉猟」はペリー自身によるものであることに注目したい。同氏は、そのことの説明に「ペリーは東インド艦隊司令長官に就任する前から、日本遠征記の構想を温めており、日本に関する書籍を大量に購入、なかでも出島のオランダ商館に滞在していたフォン・シーボルト『日本(NIPPON)』を高く評価した。また、日本への漂着経験を持つ捕鯨船の船主からも情報を集めていた」と記されている。(p.557)

第一節、領域の説明の中に「マラッカ諸島」の語がある。原文には Moluccas とあるから、これはインドネシア諸島のモルッカ諸島を指す。マラッカは
マレー半島の地域名で英語表記は Malaccaであり、「諸島」はありえない。遠征記では岩波文庫版も「マラッカ諸島」と訳しているが、いずれも翻訳者の認識の誤りである。

第三節の政治については法制度や行政制度などに触れるが、私たち日本人に奇異に響くのはスパイ制度という言葉である。隅々まで張りめぐらされていると書かれているが、おそらく徳川治世下に行われた目付、公儀隠密、御庭番、住民相互の監視制度の五人組などを指すのであろう。すべてがスパイ制度の語ですまされている。違反者はたいてい死刑ないし自死となることに強く印象付けられたようで、世界で最も苛酷な法律と述べている。

第四節、宗教に関してはこれほど外国人に理解不能なことはなかったのかも知れないが、奇妙な説明が多い。現代の読者はただ面白がればよろしいかと考える。

第5節は、「過去に於ける日本帝国と西洋文明諸國との關係の概観」と題されている。私には関心の強い事柄だけに面白く読んだ。はじめはポルトガル人の項。
フェルナン・メンデス・ピントの名は、セルヴァンテスによって不朽のものとなったが、あいにくそれは、シェイクスピアの言葉を借りると、「はかりしれぬ嘘つき」という評判を得てのことだった(p.64)。
ピント氏について私は存じ上げないのであるが、セルヴァンテスがどこかで話しているのだろう。シェイクスピアの言葉というのは原文に "measureless liar" と出ていた。本書にはピントは、16世紀のポルトガルにおける代表的な探検家である、と断言している。一般に日本に初めてやってきたポルトガル人といえば、鉄砲伝来説の種子島に漂着という話になっているが、遠征記では1543年か45年に暴風雨によって日本沿岸に流され、豊後の港にたどり着いたとしており、上陸したのはピントを含む3人としている。鉄砲のことは出ていない。
余談になるが、ピントの旅行記は、『遍歴記』という著述に残されていて日本語でも東洋文庫に全三巻が収まっている。
京都外国語大学図書館の奥正敬氏がサヴィエルの後援者としての姿を紹介してくれている。『ほら吹きピント』の本当の話)、(つづき
奥氏によれば現在のポルトガル国では豊後に流れ着いた1541年を「日本発見年」としているそうだ。

豊後の太守つまり封侯との間もうまくいき通商関係ができる。毎年マカオかゴアとの間にポルトガル船が往来した。1549年には罪を犯して高跳びしたアンジロウがゴアに渡り、洗礼を受けた。彼の提言でイエズス会の宣教師も問題なく活動できると知ってザヴィエルほかも来日した。
布教活動がうまくいったのはザヴィエルの熱意だけではなく、一同が聖なる天職を全うしようと、謙虚に、しかも飽くことなく任務に専念したからだったと記述される。ザヴィエルは「日本人のことはいくら語っても語りつくせない。彼らは本当にわが心の喜びであった」と述べているそうだ。(p.68)
1566年頃、当時の封侯であった大村公は、ポルトガル人の進言によって長崎港が最上であることに初めて注目した。居留地が建設され、豊後、平戸、長崎が主な交易地となった。やがてこの繁栄ぶりが終わりになる兆候が見え始めてきた。ほかでもない宣教師たちにその原因があった。ザヴィエルの仲間たちは続々とやってくるドミニコ会、アウグスティノ会、フランシスコ会の修道士らに数で圧倒された。新来者たちは互いに反目し、すべての教団がイエズス会といがみ合った。彼らの醜い争いは日本人の目に余った。そのうえ宣教師たちだけでなく一般のポルトガル人の日本人に対する態度行動も顰蹙を買った。日本の制度・慣習を見下し、故意に政府高官を侮辱し、礼儀を無視する行為に出た。時の皇帝は太閤だった。彼は、帝国の法律や習慣が横柄な異国人に踏みにじられるのを黙ってみていた最後の支配者だった。
東洋からリスボンへと向かっていた一隻のポルトガル船が、オランダ人に拿捕された。そして積載されていた荷物の中から、日本人モロからポルトガルの王に宛てた、売国的な手紙が発見されたのである。モロは熱心なローマ教徒で、イエズス会士と懇意であり、日本におけるポルトガル人の主要代理人であるとともに彼らの友人でもあった。そして、その彼の手紙から、日本人のキリスト教徒がポルトガル人と結んで王位の転覆を謀っていることが明らかになった。彼らはそのために、ポルトガルの艦船と兵士の派遣を要請しようとしていたのである。その計画の詳しい内容ははっきりとはつかめないにせよ、そうした陰謀が企てられていたことは間違いない(p.72)。「ポルトガル人の不倶戴天の敵であるオランダ人は、ただちにこの没収した手紙のことを日本政府に報告した。その結果、1637年に皇帝の布告が発せられ、『すべてのポルトガル人を、その母であれ、乳母であれ、彼らに属するものはすべて永久に追放する』と定められた(p.72)。
日本の歴史書によれば、いわゆるバテレンの追放は1587年秀吉によって行われたが、遠征記はここに1637年という年を登場させているのは、その後の禁教令やポルトガルとの国交断絶と混同されている。日本人モロによる手紙ということも、どういう史実に基づいているのか知りたいものである。ちなみに1637年は島原の乱が起きた年である。
上に記した文中に「ポルトガル人の不倶戴天の敵であるオランダ人」とある。何をもってそのように表現したかはわからないが、原文を見てもそのとおりの表現になっている。この時代衰退してゆくポルトガルと興隆途中のオランダとは何かにつけて敵対しているから、特定の事件を当てはめなくてもよいと考えよう。
不良外人としてのポルトガル人を考えるとき、スペインも同列に見てよかろうと思うが、海外に布教にでかけた宣教師たちの悪行を忘れてはならない。ラス・カサスの告発だけでなく、ブラジルでもポルトガル人が悪逆の限りを尽くしている。ペリーがいうようにザヴィエルが善人であったとしても来日したポルトガル宣教師が全て良い人たちとは限らない。

次はオランダ人である。
ここではローマ法王によるスペイン・ポルトガルへの地球分割認可を盾として後発のイギリスとオランダへの貿易参入妨害の争いを物語る。三浦按針ことウィリアム・アダムスが登場する。イギリス人だがオランダ船の水先案内人として来日した。
2年におよぶ悲惨な航海ののち、5隻だった船団はただアダムスが乗った1隻だけがようようのことで豊後に着いた。1600年4月12日、歩けるものは5人しかいなかった。報告が皇帝に送られた。アダムスと船乗り一人を大阪へ連れてくるように命令が出された。遠征記は「皇帝」と書くが、日本の史実に照らせば、ときによってそれは秀頼であり、家康である。早速ポルトガル人たちがオランダ人は海賊であるとして処刑を要求するが、取り合わず長い問答のあと投獄され41日間牢獄で過ごした。処刑をする理由はないとなって釈放されるが、オランダ人たちは帰国は許されず支給される生活費で安楽に暮らした。アダムスは家康に気に入られて宮廷にとどまり、高い地位が与えられ、数学を教えたり、船を2艘造ったりして仕えた。1611年にやってきたオランダ船から母国イギリスが東インドに進出していることを知り、故郷に手紙を出した記録が残っている。返事があったどうか不明だそうだ。1619年か20年に平戸で死去した。
1639年の暮を待たずに追放されたポルトガル人のあと、平戸の商館にはオランダ人が入っていた。島原に逃れた日本人キリスト信者が反乱を起こしたとき、日本政府の要請にこたえてオランダ人は大砲を持ち出して信徒たちを殺戮するという恥ずべき行動をとった。それも商業上の利益への下劣な下心から出たものに過ぎなかったとして、事後の賛否論争を含めて詳しく述べている。事実を1833年発表のフィッシャーの著作に基づくと書いてある。教派が違うとしても同じキリスト教徒を無碍に殺戮してしまうオランダ人に矛盾を感じた日本人たちは憎しみと軽蔑の念を抱いた。結果として日本からローマ派もプロテスタント派も排斥される運命をたどった。以後出島に移ったオランダ人はキリスト教を表面には一切出すことなく、厳しく監視されながら屈辱的な牢獄のような生活を続けた。ひとえに日本人との交易事業を独占したいがためなのである!とある。オランダ人については彼らに仕える医師であったドイツ人のケンペルの著作に多くを得ている。

イギリス人
イギリス人についてはなかなか興味深い物語が記されている。アダムスが故郷に手紙を出したとき、もう1通東洋にいる同郷人宛にも出した。それはバタヴィアを経由してロンドンに送られ、「対東インド・ロンドン貿易組合」(後の東インド会社)に届いた。組合はクローヴ号という船を日本に向けて出航させた。船長ジョン・セリス、平戸侯宛のジェームズⅠ世の書簡と皇帝宛の親書および贈り物を携えて1611年4月18日イギリスを出発した。様々な港で取引をしながら1613年6月11日に平戸に着いた。江戸にいるアダムズに平戸に来るよう連絡をとった。王の書簡を平戸侯の法印様に届けたがアダムスが来て訳すまで開封しなかった。7月29日アダムス到着、セリスと10人のイギリス人を伴って江戸へ向かった。目的は贈り物と通商交渉である。平戸候は50挺艫の船を提供した。旅の詳細はセリスが書き残している。皇帝には丁重にもてなされ、秘書官と交渉の結果、通商の特権を得た。遠征記には各条項が書き出され、次のように論評されている。
これらの条項を見ると、相手国に対して非常に寛大な特権が認められており、元来、日本の政策が鎖国主義とは程遠いものであったことがわかる。そして、ヨーロッパの大方の文明国がが厳しい鎖国制度の導入によって長い間日本の港から閉め出されたのも、自業自得であったということをはっきりと示している。日本人にしてみれば、自国を外国人が占領しようと企んでいるのを知った以上、それを黙って見逃すわけにはいかなかった。(中略)もし、遺憾にして陰謀にヨーロッパ人の宣教師が加わっていたのなら、宗教を策略として用いた結果として日本から追放されたのは当然の報いであったといわなければならない。間違いを犯したのはヨーロッパ人の方であって、日本人ではないのである。(p93ー94)
セリスは、リチャード・コックスを商館長に任命し、8人のイギリス人、3人の日本人通訳、二人の日本人の使用人を置いた。その一人がアダムスである。
商館側は高額の給料を支払い喜んで彼を雇ったという。しかしイギリス商館は貿易事業の採算がうまくいかなくなって、1623年に惜しまれながら、閉館した。
時世が動いて1673年、東インド会社は日本との再開に向けて動き始めた。この間に本国イギリスでは大きな内乱を経験した。国王チャールズ二世はポルトガル王家と婚姻し、ポルトガルと同盟を結んだ。このことはすかさずオランダから日本に報告され、強い疑念を持たれた。結局このときの貿易再開は叶えられなかった。こののち1791年にも取引を希望して立ち寄ったアルゴノート号も入港を拒絶され、かろうじて薪炭を補給しただけで退散させられた。これもインド方面でのイギリス情勢をオランダ商館が歪曲して日本に伝えていたからである。イギリス人の東洋における非道な行いを弁明するつもりはないが、東洋で敗退しつつあったオランダが、日本との取引を独占したいがために、すべてのキリスト教国に日本との交易から手を引かせようとする政策を、自己の気高い歴史を汚すような卑屈さを代償として進めていたことを糾弾する、と遠征記はいう。

更にその後の物語は読者にとっても面白い事件だ。1808年10月のこと、オランダの旗を掲げたヨーロッパ船が長崎沖に現れた。オランダ商館長ドゥーフは、バタヴィアからの定期貿易船だと思って、職員を二人その船に向かわせた。日本人通訳が二人小舟で続いた。貿易船から降ろされたボートが近づいてきて職員二人が拉致された。日本人通訳には事態が飲み込めなかったが、自国がイギリスと戦争状態にあることを知っていたドゥーフにはそれがイギリス船であると了解できた。長崎奉行は激怒してイギリス船を撃退する準備にかかったが、あにはからんや港に配置されているはずの千人の守備隊員が無断で持ち場を離れているの知って愕然とした。指揮官の姿はなく、招集できたのはわずか6,70人だったという。拘束された職員からドゥーフに手書きの紙片がもたらされ、本船が水と食料を求めているとあった。奉行の同意なしには供給できないが、奉行から意見を求められたドゥーフは敵国には供給できないと断った。拘束されたうちの一人ゴーズマンが「水と食料を供給させるためにこの者を送り返す。夕方までに戻らなければ明朝港内の船を焼き払う」との脅迫状を持ち帰った。奉行は怒り狂ったが、ドゥーフは、なだめて水と食料を付けてゴーズマンを本船に戻した結果、職員二人とも無事に返された。なんとかこの船に打撃を与えようと策を練っているうちに順風が吹きはじめ船は出ていってしまった。フェートン号というイギリス武装船だった。
残された日本人たちには哀れな結末が待っていた。奉行はフェートン号が出港して30分後に自害した。自ら臓腑をえぐり出したと記されているからには切腹だ。任務を怠った守備隊の士官たちも同じく後を追った。通訳たちは江戸へ呼び出され、二度と戻ってこなかった。13人が犠牲になったとある。肥前の長官は遠く江戸に住まわされていたが、部下の士官の過失を問われて百日間投獄された。この事件は日本人の間に強い偏見をもたらしたという。
さらに5年後にはまた新たな企てが試みられた。その間ヨーロッパで戦争は続いていて、商館は全世界から情報が遮断されていた。
1813年、オランダ国旗を掲げた2隻があらわれ、オランダの秘密信号も掲げられた。ドゥーフはバタヴィアからの商船と思い込んだ。手紙が届けられた。以前の商館長であり、ドゥーフの後ろ盾となってくれたワールデナル氏が政府の代理人として乗船していること、ドゥーフの後任としてカッサ氏もいることなどが書かれていた。3人しかいない商館からブロムホーフが事務員を連れて出かけ、戻ってく来ての報告でワールデナルはたしかに乗船しているが、船内は何もかも異様であり、代理人は政府からの書簡を自分には預けず、ドゥーフに直接手渡すと言っていることを付言した。やがて船が入港した。乗組員は全員英語を話している。ドゥーフ自身が事実確認のため乗船するとワールデナルが当惑しながら手紙をよこした。ドゥーフは警戒してその場での開封を拒絶してワールデナルと秘書を連れて商館に戻った。開封してみると手紙には「ジャワおよびその属領の副総督、ラッフルズ」と署名があり、ワールデナルが日本における代理人に任命され、商館での最高権力を与えられたと記されていた。出島で長らく孤立している間にオランダはフランスの属領になり国は消えていたのだ。ジャワはイギリスに帰属していてスタンフォード・ラッフルズ卿が日本におけるオランダの権利を全て引き渡すよう要求してきたのだった。ドゥーフは日本はジャワの帰属ではなく、オランダがジャワの引き渡しに結んだ協定とは全く関わりがないことを主張してラッフルズの要求を断った。
日本人がいまこの事態を知れば、先のフェートン号事件で長崎の日本人は業を煮やしており、しかも自害した奉行の子息が江戸の役人で権勢を奮っていることもあってイギリス人は極めて危険な立場にあった。ラッフルズは巧妙ではあったが非常な危険を犯していたのだ。ドゥーフは冷静に日本人にはわからないように巧妙な取引を持ちかけてイギリス人の命を救ってやる代償に商館の負債を埋め合わせる利益を得た。ラッフルズは翌年再びカッセを乗せた船を派遣したが、同じようにしてドゥーフが勝った。ドゥーフはジャワがオランダに返還され、以前の貿易が再開されたのち長官の座を後任に譲った。
イギリスは1818年に海軍のゴードン船長が65トンの小型船で江戸湾に侵入したが、武器弾薬すべて荷揚げされて退散した。ペリー提督以前の最後のイギリス船は1849年に軍艦マリナー号で浦賀に来たが何も起こらなかった。

ロシア人
日本を領有することで太平洋貿易を支配する野望があったと見ている。7、80年前のこと、難破した日本船乗組員は10年間抑留された。両国民に言語を学ばせる目的だった。エカテリーナ女王は彼らの送還を命じてシベリア総督に新任状と贈り物を持たせた使節を派遣させた。ラックスマン大尉が使節に立ったが、帰還した乗組員の入国を拒絶し、ロシア人の投獄を示唆しながらも退去を認めた。1804年女帝の孫アレクサンドルはレザノフを対日特使として長崎に派遣した。翌年まで待たされた挙げ句にレザノフは追い払われた。滞在費は日本が支払った。レザノフは怒りを抑えかねて、カムチャッカでフヴォストフとダヴィドフという2隻の武装商船のロシア士官に日本列島に敵対的な上陸強行を命じた。レザノフ自身は聖ペテルブルクに向かう途中で死亡した。千島列島の一島を襲撃した士官たちは村々を略奪し、村人を殺害した。1807年の事件である。1811年にロシア海軍の艦長ゴローニンが軍艦ディアナ号で派遣された。千島だと思ってエトロフに上陸した彼らは日本人から数年前のロシア人と同じことをするつもりかと問われて、退去し、クナシリに向かったがそこで砲撃された。来訪目的は友好的だと知らせるつもりのゴローニンは日本人に騙されて、上陸した全員が捕らわれてしまった。レザノフたちが行ったことへの報復だったので長い間捕虜になった。最後はロシア皇帝が襲撃を命じたわけでないことを理解されて今後の再訪は不要との警告書が与えられた。これで一旦ロシアの日本に対する試みは終わっている。その後については別に述べるとしている。

アメリカ合衆国
アメリカが日本との国交を求める試みを始めたのは近年であるため多くを語る必要はない。1831年のこと、日本の小船が流されて太平洋を漂流したのち、西海岸コロンビア州の河口付近に漂着した。親切に扱われ、結局マカオに連れて行かれて英米の住民に保護された。アメリカ商船モリソン号がキング家によって準備され、念の為武装を一切取り外した。1837年に出港した航海記録はアメリカ商人C・W・キング氏によって発表されている。江戸湾に到着すると役人が来艦して武装がないのを確認したが、翌朝砲撃を仕掛けてきた。船は鹿児島に向かったが、ここでも放火が浴びせられたので、マカオに戻った。
1846年、できれば交渉の場を持つ目的で日本に遠征隊が派遣された。遠征隊は90門の大砲を備えたコロンブス号とコルヴェット艦ヴィンセンス号の2隻である。7月に江戸湾到着、400艘もの警備船に囲まれた。通商許可を求める請願書に対しては「オランダ以外の国との貿易は許可できない」との回答が送られてきた。誰も上陸せず、何の目的も果たされなかった。
1849年2月、グリン提督の指揮下にあった中国海域のアメリカ艦隊所属のプレブル号は、16名のアメリカ人船乗りが日本人に捕らえられて抑留されていると連絡を受けた。釈放要求をするため、ただちに日本に向かった。沿岸に近づくと警告の号砲が発射された。長崎港内に入ると何艘もの大型船が待ち受けており、ただちに退去するよう命じられた。停泊すると大勢の兵士を乗せた小舟が続々と到着し、昼夜を問わず列をなして港に入ってきた。兵士らはプレブル号を囲む高台に陣を張った。重砲が60門あり、どれもプレブル号に照準を合わせていた。グリン艦長はアメリカ人船乗りの釈放を談判し始めた。無視するかのらりくらりと返事していた役人は、艦長がきっぱりと単刀直入にただちに船乗りたちを解放せよ、さもないと強硬手段を講じると告げると、態度を一変させて、事を荒立てないよう懇願し、2日のうちに釈放すると約束した。約束は忠実に守られ、プレブル号は帰還し、中国沿岸の艦隊に合流した。その次の合衆後政府による試みの内容が以下に述べる遠征記である。
最後に年次別の各国の行動一覧表が付いている。

第6節産業技術、文明水準、第7節文学と美術、第8節自然生産物、と簡単に紹介して日本に関するこれまでの経過と現状についての章句は終わる。
序論の各節が終わったあと、さらにしばらく長い文が続く。アメリカが下田で無事に条約を締結し終わったことが世界に知れ渡ると、「平和的な交渉によって、従来の日本の排外政策を初めて変更させたのは合衆国であったという事実に由来する功績をわが国とわが士官たちから奪い取ろうとする」目的で、諸外国から公的な刊行物や私的な出版物が世に出されていることは無視できない、という立場からの説明である。各国がとった一つひとつの行動についてもれなく説明を加える徹底した反論は、それを読む私たちには、いささかくどい感じがする。そのことは仕方ないにしても、当時の国際環境を少しはわきまえないと文章理解にさしさわる。例えば、1853年当時、ロシアが戦争中であることを聞き及んだ日本人はひどく動揺した、とあるがどういうことだろうか。戦争はクリミア戦争だとわかったとして、それなら日本人がどうして動揺するのか、そこがわからない。つまりこの遠征記全体を通して言えることでもあるが、当時の世界情勢が当時の読者には既知の事実であっても、それから160年を経た私たち、ことに日本人にとっては遠い話だということである。という次第でこの序論最後の部分は読み下すにかなり苦しんだ。
それまで外国船はすべて長崎で応対する幕府に対して、あえて江戸湾に乗り入れ、武力は使わなかったにしても十分な威圧を加えることで遂に下田で条約を締結した。武力外交が普通だった時代としては平和的と言えるだろうし、和親条約と通商条約の両方を手にした手腕もさることながら、長崎のほかに下田、函館の開港は開国につながったのであった。これまで通りに長崎から交渉を持ちかけたロシア、イギリス、オランダはアメリより早くには和親条約締結に持ち込めなかった。あとになって自分たちのあれこれの提言が効いたからだといっても、ミミズのたわごとめいてくる。オランダの言い分が負け惜しみの最たるものであったから、まことにみっともない。
私にとって新しかったのはシーボルトのとったとされる行動と言辞である。江戸の天文学者高橋至時との交友を通じて禁書の日本地図を入手したために、高橋は獄死し、製図家の某も自死した事件に発展し、本人は永久追放になった。ロシアの動静に敏感になっていた幕府は彼が生粋のオランダ人でないこともあってスパイの嫌疑をかけていた。アメリカの観測では、シーボルトはロシアのスパイであることには疑いないとしている。ペリー遠征計画が出帆12ヶ月前に公表されると、シーボルトは関係者を通じて乗船随行を懇願してきた。ペリーはいかなる権力者を通じてのことであっても断固拒否したと書いている。それは追放された人物を乗船させた場合の不測の危険を避けるためだったという。アメリカの成功が知れ渡った数カ月後、シーボルトはボンにおいて、「世界各国との航海と通商のために日本を開国させるにあたり、オランダとロシアが成し遂げた努力についての真実の記録」と題した小冊子を出版した。内容は自己顕示にすぎないが、「いまわれわれは、日本を開国させたことに関して、アメリカ人にではなくロシア人に感謝しなければならない」との一文がある。これはロシアとの親密な関係を示すものであり、ロシアに関して彼がとった行動も密接な利害関係を示していると述べている。このようなシーボルトの一面は日本であまり知られていないのではないだろうか。日本滞在中の事物の蒐集や記録は今日では日本にとっても重要な資料であるが、当時のヨーロッパでは他に類がなく、のちにまとめられた『NIPPON』も各国語に翻訳された。ペリー遠征当時のロシアも資料を求める過程で関係を深めたという一面がある。物事を政治から見るか学術交流から見るかで鏡に映る像は変わる。スパイ説は意外であったし、少し寂しい気持ちがした。シーボルトはヨーロッパ人で自分ほど日本を知っているものはいないという自負心があり、それが異常に強すぎたということだろうと思う。

アメリカの説明にしたがって、各国の行動についての記述を簡単に記す。
ペリーが江戸湾に錨を下ろしたひと月後、ロシアのプチャーチン艦隊が長崎に到着した。ロシアの真意はわからないにしても、当時ロシアはわが国の日本遠征と時を同じくして日本海域の海軍力を増大させたことは事実だ。1853年11月12日、ペリーがロシアの提督から受け取った手紙には、合衆国艦隊に対し、ロシア海軍と合同し、一団結して行動することが提議されていた。ペリー提督は丁重に断った。アメリカが収めた成功にはロシアの恩恵は全く受けていないが、ロシアは間接的にその貢献を推し進めていたのかも知れない。日本から得た情報によれば、日本政府はロシアのアムール川流域における動きをかなり危惧し、その思惑を探るようにとの皇帝の命令で特使が派遣されている。日本側は効率の良い陸軍を徴集し、ヨーロッパのモデルを模して建造した船からなる海軍を備えることにした。造船に対する規制は撤廃され、アメリカとの条約調印後すぐにアメリカ船と同様の装備を持った商船が一隻建造された。日本はロシアが当時行っている戦争についても聞き及んだ。この情報は日本人をひどく動揺させ、その結果、帝室委員会は合衆国との間に締結されたものと同じ条約を、通商を求める諸國とも結ぶ決定を下した。かくして日本は世界との通商に門戸を開いたのである。ロシアの日本訪問は1853年と翌年のどちらも条約締結できないままに終わった。

イギリスはスターリング提督が1854年9月に長崎に到来し、通商を含まない条約締結に成功している。日本がロシアの意図に懸念を抱いていたことと、ロシアが当時戦争中だったことがイギリスに有利に働いたようだ。序論末尾に、「上記の文章が書かれてから、イギリスと日本の間の通商条約が締結されたという情報を受け取った」との注書きがある。

合衆国が日本との条約交渉を成功させてしまったとき、オランダは同国の植民大臣からの形式張った公式文書を持ち出して「オランダ政府がこれまでに行ってきた、不屈の私心なき努力を世に公表する」と宣言した。公式文書と称するのは、1844年にビッドル提督が日本を訪れた頃、当時のオランダ国王ウィレム二世が、日本の皇帝に鎖国政策の危険を喚起して友好・通商関係を結ぶよう勧めた書状を指す。それについて私心なき助言を行うべく使節を派遣しようと申し出たが、1845年に日本の皇帝は返書を送って鎖国政策を変更しないと伝えた。
1852年にペリー提督の遠征隊派遣が明らかになると、インド総督からオランダ商館長に日本との交渉権が与えられ、オランダ政府から条約の草案が送られてきた。そして、もし「日本においてアメリカ問題」を協議する機会があれば、総督の指示と条約草案に従って行動するように命じられた。ペリーの出港前数ヶ月のことである。
オランダの企図を察知したアメリカ政府は1852年7月、オランダ政府に問い合わせを行い、艦隊を派遣すること、それは友好的な目的であること、できることなら鎖国政策を緩和させることを公式に伝えた。また、必要が生じたなら、目的達成のためにオランダの公式な協力が得られるよう出島商館長に通達を出してもらえるよう依頼した。オランダは通達を出すことを約束し、1844年のウィレム二世の書簡写しと、1845年の皇帝の返書写しをアメリカに提供した。しかし、このとき日本に郵送中のオランダの条約草案、およびオランダ役人宛の指令のことはアメリカに知らされなかったのである。ペルー提督は長崎を避けて江戸湾に入ったのでオランダ商館長との間にはいささかの接触もなかった。
こういう次第だから、200年以上にわたって日本との通商を独占してきた国が、その独占が破れた途端に、独占をつねづね遺憾に思って、廃止するべく尽力していたなどとは、よくも言えたものだというわけである。
これでようやく序論が終わった。一休みしよ。
読んだ本:『ペリー提督日本遠征記 上』角川ソフィア文庫(2014)
(2018/6)





2018年6月19日火曜日

読書閑談 本を選ぶ ペリー提督日本遠征記(その1)

今回はいわば失敗談である。買い置いた本を読み始めたところ、いろいろな欠点がわかったので同じ内容で別の本を読むことにするという話である。だから本を選ぶと書いては見たが、読みたい内容を読みやすく自然な日本語で書かれている本を選ぶことについて書こうというわけである。


『ペルリ提督日本遠征記』を読み始めた。読み始めた動機は終活、身の回り整理の一環である。この頃は遺品整理のチラシがよく入る。どこかでコチラの様子を窺っているのだろうかと疑いたくなるのは僻目か。

いかにも古そうに見える岩波文庫のかたまりが本箱にずっと眠っていた。今どきの文庫本は表紙の外にきれいなカバーが付いているがこれは違う。4冊のうち3冊にはパラフィン紙のカバー、1冊はむきだしで、むかし懐かしいデザインの表紙である。買ってからかれこれ30年ほどにもなろうか。神田の古書店で4冊一括、ン千円かだった。すでに絶版だったらしい。
パラパラと面白そうなところを開けて読んでみる。漢字は旧字体、仮名遣いも旧式、全体の日本語も古めかしい。活字が小さい、印刷が薄い、紙質も良くない。ページの四辺から焼けてきていて茶色になっている。ページを静かにめくらないと紙が破れるのでなくて壊れるような感じがする。(一)から(四)までの、これは(一)についてである。4冊それぞれの発行年がバラバラ、(一)が一番古い。奥付には昭和23年第1刷、昭和35年第4刷発行とある。これは物としての本の古さを表している。
訳者は土屋喬雄(1896(明治29)年ー1988(昭和63)年)、玉城肇(1902(明治35)年ー1980(昭和55)年)のお二人、経済史の学者さんだ。あとで紹介する訳者解説にあるが、岩波文庫に入ったもとの訳稿は昭和10(1935)年の弘文荘刊行のものだという。昭和20年に文庫に入れるに際しても伏せ字をもとに戻すほかは、ほとんどそのままということだから、手元の岩波版の日本語は戦前のもの、訳者両氏が39歳と33歳のときの言葉ということになる。
これでは古めかしいのも仕方ないと思いながら少しずつ読んでいたが、どうにも気になること、つまり訳語がヘンだ。ヘンの理由の一つは今使われていない漢語らしき言葉、たとえば「不慎」。いまひとつは誤訳または日本語の誤用、「牧師が心貧しく、有徳で云々」という例。牧師が心貧しかったら、お話にならないではないかという疑問にとりつかれる。この二つの例で躓いた。
翻訳上の疑念を調べるには原文がいるが、これはEPubを利用した。これならフォントサイズも自由に変えられて読むのが楽である。欠点はスキャナの読み取り間違いがあることだが、とにかくこれで疑念を解明できる見当はついた。失礼な言い草ではあるが、岩波本の訳語と編集が雑だということがわかった。
それではもっと優れたな邦訳本はないか。ペリーの日本遠征記でほかの邦訳本を当たってみると、法政大学出版局から1953年に出ているが、これは信頼できそうではあるもののすでに古書しかない。新しいのは角川ソフィア文庫の上・下、2014年刊がある。これが図書館にあったので借りてきた。さきに岩波版について述べた欠点が一切解消されている感じで非常に読みやすい。何を苦労して欠陥品で読む必要があろうかという次第になった。それでも、わが岩波版は直ちにゴミ扱いになるのではなくて参照資料として役に立つ。何よりも訳者の苦労が偲ばれる著作だけに、読者としては簡単には袖にするわけにはゆかない。早い話が訳者解説に記されたアメリカでの原著出版状況や版本の構成など、昭和10年ごろの日本におけるこの種調査の不自由さとあわせて理解できた。当時全訳としたが、後述するようにアメリカでの全3巻の刊行のうちの第1巻だけの全訳であると述べられてあるのは、現在の他社版も同じだ。


さて、新しい訳本を見ることができて、それは良かったのだが、この角川ソフィア文庫本にも元の版があることが付記されてあった。2009年に万来社から刊行されている。そうであったとしても当方としては遠征記を読むという作業に関しては不便が解決済みだから、もはやどうでもよいはずのことである。ところが、ネット検索でこの万来社を追っているとき、アメリカの「ペリー提督遠征記」全3巻の完全翻訳版が存在することを知ったのだ。それは大変にすごい仕事で、新しい技術を駆使しての出版は、学術資料として非常に意義深い業績になっている。オフィス宮崎という日本語、外国語相互翻訳の文化事業を進めている会社だった。参考までにそのサイトを紹介しておく。まことに美麗な画像がある。
アメリカ原本の遠征記は第1巻が遠征にかかわる物語で第2、3巻は資料的な内容で日本の自然環境、生物種類、水路図など多岐にわたる。これら資料は専門分野で歓迎されて利用されているという。全3巻でのお値段が15万円にもなってしまったため、一般読者用に第1巻だけを万来社版で出版したとのことである。ついでにおまけ情報が付いた。サイトでオフィス宮崎の制作ストーリーを読んでいると、抄訳が1912年に出ていると書いてある。ならば明治45年だ。ペリー遠征記のわが国での翻訳は、このあたりが一番古いのかもしれない。アメリカ初版1856年から56年後である。
オフィス宮崎制作ストーリー『ペリー艦隊日本遠征記』http://www.officemiyazaki.com/jpep/60

最後に岩波版(一)の冒頭に付けられた解説のうち、ここでしか得られそうにないアメリカ版本と弘文荘版についての情報を記録しておく。字体および仮名遣いは現在のものを使用する。
なお「解説」の筆者は文面から玉城氏とわかるが、続いて「重版に際して」の言辞もあり、こちらは無署名ながら同じ筆者とうかがわれる。前者は昭和20年11月、後者は昭和28年6月の日付があり、前者にはマッカーサー将軍が民主主義日本の黎明を告げる人となろうとしているときに刊行することに深い感慨を覚えるとしているのに対し、後者ではその後の歴史の推移は必ずしも同氏の予言を裏書きしていないようだと暗に怒りを込めた文になっている。戦前最後の数年間、このお二人ともに相当の苦難に遭われた様子も想像できることを付言する。「重版に際して」の文章には、同年5月にペルリ来航百年祭が下田をはじめ各地で催されたとあって訳者の感慨が伝わってくる。
この記録は合衆国の第33議会第2会期中に特殊刊行物第97として、1856年春に印刷に取りかかり、合衆国印刷局において数十冊を紙表紙仮綴四巻として出版したが、その後、ワシントンの一印刷業者によって刊行されることになった。この遠征記にはいろいろな異本があって、訳者(玉城)が、かつて諸版本の巻数につき「書物展望」(昭和10年6月)に疑問を提出して以来、わが国学会の論争を集め、諸大家先輩からいろいろと教えられたのであるが、結局元老院 Senate 版と衆議院版 House of Representative 版との二種があり、前者には更に水路図を別冊とする四冊本と、これを別冊とせず、第2巻に合綴した三冊本との二種あり、後者はほとんどすべて三冊本であるという結論に達した。しかして最も完全なペルリ遠征記は、元老院版の四冊本であるということになった。この結論に達するまでには、昭和10年から昭和13年までを要し、この研究に参加されてご教示を賜った人びとは坂西志保女史(当時、合衆国議会図書館在勤)、幸田成友博士、川田久長氏等であった。本書は、右の遠征記の第1巻(所謂本記)の全訳である。他の付録第1巻(自然科学および諸種の報告)、同第2巻(天文学上の観測)、第3巻(水路図)は翻訳していない。これまでに、この遠征記の抄訳、部分訳等二三種刊行されているが、いずれも満足なものではない。私たちは昭和10年に初めて、本記の全訳を弘文荘から上下二巻として刊行した。彩色版、凸版も、原書のまま全部挿入し、最も珍奇とされている「下田の公衆浴場の図」(原書でも除いてある版が多い)も挿入した。幸いに私共の訳書は研究家から大いに称賛の辞を頂戴したが、これは500部の限定版であったために、あまり流布しないでしまった。(後略)

というわけで、今回は出版物としての「ペリー提督遠征記」のことに尽きる。(2018/6)

2018年6月8日金曜日

角倉一族のこと

辻邦生『嵯峨野明月記』を読みながら角倉一族の仕事に感銘を受けた。『角倉一族とその時代』という比較的新しい書物の存在を知って読んでみた。学術書であるが小難しいものではない。むしろ一般読者を対象にした啓蒙書である。事業全般に及ぶ26本の論文が紹介されている。穴太衆(あのうしゅう)の石積み技術や保津川下りの操船技術まで実務家によって執筆されているのはこういう研究書にあってはめずらしい。私の関心事では角倉素庵の終焉と嵯峨本における光悦の下絵の真偽について、事実と小説の違いに強く惹かれた。数学に対しては全く働こうとしない我が頭脳にとって『塵劫記』(1627年)の著者吉田光由については新しい知識であった。西洋数学と和算の思想的な違いを論じる森洋久氏の論文は短いものであっても壁のように厚かった。それはそれとしても、この吉田光由はただの数学者ではなくて実務家でもあった。その人脈をたどれば河川の開鑿、安南交易に名を馳せた角倉了以その人自身が算術にも明るかったなど驚くことの連続である。ここでは大部の書物のここかしこから適宜拾い出した事柄を簡単に記録しておくことにする。

角倉家の人物について調べていると角倉吉田という姓のようなものが出てくる。あるいは角倉、本姓吉田という言い方もある。家系のもとを辿れば源氏の流れ佐々木氏の配下で、近江国吉田に領地があった一族だから吉田姓を名乗っていた。10代目の当主徳春が京に上り室町幕府に仕えて嵯峨角倉に住んだ。その土地は桓武天皇直営角倉跡地ということから角倉を屋号にしたようである。仕事は方術というからやがてそれは医術に発展する。以後、代々医家として明治まで続いた。移住して2代目の宗臨あたりから医師として仕えながら土倉(どそう)、つまり金融業を営み始め、のちに酒屋も兼ねた。ときは室町幕府で、金のない政権にとっては土倉は重要な財源だったという。15世紀に来日した朝鮮使節の言に「国に府庫なし。ただ富人をして支持せしむ。」とあったそうだから角倉吉田家は大いに幅を利かせたわけであろう。本書で「土倉と角倉」を担当した歴史家、河内将芳氏も幕府政所に関わる史料に拠っている。政所は財政を所管する役所である。後世徳川期に至るまで豪商として話題にされる一家にはとかく町人のイメージがある。知行地を持ち、扶持をいただき、ときに代官や舟運差配を勤めるなど、れっきとした武士階級であり幕臣であったという事実は私にとって目新しいことであった。

3代目宗桂の長男了以は医者を継がず事業家となって分家し角倉姓を名乗る。子は素庵である。医家のほうは吉田姓のまま了以の弟宗恂が継いだ。
吉田宗桂は僧、策彦周良(さくげんしゅうりょう)とともに医術修行を目的に2度明国に渡り、大量の書籍を持ち帰った。名声高く2度目の渡明では明の世宗嘉靖帝の病を治癒した。
4代吉田宗恂は豊臣秀次に仕え、領地を賜って京都に家を構えた。後年家康に召されて拝謁し、山城の国内に領地500石を賜る。1年毎に江戸に上り君側に仕えた。儒学の理解に深く藤原惺窩と交友を深める。ここに角倉素庵との接点があることに注目しよう。1610年53歳で死去するが千冊に余る書物を遺した。この財産は後に吉田光由の数学にも寄与する。

本書の医家系図を担当された奥沢康正氏は、ただ1行「吉田・角倉家の出版事業は宗恂により始められたといって過言ではない」と記した。このことは本書第6部の「<嵯峨本>以前の古活字版について」につながる。
古活字版は朝鮮戦役で輸入された銅板活字やキリシタンによる金属活字ともことなり、日本独特の木活字による印刷をいう。
現存する最古の古活字版によるものとしては文禄5年刊行『補注蒙求』と『証類備用本草序例』が知られている。後者は明版嘉靖帝刊本を底本に用いたと鑑定されているが、刊行者の如庵宗乾とは誰なのかが不明である。当時明刊嘉靖版の本草書などを所持しているのは吉田宗恂のほかにはないと考えられること、さらに、宗恂は同じ元禄5年に『古今医案』を開版しているし、吉田家には明版の医書類が数多く襲蔵されていることから、刊行者の如庵宗乾という名は宗恂の匿名と考えられている。

宗恂は『古今医案』のあと、慶長3年(1598)に『大学』『中庸』『孟子』の注本を活字版で刊行したことなどから、こういう印刷発行業務は身近な場所で行われたであろうと推定され、そうならば、造本工房のような広くて大勢が作業できる場所が必要になることから、それは嵯峨では素庵の工房が想定される。そこは後に『徒然草』をはじめとする嵯峨本の生み出された場所ということになろう。宗恂あっての嵯峨本誕生という関連が十分に想定せられる。

吉田光由(1598-1673)は宗桂の弟光茂の家系である。光由は素庵が多忙で手が回りかねるときに、大覚寺から一帯の水不足解消の工事を是非にと依頼され、素庵に代わってダム(現在の菖蒲谷池)と200メートルの傾斜のついた菖蒲谷隧道を完成した。工事にどのくらいの期間を要したのか、いろいろ調べてみたがはっきりしない。本書に1924、5年頃完成したらしいとあるのはほぼ当たっていそうだ。いまにのこり、北嵯峨一体の水利に貢献しているこの灌漑システムに使われているのは、水準測量、路線測量、トンネル掘削にかかわる諸技術であって、400年前にこういう測量を実際に実施できる能力のある人は非常に少なかった。光由27、8歳当時のことで、医師の長兄光長の協力を得て完成した。前後して和算書『塵劫記』(1627)を出版したが、その『塵劫記』に込められた知識の基礎は、素庵に学んだ明の書物『算法統宗(中国語版)』(1592)だといわれる。その書物は角倉船がもたらした可能性が大きいから、それもまた宗恂の大量の蔵書中に含まれていたとみてよい。
『塵劫記』には「河普請のこと」と題して堤防や蛇籠の計算など多くの応用問題が含まれていた。よく売れたので海賊版も多く出たために次々に改訂版刊行に追われて、了以を継ぐ角倉一族らしい土木事業に再び戻ることができなかった。

了以も算法には通じていた。それ故河川開削工事の工法も工夫できたのであろう。著述として『塵埃記』は12巻からなる算書だそうだ。了以の興した吉田流算術が素庵、光由と伝わった可能性もある。こうしてみると嵯峨に根を下ろした角倉・吉田は各世代が助け合い関連しながら、医業、土木、運輸、交易、出版、学問、芸術など多方面に大きく貢献したことがわかる。社会構成的にみても天皇、公家、将軍、寺社、幕府から職人、船頭までなんと付き合いの広いことか驚くばかりである。応仁の乱で荒野と成り果てた嵯峨の地に開いた文化の時代である。面白い。
光由関係は次のサイトがわかりやすい。http://www.kitatouhoku.com/kyoto/documents/ikiiki63.pdf

角倉素庵のことに移ろう。河川工事や朝鮮戦役での内国輸送、その他は省略して文化事業を見てみよう。
嵯峨本研究家、林進氏による嵯峨本の定義は次のとおりである。
嵯峨本とは、近世初期の慶長年間(1596-1614)に、洛西・嵯峨に住む豪商で儒学者、能書家の角倉素庵(1571-1632)が出版を計画し、書目を選定し、大堰川河畔、臨川寺東隣りの角倉本邸屋敷内に設けられた造本工房において、素庵みずからがデザインした木活字フォントを用いて、また素庵の筆跡を版下にして刊行した、美麗な装訂に成る一群の平仮名交り文の日本古典文学書のことである。
なお、嵯峨本は本阿弥光悦が主導し、みずから版下を書き、装訂に美術的意匠を施した本であるとする従来の通説には、確証はないとする。また同氏は辻邦生の『嵯峨野明月記』に登場する光悦、素庵、宗達の三人に代えて、「天皇(後陽成・後水尾)と素庵と宗達」の枠組みを設定して研究を続けているそうである。文禄勅版や慶長勅版の刊行者である好学の天皇、後陽成(1571-1617、在位1586-1611)が嵯峨本の誕生に大きな役割を果たしたのではないかと想定している。成果が楽しみである。
これまで嵯峨本の主導者とされた光悦について林氏は、光悦が出版に関与したという当時の文献資料は確認されていないし、出版という事業は、400年前の数寄者が趣味的に行う行為でないことを「私たちは認識している」と自負されている。これは川瀬一馬『嵯峨本図考』(1932)および後続の研究者が光悦の筆跡について実証的な研究を怠っていることが問題である。それにもかかわらず、長年そのまま信じ込んできた美術界はみずからを光悦呪縛から解放するべきだ、と主張されている。
世の中の実態は光悦没後の信奉者による光悦神格化にあるわけであって、結果的に素庵の筆跡を光悦のものとし、方印偽造までがまかり通っている。素庵が後述のように不幸な病のために世間から消されてしまったのが大きな要因と考えられるが、書跡も版本も素庵の作品が光悦の名にすり替えられたものが多数現存している。謡本は別として、嵯峨本には光悦本というのは存在しないと断言されている。
実態の例を林氏の文を借りて次に引用する。
素庵が染筆した古歌・古詩などの多くの書跡は、当時の慣例に従って、署名や印章を記さなかった。そのため、後世「素庵の書」の余白に光悦の落款・印章が入れられ、「素庵の書」は、「光悦の書」に捏造された。たとえば、有名な京都国立博物館蔵の重要文化財『宗達金銀泥鶴下絵三十六人和歌巻』の和歌本文は、素庵が揮毫したものであるが、後世、巻末に篆書体「光悦」黒文方印が捺され、光悦の書に捏造された。その書が素庵の筆であることは、素庵書体の基準作と対照して、明らかである。(後略)

(こういう事実を私は知らないままに問題の鶴図一部を前回ブログに載せてしまったのは汗顔の至りであります。)

林進氏の連続講座の関連部分がウエブサイトにある。http://www.sotatsukoza.com/menu/sotatsukoza_shiryo5.pdf

次に素庵の病と没後について林氏の文章を引用する。
晩年、素庵は突然に不幸に見舞われた。寛永4年(1627)冬に、素庵は癩(ハンセン病)を患って角倉家から出され、世間との関係が絶たれた。二人の息子玄紀と巌昭は、父を不憫に思い、世間の掟を破って、父を癩者として放浪の旅に出さず、また清水坂の非人宿にも入れず、密かに嵯峨の清凉寺西門に隣接する千光寺の旧地(藤原定家・為家ゆかりの土地、現在の嵯峨中院)に隠棲させた。のち素庵は光を失ったが、変わらず学問に専心し、学者としての生涯を終えた。寛永9年6月22日没、享年62。以後、素庵は歴史の闇に消えた(消された)。彼の多くの優れた業績も隠された。そのうえ角倉の屋敷はたびたび火災にあい、すべての資料は灰燼に帰してしまった。

ついでながら、素庵が藤原惺窩の依頼によって生涯の仕事とした『文章達徳録綱要』は子息玄紀が後を継いで寛永16年全6巻を堀杏庵(正意)の序文を添えて刊行した(朝日日本歴史人物事典コトバンクより)。
角倉船の図
安全祈願のため清水寺に奉納の絵馬、寛永十一年は最後の航海となった

本書には、このほか角倉船と朱印船貿易のことや清水寺奉納の絵馬、角倉船遭難の地を訪ねる旅のエッセイや地名の同定研究などもある。高瀬舟についてのことなどは記録と事実をあまり知ってしまうと鴎外の作品からのイメージが壊れてしまう弊害もある、これは贅沢というものだろう。
素庵の書跡が光悦筆にすり替えられるあくどい話は骨董品鑑定にありがちなことではあるが、もとより光悦の没後の話だから光悦は全くあずかり知らないことだ。私は東洋文庫と中野孝次の作品で『本阿弥行状記』も読んでみた。この内容は本阿弥家の家伝であるが、もっぱら家業の刀剣の目利きに関する伝記だけで嵯峨本や和歌巻は関係しない。言わんとする処はいかに精錬潔癖、正直を旨とする家柄であるかということに徹している。また刀の鑑定については折り紙(鑑定書)を発行するに際しては一族一同の合意で決める伝統がある。最後の決定は家長に委ねられるが、10年、20年と鍛えてきた家長の目には絶大な自信が込められているのだ。光悦も一時期の家長であるからには真贋を見抜く目に狂いはない。そういう人物の名を他人の作品にかぶせるとは光悦自身が聞けばどう思うだろうか。まことにナンセンスなことで浅ましい限りである。光悦作を心底から愛好する人には迷惑この上ないことだ。

壁にぶつかって残っている部分をこれから再挑戦して読んでみよう。数学についての哲学などそうそう読む機会はないだろうから。和算という学も計算は理解出来ないにしても文化遺産としてみれば算額のような民俗もあり面白いものだと思う。以前読んだ冲方丁『天地明察』も面白い読み物だった。今回の角倉家では基礎を中国に学んだ和算で土木工事をなしとげた。吉田光由は暦と歴史にも関心が強く『古暦便覧』をものして日本歴史の年代修正を図っていることも本書に記されている。617ページあるこの書物、汲めども尽きぬという俚諺のとおり、アチラコチラとひっくり返す度に興味あることが飛び出してくる。ノンフィクション好きの私向きの書物であった。
読んだ本:『角倉一族とその時代』編者 森洋久 思文閣出版 2015年刊

(2018/6)