2018年6月29日金曜日

読書閑談 「ペリー提督日本遠征記」(その2) 序論だけ読んだ

浦賀沖に黒船が現れたとき、そしてその正体が知れたときに、人びとは上を下への大騒ぎとなり、混乱の坩堝に投げ込まれたのであったが、すかさずどこからともなく騒ぎを冷やかす狂歌が伝えられてきた。
     「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」
幕府の無能ぶりに当てつけたという評もあるが、これは広く民の声だったと思う。黒船到着は嘉永6年6月3日で、こんな狂歌が出回っているよという江戸からの手紙の日付が6月30日だ。民衆はいつも鋭くて素早いのだ。(静嘉堂文庫 「色川三中文書」)
蒸気フリゲート艦ミシシッピ号

お茶の銘柄に引っ掛けられた蒸気船は4隻でなくて2隻で、あとの2隻は帆船だった。ペリー提督日本遠征記は、足掛け3年にわたる航海の議会への報告書だ。表題は「合衆国政府の命令により、合衆国海軍エム・シー・ペルリ提督の指揮の下に、1852年、1853年及び1854年に行われたる、支那諸海及び日本へのアメリカ艦隊遠征記事」(岩波文庫『ペルリ提督日本遠征記』)という。既承のように日本には2度来航して日米条約を締結した。
遠征記には、航海の記事に先立ってペリーの要請によって編纂に携わった牧師・歴史家のF・L・ホークスの前書きがあり、次いで序論がある。序論にはそれまで日本について彼等に知られていた事柄を概括的に説明してある。その序論において、ホークスは日本の200年来の鎖国状態を打ち破って、世界の貿易国の一員として招き入れるための第一歩となる友好通商条約締結を、まっさきに実現させる役割を、最も若い国である合衆国が担ったのはまさに適任だったと述べる。
コロンブスには、キリスト教団のために日本を発見し開国するという運命は与えられなかったが、彼の発見した大陸、彼の探求した国にいたる道をさえぎった大陸の上に、神の摂理のもと、一つの国が生まれ、そしてその国が彼のめざしていた役割の一端を担い、彼を西方へ駆り立てた夢の、少なくとも一部分を実現させたというのも不思議な巡り合わせだろう。この国がジパングを発見したのではないにしても、日本が世界の国々と自由に行き来できるようになるためのかけ橋になったことは間違いない。一度はコロンブスの手の中でちぎれ、アメリカの海岸に落ちていた運命の糸を拾い上げたのは、ほかならぬアメリカ自身だった。そして、それを運命の毬にしっかりと結びつけると、毬は糸のほどけるままに転がり始めた。そして偉大なるジェノヴァ人、コロンブスによって発見された大陸の原住民と文明化した住民たちは、その糸に導かれるままに、彼の求めたはるか彼方の国、日本の地に足を踏み入れることになり、ジパングをヨーロッパ文明の影響下におくというコロンブスの夢を遂に実現させたのである。(p24-5)
この文章が書かれたのが1856年、そして、カリフォルニア州誕生が1850年、アメリカが大きく太平洋に正面したころのことである。いかにも牧師らしいホークスの語りではあるが、ピルグリム・ファーザーズ以来の宗教的建国理念が色濃く反映するアメリカの政治の基本を思い起こさせる。そして、この時代は、まだ後世にみられる多民族観による雑音はなく、単純にコロンブスが建国の英雄だったのだとわかる。しかし、この文書はアメリカの公文書だろうから国益にならない事柄は書かれていないと前提して読むべきだと思う。

ホークスの役割は徹底してペリーおよび部下や同行者によって提供された資料を編纂することに専念し、ホークス自身による追加はほぼないものと考えられる。本書下巻末に付された加藤祐三氏による解説中に「(序論は)多くの文献情報を渉猟して構成した、第一級の日本人論・日本文化論でもある」(p.556)とみえるが、ここにいう「渉猟」はペリー自身によるものであることに注目したい。同氏は、そのことの説明に「ペリーは東インド艦隊司令長官に就任する前から、日本遠征記の構想を温めており、日本に関する書籍を大量に購入、なかでも出島のオランダ商館に滞在していたフォン・シーボルト『日本(NIPPON)』を高く評価した。また、日本への漂着経験を持つ捕鯨船の船主からも情報を集めていた」と記されている。(p.557)

第一節、領域の説明の中に「マラッカ諸島」の語がある。原文には Moluccas とあるから、これはインドネシア諸島のモルッカ諸島を指す。マラッカは
マレー半島の地域名で英語表記は Malaccaであり、「諸島」はありえない。遠征記では岩波文庫版も「マラッカ諸島」と訳しているが、いずれも翻訳者の認識の誤りである。

第三節の政治については法制度や行政制度などに触れるが、私たち日本人に奇異に響くのはスパイ制度という言葉である。隅々まで張りめぐらされていると書かれているが、おそらく徳川治世下に行われた目付、公儀隠密、御庭番、住民相互の監視制度の五人組などを指すのであろう。すべてがスパイ制度の語ですまされている。違反者はたいてい死刑ないし自死となることに強く印象付けられたようで、世界で最も苛酷な法律と述べている。

第四節、宗教に関してはこれほど外国人に理解不能なことはなかったのかも知れないが、奇妙な説明が多い。現代の読者はただ面白がればよろしいかと考える。

第5節は、「過去に於ける日本帝国と西洋文明諸國との關係の概観」と題されている。私には関心の強い事柄だけに面白く読んだ。はじめはポルトガル人の項。
フェルナン・メンデス・ピントの名は、セルヴァンテスによって不朽のものとなったが、あいにくそれは、シェイクスピアの言葉を借りると、「はかりしれぬ嘘つき」という評判を得てのことだった(p.64)。
ピント氏について私は存じ上げないのであるが、セルヴァンテスがどこかで話しているのだろう。シェイクスピアの言葉というのは原文に "measureless liar" と出ていた。本書にはピントは、16世紀のポルトガルにおける代表的な探検家である、と断言している。一般に日本に初めてやってきたポルトガル人といえば、鉄砲伝来説の種子島に漂着という話になっているが、遠征記では1543年か45年に暴風雨によって日本沿岸に流され、豊後の港にたどり着いたとしており、上陸したのはピントを含む3人としている。鉄砲のことは出ていない。
余談になるが、ピントの旅行記は、『遍歴記』という著述に残されていて日本語でも東洋文庫に全三巻が収まっている。
京都外国語大学図書館の奥正敬氏がサヴィエルの後援者としての姿を紹介してくれている。『ほら吹きピント』の本当の話)、(つづき
奥氏によれば現在のポルトガル国では豊後に流れ着いた1541年を「日本発見年」としているそうだ。

豊後の太守つまり封侯との間もうまくいき通商関係ができる。毎年マカオかゴアとの間にポルトガル船が往来した。1549年には罪を犯して高跳びしたアンジロウがゴアに渡り、洗礼を受けた。彼の提言でイエズス会の宣教師も問題なく活動できると知ってザヴィエルほかも来日した。
布教活動がうまくいったのはザヴィエルの熱意だけではなく、一同が聖なる天職を全うしようと、謙虚に、しかも飽くことなく任務に専念したからだったと記述される。ザヴィエルは「日本人のことはいくら語っても語りつくせない。彼らは本当にわが心の喜びであった」と述べているそうだ。(p.68)
1566年頃、当時の封侯であった大村公は、ポルトガル人の進言によって長崎港が最上であることに初めて注目した。居留地が建設され、豊後、平戸、長崎が主な交易地となった。やがてこの繁栄ぶりが終わりになる兆候が見え始めてきた。ほかでもない宣教師たちにその原因があった。ザヴィエルの仲間たちは続々とやってくるドミニコ会、アウグスティノ会、フランシスコ会の修道士らに数で圧倒された。新来者たちは互いに反目し、すべての教団がイエズス会といがみ合った。彼らの醜い争いは日本人の目に余った。そのうえ宣教師たちだけでなく一般のポルトガル人の日本人に対する態度行動も顰蹙を買った。日本の制度・慣習を見下し、故意に政府高官を侮辱し、礼儀を無視する行為に出た。時の皇帝は太閤だった。彼は、帝国の法律や習慣が横柄な異国人に踏みにじられるのを黙ってみていた最後の支配者だった。
東洋からリスボンへと向かっていた一隻のポルトガル船が、オランダ人に拿捕された。そして積載されていた荷物の中から、日本人モロからポルトガルの王に宛てた、売国的な手紙が発見されたのである。モロは熱心なローマ教徒で、イエズス会士と懇意であり、日本におけるポルトガル人の主要代理人であるとともに彼らの友人でもあった。そして、その彼の手紙から、日本人のキリスト教徒がポルトガル人と結んで王位の転覆を謀っていることが明らかになった。彼らはそのために、ポルトガルの艦船と兵士の派遣を要請しようとしていたのである。その計画の詳しい内容ははっきりとはつかめないにせよ、そうした陰謀が企てられていたことは間違いない(p.72)。「ポルトガル人の不倶戴天の敵であるオランダ人は、ただちにこの没収した手紙のことを日本政府に報告した。その結果、1637年に皇帝の布告が発せられ、『すべてのポルトガル人を、その母であれ、乳母であれ、彼らに属するものはすべて永久に追放する』と定められた(p.72)。
日本の歴史書によれば、いわゆるバテレンの追放は1587年秀吉によって行われたが、遠征記はここに1637年という年を登場させているのは、その後の禁教令やポルトガルとの国交断絶と混同されている。日本人モロによる手紙ということも、どういう史実に基づいているのか知りたいものである。ちなみに1637年は島原の乱が起きた年である。
上に記した文中に「ポルトガル人の不倶戴天の敵であるオランダ人」とある。何をもってそのように表現したかはわからないが、原文を見てもそのとおりの表現になっている。この時代衰退してゆくポルトガルと興隆途中のオランダとは何かにつけて敵対しているから、特定の事件を当てはめなくてもよいと考えよう。
不良外人としてのポルトガル人を考えるとき、スペインも同列に見てよかろうと思うが、海外に布教にでかけた宣教師たちの悪行を忘れてはならない。ラス・カサスの告発だけでなく、ブラジルでもポルトガル人が悪逆の限りを尽くしている。ペリーがいうようにザヴィエルが善人であったとしても来日したポルトガル宣教師が全て良い人たちとは限らない。

次はオランダ人である。
ここではローマ法王によるスペイン・ポルトガルへの地球分割認可を盾として後発のイギリスとオランダへの貿易参入妨害の争いを物語る。三浦按針ことウィリアム・アダムスが登場する。イギリス人だがオランダ船の水先案内人として来日した。
2年におよぶ悲惨な航海ののち、5隻だった船団はただアダムスが乗った1隻だけがようようのことで豊後に着いた。1600年4月12日、歩けるものは5人しかいなかった。報告が皇帝に送られた。アダムスと船乗り一人を大阪へ連れてくるように命令が出された。遠征記は「皇帝」と書くが、日本の史実に照らせば、ときによってそれは秀頼であり、家康である。早速ポルトガル人たちがオランダ人は海賊であるとして処刑を要求するが、取り合わず長い問答のあと投獄され41日間牢獄で過ごした。処刑をする理由はないとなって釈放されるが、オランダ人たちは帰国は許されず支給される生活費で安楽に暮らした。アダムスは家康に気に入られて宮廷にとどまり、高い地位が与えられ、数学を教えたり、船を2艘造ったりして仕えた。1611年にやってきたオランダ船から母国イギリスが東インドに進出していることを知り、故郷に手紙を出した記録が残っている。返事があったどうか不明だそうだ。1619年か20年に平戸で死去した。
1639年の暮を待たずに追放されたポルトガル人のあと、平戸の商館にはオランダ人が入っていた。島原に逃れた日本人キリスト信者が反乱を起こしたとき、日本政府の要請にこたえてオランダ人は大砲を持ち出して信徒たちを殺戮するという恥ずべき行動をとった。それも商業上の利益への下劣な下心から出たものに過ぎなかったとして、事後の賛否論争を含めて詳しく述べている。事実を1833年発表のフィッシャーの著作に基づくと書いてある。教派が違うとしても同じキリスト教徒を無碍に殺戮してしまうオランダ人に矛盾を感じた日本人たちは憎しみと軽蔑の念を抱いた。結果として日本からローマ派もプロテスタント派も排斥される運命をたどった。以後出島に移ったオランダ人はキリスト教を表面には一切出すことなく、厳しく監視されながら屈辱的な牢獄のような生活を続けた。ひとえに日本人との交易事業を独占したいがためなのである!とある。オランダ人については彼らに仕える医師であったドイツ人のケンペルの著作に多くを得ている。

イギリス人
イギリス人についてはなかなか興味深い物語が記されている。アダムスが故郷に手紙を出したとき、もう1通東洋にいる同郷人宛にも出した。それはバタヴィアを経由してロンドンに送られ、「対東インド・ロンドン貿易組合」(後の東インド会社)に届いた。組合はクローヴ号という船を日本に向けて出航させた。船長ジョン・セリス、平戸侯宛のジェームズⅠ世の書簡と皇帝宛の親書および贈り物を携えて1611年4月18日イギリスを出発した。様々な港で取引をしながら1613年6月11日に平戸に着いた。江戸にいるアダムズに平戸に来るよう連絡をとった。王の書簡を平戸侯の法印様に届けたがアダムスが来て訳すまで開封しなかった。7月29日アダムス到着、セリスと10人のイギリス人を伴って江戸へ向かった。目的は贈り物と通商交渉である。平戸候は50挺艫の船を提供した。旅の詳細はセリスが書き残している。皇帝には丁重にもてなされ、秘書官と交渉の結果、通商の特権を得た。遠征記には各条項が書き出され、次のように論評されている。
これらの条項を見ると、相手国に対して非常に寛大な特権が認められており、元来、日本の政策が鎖国主義とは程遠いものであったことがわかる。そして、ヨーロッパの大方の文明国がが厳しい鎖国制度の導入によって長い間日本の港から閉め出されたのも、自業自得であったということをはっきりと示している。日本人にしてみれば、自国を外国人が占領しようと企んでいるのを知った以上、それを黙って見逃すわけにはいかなかった。(中略)もし、遺憾にして陰謀にヨーロッパ人の宣教師が加わっていたのなら、宗教を策略として用いた結果として日本から追放されたのは当然の報いであったといわなければならない。間違いを犯したのはヨーロッパ人の方であって、日本人ではないのである。(p93ー94)
セリスは、リチャード・コックスを商館長に任命し、8人のイギリス人、3人の日本人通訳、二人の日本人の使用人を置いた。その一人がアダムスである。
商館側は高額の給料を支払い喜んで彼を雇ったという。しかしイギリス商館は貿易事業の採算がうまくいかなくなって、1623年に惜しまれながら、閉館した。
時世が動いて1673年、東インド会社は日本との再開に向けて動き始めた。この間に本国イギリスでは大きな内乱を経験した。国王チャールズ二世はポルトガル王家と婚姻し、ポルトガルと同盟を結んだ。このことはすかさずオランダから日本に報告され、強い疑念を持たれた。結局このときの貿易再開は叶えられなかった。こののち1791年にも取引を希望して立ち寄ったアルゴノート号も入港を拒絶され、かろうじて薪炭を補給しただけで退散させられた。これもインド方面でのイギリス情勢をオランダ商館が歪曲して日本に伝えていたからである。イギリス人の東洋における非道な行いを弁明するつもりはないが、東洋で敗退しつつあったオランダが、日本との取引を独占したいがために、すべてのキリスト教国に日本との交易から手を引かせようとする政策を、自己の気高い歴史を汚すような卑屈さを代償として進めていたことを糾弾する、と遠征記はいう。

更にその後の物語は読者にとっても面白い事件だ。1808年10月のこと、オランダの旗を掲げたヨーロッパ船が長崎沖に現れた。オランダ商館長ドゥーフは、バタヴィアからの定期貿易船だと思って、職員を二人その船に向かわせた。日本人通訳が二人小舟で続いた。貿易船から降ろされたボートが近づいてきて職員二人が拉致された。日本人通訳には事態が飲み込めなかったが、自国がイギリスと戦争状態にあることを知っていたドゥーフにはそれがイギリス船であると了解できた。長崎奉行は激怒してイギリス船を撃退する準備にかかったが、あにはからんや港に配置されているはずの千人の守備隊員が無断で持ち場を離れているの知って愕然とした。指揮官の姿はなく、招集できたのはわずか6,70人だったという。拘束された職員からドゥーフに手書きの紙片がもたらされ、本船が水と食料を求めているとあった。奉行の同意なしには供給できないが、奉行から意見を求められたドゥーフは敵国には供給できないと断った。拘束されたうちの一人ゴーズマンが「水と食料を供給させるためにこの者を送り返す。夕方までに戻らなければ明朝港内の船を焼き払う」との脅迫状を持ち帰った。奉行は怒り狂ったが、ドゥーフは、なだめて水と食料を付けてゴーズマンを本船に戻した結果、職員二人とも無事に返された。なんとかこの船に打撃を与えようと策を練っているうちに順風が吹きはじめ船は出ていってしまった。フェートン号というイギリス武装船だった。
残された日本人たちには哀れな結末が待っていた。奉行はフェートン号が出港して30分後に自害した。自ら臓腑をえぐり出したと記されているからには切腹だ。任務を怠った守備隊の士官たちも同じく後を追った。通訳たちは江戸へ呼び出され、二度と戻ってこなかった。13人が犠牲になったとある。肥前の長官は遠く江戸に住まわされていたが、部下の士官の過失を問われて百日間投獄された。この事件は日本人の間に強い偏見をもたらしたという。
さらに5年後にはまた新たな企てが試みられた。その間ヨーロッパで戦争は続いていて、商館は全世界から情報が遮断されていた。
1813年、オランダ国旗を掲げた2隻があらわれ、オランダの秘密信号も掲げられた。ドゥーフはバタヴィアからの商船と思い込んだ。手紙が届けられた。以前の商館長であり、ドゥーフの後ろ盾となってくれたワールデナル氏が政府の代理人として乗船していること、ドゥーフの後任としてカッサ氏もいることなどが書かれていた。3人しかいない商館からブロムホーフが事務員を連れて出かけ、戻ってく来ての報告でワールデナルはたしかに乗船しているが、船内は何もかも異様であり、代理人は政府からの書簡を自分には預けず、ドゥーフに直接手渡すと言っていることを付言した。やがて船が入港した。乗組員は全員英語を話している。ドゥーフ自身が事実確認のため乗船するとワールデナルが当惑しながら手紙をよこした。ドゥーフは警戒してその場での開封を拒絶してワールデナルと秘書を連れて商館に戻った。開封してみると手紙には「ジャワおよびその属領の副総督、ラッフルズ」と署名があり、ワールデナルが日本における代理人に任命され、商館での最高権力を与えられたと記されていた。出島で長らく孤立している間にオランダはフランスの属領になり国は消えていたのだ。ジャワはイギリスに帰属していてスタンフォード・ラッフルズ卿が日本におけるオランダの権利を全て引き渡すよう要求してきたのだった。ドゥーフは日本はジャワの帰属ではなく、オランダがジャワの引き渡しに結んだ協定とは全く関わりがないことを主張してラッフルズの要求を断った。
日本人がいまこの事態を知れば、先のフェートン号事件で長崎の日本人は業を煮やしており、しかも自害した奉行の子息が江戸の役人で権勢を奮っていることもあってイギリス人は極めて危険な立場にあった。ラッフルズは巧妙ではあったが非常な危険を犯していたのだ。ドゥーフは冷静に日本人にはわからないように巧妙な取引を持ちかけてイギリス人の命を救ってやる代償に商館の負債を埋め合わせる利益を得た。ラッフルズは翌年再びカッセを乗せた船を派遣したが、同じようにしてドゥーフが勝った。ドゥーフはジャワがオランダに返還され、以前の貿易が再開されたのち長官の座を後任に譲った。
イギリスは1818年に海軍のゴードン船長が65トンの小型船で江戸湾に侵入したが、武器弾薬すべて荷揚げされて退散した。ペリー提督以前の最後のイギリス船は1849年に軍艦マリナー号で浦賀に来たが何も起こらなかった。

ロシア人
日本を領有することで太平洋貿易を支配する野望があったと見ている。7、80年前のこと、難破した日本船乗組員は10年間抑留された。両国民に言語を学ばせる目的だった。エカテリーナ女王は彼らの送還を命じてシベリア総督に新任状と贈り物を持たせた使節を派遣させた。ラックスマン大尉が使節に立ったが、帰還した乗組員の入国を拒絶し、ロシア人の投獄を示唆しながらも退去を認めた。1804年女帝の孫アレクサンドルはレザノフを対日特使として長崎に派遣した。翌年まで待たされた挙げ句にレザノフは追い払われた。滞在費は日本が支払った。レザノフは怒りを抑えかねて、カムチャッカでフヴォストフとダヴィドフという2隻の武装商船のロシア士官に日本列島に敵対的な上陸強行を命じた。レザノフ自身は聖ペテルブルクに向かう途中で死亡した。千島列島の一島を襲撃した士官たちは村々を略奪し、村人を殺害した。1807年の事件である。1811年にロシア海軍の艦長ゴローニンが軍艦ディアナ号で派遣された。千島だと思ってエトロフに上陸した彼らは日本人から数年前のロシア人と同じことをするつもりかと問われて、退去し、クナシリに向かったがそこで砲撃された。来訪目的は友好的だと知らせるつもりのゴローニンは日本人に騙されて、上陸した全員が捕らわれてしまった。レザノフたちが行ったことへの報復だったので長い間捕虜になった。最後はロシア皇帝が襲撃を命じたわけでないことを理解されて今後の再訪は不要との警告書が与えられた。これで一旦ロシアの日本に対する試みは終わっている。その後については別に述べるとしている。

アメリカ合衆国
アメリカが日本との国交を求める試みを始めたのは近年であるため多くを語る必要はない。1831年のこと、日本の小船が流されて太平洋を漂流したのち、西海岸コロンビア州の河口付近に漂着した。親切に扱われ、結局マカオに連れて行かれて英米の住民に保護された。アメリカ商船モリソン号がキング家によって準備され、念の為武装を一切取り外した。1837年に出港した航海記録はアメリカ商人C・W・キング氏によって発表されている。江戸湾に到着すると役人が来艦して武装がないのを確認したが、翌朝砲撃を仕掛けてきた。船は鹿児島に向かったが、ここでも放火が浴びせられたので、マカオに戻った。
1846年、できれば交渉の場を持つ目的で日本に遠征隊が派遣された。遠征隊は90門の大砲を備えたコロンブス号とコルヴェット艦ヴィンセンス号の2隻である。7月に江戸湾到着、400艘もの警備船に囲まれた。通商許可を求める請願書に対しては「オランダ以外の国との貿易は許可できない」との回答が送られてきた。誰も上陸せず、何の目的も果たされなかった。
1849年2月、グリン提督の指揮下にあった中国海域のアメリカ艦隊所属のプレブル号は、16名のアメリカ人船乗りが日本人に捕らえられて抑留されていると連絡を受けた。釈放要求をするため、ただちに日本に向かった。沿岸に近づくと警告の号砲が発射された。長崎港内に入ると何艘もの大型船が待ち受けており、ただちに退去するよう命じられた。停泊すると大勢の兵士を乗せた小舟が続々と到着し、昼夜を問わず列をなして港に入ってきた。兵士らはプレブル号を囲む高台に陣を張った。重砲が60門あり、どれもプレブル号に照準を合わせていた。グリン艦長はアメリカ人船乗りの釈放を談判し始めた。無視するかのらりくらりと返事していた役人は、艦長がきっぱりと単刀直入にただちに船乗りたちを解放せよ、さもないと強硬手段を講じると告げると、態度を一変させて、事を荒立てないよう懇願し、2日のうちに釈放すると約束した。約束は忠実に守られ、プレブル号は帰還し、中国沿岸の艦隊に合流した。その次の合衆後政府による試みの内容が以下に述べる遠征記である。
最後に年次別の各国の行動一覧表が付いている。

第6節産業技術、文明水準、第7節文学と美術、第8節自然生産物、と簡単に紹介して日本に関するこれまでの経過と現状についての章句は終わる。
序論の各節が終わったあと、さらにしばらく長い文が続く。アメリカが下田で無事に条約を締結し終わったことが世界に知れ渡ると、「平和的な交渉によって、従来の日本の排外政策を初めて変更させたのは合衆国であったという事実に由来する功績をわが国とわが士官たちから奪い取ろうとする」目的で、諸外国から公的な刊行物や私的な出版物が世に出されていることは無視できない、という立場からの説明である。各国がとった一つひとつの行動についてもれなく説明を加える徹底した反論は、それを読む私たちには、いささかくどい感じがする。そのことは仕方ないにしても、当時の国際環境を少しはわきまえないと文章理解にさしさわる。例えば、1853年当時、ロシアが戦争中であることを聞き及んだ日本人はひどく動揺した、とあるがどういうことだろうか。戦争はクリミア戦争だとわかったとして、それなら日本人がどうして動揺するのか、そこがわからない。つまりこの遠征記全体を通して言えることでもあるが、当時の世界情勢が当時の読者には既知の事実であっても、それから160年を経た私たち、ことに日本人にとっては遠い話だということである。という次第でこの序論最後の部分は読み下すにかなり苦しんだ。
それまで外国船はすべて長崎で応対する幕府に対して、あえて江戸湾に乗り入れ、武力は使わなかったにしても十分な威圧を加えることで遂に下田で条約を締結した。武力外交が普通だった時代としては平和的と言えるだろうし、和親条約と通商条約の両方を手にした手腕もさることながら、長崎のほかに下田、函館の開港は開国につながったのであった。これまで通りに長崎から交渉を持ちかけたロシア、イギリス、オランダはアメリより早くには和親条約締結に持ち込めなかった。あとになって自分たちのあれこれの提言が効いたからだといっても、ミミズのたわごとめいてくる。オランダの言い分が負け惜しみの最たるものであったから、まことにみっともない。
私にとって新しかったのはシーボルトのとったとされる行動と言辞である。江戸の天文学者高橋至時との交友を通じて禁書の日本地図を入手したために、高橋は獄死し、製図家の某も自死した事件に発展し、本人は永久追放になった。ロシアの動静に敏感になっていた幕府は彼が生粋のオランダ人でないこともあってスパイの嫌疑をかけていた。アメリカの観測では、シーボルトはロシアのスパイであることには疑いないとしている。ペリー遠征計画が出帆12ヶ月前に公表されると、シーボルトは関係者を通じて乗船随行を懇願してきた。ペリーはいかなる権力者を通じてのことであっても断固拒否したと書いている。それは追放された人物を乗船させた場合の不測の危険を避けるためだったという。アメリカの成功が知れ渡った数カ月後、シーボルトはボンにおいて、「世界各国との航海と通商のために日本を開国させるにあたり、オランダとロシアが成し遂げた努力についての真実の記録」と題した小冊子を出版した。内容は自己顕示にすぎないが、「いまわれわれは、日本を開国させたことに関して、アメリカ人にではなくロシア人に感謝しなければならない」との一文がある。これはロシアとの親密な関係を示すものであり、ロシアに関して彼がとった行動も密接な利害関係を示していると述べている。このようなシーボルトの一面は日本であまり知られていないのではないだろうか。日本滞在中の事物の蒐集や記録は今日では日本にとっても重要な資料であるが、当時のヨーロッパでは他に類がなく、のちにまとめられた『NIPPON』も各国語に翻訳された。ペリー遠征当時のロシアも資料を求める過程で関係を深めたという一面がある。物事を政治から見るか学術交流から見るかで鏡に映る像は変わる。スパイ説は意外であったし、少し寂しい気持ちがした。シーボルトはヨーロッパ人で自分ほど日本を知っているものはいないという自負心があり、それが異常に強すぎたということだろうと思う。

アメリカの説明にしたがって、各国の行動についての記述を簡単に記す。
ペリーが江戸湾に錨を下ろしたひと月後、ロシアのプチャーチン艦隊が長崎に到着した。ロシアの真意はわからないにしても、当時ロシアはわが国の日本遠征と時を同じくして日本海域の海軍力を増大させたことは事実だ。1853年11月12日、ペリーがロシアの提督から受け取った手紙には、合衆国艦隊に対し、ロシア海軍と合同し、一団結して行動することが提議されていた。ペリー提督は丁重に断った。アメリカが収めた成功にはロシアの恩恵は全く受けていないが、ロシアは間接的にその貢献を推し進めていたのかも知れない。日本から得た情報によれば、日本政府はロシアのアムール川流域における動きをかなり危惧し、その思惑を探るようにとの皇帝の命令で特使が派遣されている。日本側は効率の良い陸軍を徴集し、ヨーロッパのモデルを模して建造した船からなる海軍を備えることにした。造船に対する規制は撤廃され、アメリカとの条約調印後すぐにアメリカ船と同様の装備を持った商船が一隻建造された。日本はロシアが当時行っている戦争についても聞き及んだ。この情報は日本人をひどく動揺させ、その結果、帝室委員会は合衆国との間に締結されたものと同じ条約を、通商を求める諸國とも結ぶ決定を下した。かくして日本は世界との通商に門戸を開いたのである。ロシアの日本訪問は1853年と翌年のどちらも条約締結できないままに終わった。

イギリスはスターリング提督が1854年9月に長崎に到来し、通商を含まない条約締結に成功している。日本がロシアの意図に懸念を抱いていたことと、ロシアが当時戦争中だったことがイギリスに有利に働いたようだ。序論末尾に、「上記の文章が書かれてから、イギリスと日本の間の通商条約が締結されたという情報を受け取った」との注書きがある。

合衆国が日本との条約交渉を成功させてしまったとき、オランダは同国の植民大臣からの形式張った公式文書を持ち出して「オランダ政府がこれまでに行ってきた、不屈の私心なき努力を世に公表する」と宣言した。公式文書と称するのは、1844年にビッドル提督が日本を訪れた頃、当時のオランダ国王ウィレム二世が、日本の皇帝に鎖国政策の危険を喚起して友好・通商関係を結ぶよう勧めた書状を指す。それについて私心なき助言を行うべく使節を派遣しようと申し出たが、1845年に日本の皇帝は返書を送って鎖国政策を変更しないと伝えた。
1852年にペリー提督の遠征隊派遣が明らかになると、インド総督からオランダ商館長に日本との交渉権が与えられ、オランダ政府から条約の草案が送られてきた。そして、もし「日本においてアメリカ問題」を協議する機会があれば、総督の指示と条約草案に従って行動するように命じられた。ペリーの出港前数ヶ月のことである。
オランダの企図を察知したアメリカ政府は1852年7月、オランダ政府に問い合わせを行い、艦隊を派遣すること、それは友好的な目的であること、できることなら鎖国政策を緩和させることを公式に伝えた。また、必要が生じたなら、目的達成のためにオランダの公式な協力が得られるよう出島商館長に通達を出してもらえるよう依頼した。オランダは通達を出すことを約束し、1844年のウィレム二世の書簡写しと、1845年の皇帝の返書写しをアメリカに提供した。しかし、このとき日本に郵送中のオランダの条約草案、およびオランダ役人宛の指令のことはアメリカに知らされなかったのである。ペルー提督は長崎を避けて江戸湾に入ったのでオランダ商館長との間にはいささかの接触もなかった。
こういう次第だから、200年以上にわたって日本との通商を独占してきた国が、その独占が破れた途端に、独占をつねづね遺憾に思って、廃止するべく尽力していたなどとは、よくも言えたものだというわけである。
これでようやく序論が終わった。一休みしよ。
読んだ本:『ペリー提督日本遠征記 上』角川ソフィア文庫(2014)
(2018/6)