2018年6月8日金曜日

角倉一族のこと

辻邦生『嵯峨野明月記』を読みながら角倉一族の仕事に感銘を受けた。『角倉一族とその時代』という比較的新しい書物の存在を知って読んでみた。学術書であるが小難しいものではない。むしろ一般読者を対象にした啓蒙書である。事業全般に及ぶ26本の論文が紹介されている。穴太衆(あのうしゅう)の石積み技術や保津川下りの操船技術まで実務家によって執筆されているのはこういう研究書にあってはめずらしい。私の関心事では角倉素庵の終焉と嵯峨本における光悦の下絵の真偽について、事実と小説の違いに強く惹かれた。数学に対しては全く働こうとしない我が頭脳にとって『塵劫記』(1627年)の著者吉田光由については新しい知識であった。西洋数学と和算の思想的な違いを論じる森洋久氏の論文は短いものであっても壁のように厚かった。それはそれとしても、この吉田光由はただの数学者ではなくて実務家でもあった。その人脈をたどれば河川の開鑿、安南交易に名を馳せた角倉了以その人自身が算術にも明るかったなど驚くことの連続である。ここでは大部の書物のここかしこから適宜拾い出した事柄を簡単に記録しておくことにする。

角倉家の人物について調べていると角倉吉田という姓のようなものが出てくる。あるいは角倉、本姓吉田という言い方もある。家系のもとを辿れば源氏の流れ佐々木氏の配下で、近江国吉田に領地があった一族だから吉田姓を名乗っていた。10代目の当主徳春が京に上り室町幕府に仕えて嵯峨角倉に住んだ。その土地は桓武天皇直営角倉跡地ということから角倉を屋号にしたようである。仕事は方術というからやがてそれは医術に発展する。以後、代々医家として明治まで続いた。移住して2代目の宗臨あたりから医師として仕えながら土倉(どそう)、つまり金融業を営み始め、のちに酒屋も兼ねた。ときは室町幕府で、金のない政権にとっては土倉は重要な財源だったという。15世紀に来日した朝鮮使節の言に「国に府庫なし。ただ富人をして支持せしむ。」とあったそうだから角倉吉田家は大いに幅を利かせたわけであろう。本書で「土倉と角倉」を担当した歴史家、河内将芳氏も幕府政所に関わる史料に拠っている。政所は財政を所管する役所である。後世徳川期に至るまで豪商として話題にされる一家にはとかく町人のイメージがある。知行地を持ち、扶持をいただき、ときに代官や舟運差配を勤めるなど、れっきとした武士階級であり幕臣であったという事実は私にとって目新しいことであった。

3代目宗桂の長男了以は医者を継がず事業家となって分家し角倉姓を名乗る。子は素庵である。医家のほうは吉田姓のまま了以の弟宗恂が継いだ。
吉田宗桂は僧、策彦周良(さくげんしゅうりょう)とともに医術修行を目的に2度明国に渡り、大量の書籍を持ち帰った。名声高く2度目の渡明では明の世宗嘉靖帝の病を治癒した。
4代吉田宗恂は豊臣秀次に仕え、領地を賜って京都に家を構えた。後年家康に召されて拝謁し、山城の国内に領地500石を賜る。1年毎に江戸に上り君側に仕えた。儒学の理解に深く藤原惺窩と交友を深める。ここに角倉素庵との接点があることに注目しよう。1610年53歳で死去するが千冊に余る書物を遺した。この財産は後に吉田光由の数学にも寄与する。

本書の医家系図を担当された奥沢康正氏は、ただ1行「吉田・角倉家の出版事業は宗恂により始められたといって過言ではない」と記した。このことは本書第6部の「<嵯峨本>以前の古活字版について」につながる。
古活字版は朝鮮戦役で輸入された銅板活字やキリシタンによる金属活字ともことなり、日本独特の木活字による印刷をいう。
現存する最古の古活字版によるものとしては文禄5年刊行『補注蒙求』と『証類備用本草序例』が知られている。後者は明版嘉靖帝刊本を底本に用いたと鑑定されているが、刊行者の如庵宗乾とは誰なのかが不明である。当時明刊嘉靖版の本草書などを所持しているのは吉田宗恂のほかにはないと考えられること、さらに、宗恂は同じ元禄5年に『古今医案』を開版しているし、吉田家には明版の医書類が数多く襲蔵されていることから、刊行者の如庵宗乾という名は宗恂の匿名と考えられている。

宗恂は『古今医案』のあと、慶長3年(1598)に『大学』『中庸』『孟子』の注本を活字版で刊行したことなどから、こういう印刷発行業務は身近な場所で行われたであろうと推定され、そうならば、造本工房のような広くて大勢が作業できる場所が必要になることから、それは嵯峨では素庵の工房が想定される。そこは後に『徒然草』をはじめとする嵯峨本の生み出された場所ということになろう。宗恂あっての嵯峨本誕生という関連が十分に想定せられる。

吉田光由(1598-1673)は宗桂の弟光茂の家系である。光由は素庵が多忙で手が回りかねるときに、大覚寺から一帯の水不足解消の工事を是非にと依頼され、素庵に代わってダム(現在の菖蒲谷池)と200メートルの傾斜のついた菖蒲谷隧道を完成した。工事にどのくらいの期間を要したのか、いろいろ調べてみたがはっきりしない。本書に1924、5年頃完成したらしいとあるのはほぼ当たっていそうだ。いまにのこり、北嵯峨一体の水利に貢献しているこの灌漑システムに使われているのは、水準測量、路線測量、トンネル掘削にかかわる諸技術であって、400年前にこういう測量を実際に実施できる能力のある人は非常に少なかった。光由27、8歳当時のことで、医師の長兄光長の協力を得て完成した。前後して和算書『塵劫記』(1627)を出版したが、その『塵劫記』に込められた知識の基礎は、素庵に学んだ明の書物『算法統宗(中国語版)』(1592)だといわれる。その書物は角倉船がもたらした可能性が大きいから、それもまた宗恂の大量の蔵書中に含まれていたとみてよい。
『塵劫記』には「河普請のこと」と題して堤防や蛇籠の計算など多くの応用問題が含まれていた。よく売れたので海賊版も多く出たために次々に改訂版刊行に追われて、了以を継ぐ角倉一族らしい土木事業に再び戻ることができなかった。

了以も算法には通じていた。それ故河川開削工事の工法も工夫できたのであろう。著述として『塵埃記』は12巻からなる算書だそうだ。了以の興した吉田流算術が素庵、光由と伝わった可能性もある。こうしてみると嵯峨に根を下ろした角倉・吉田は各世代が助け合い関連しながら、医業、土木、運輸、交易、出版、学問、芸術など多方面に大きく貢献したことがわかる。社会構成的にみても天皇、公家、将軍、寺社、幕府から職人、船頭までなんと付き合いの広いことか驚くばかりである。応仁の乱で荒野と成り果てた嵯峨の地に開いた文化の時代である。面白い。
光由関係は次のサイトがわかりやすい。http://www.kitatouhoku.com/kyoto/documents/ikiiki63.pdf

角倉素庵のことに移ろう。河川工事や朝鮮戦役での内国輸送、その他は省略して文化事業を見てみよう。
嵯峨本研究家、林進氏による嵯峨本の定義は次のとおりである。
嵯峨本とは、近世初期の慶長年間(1596-1614)に、洛西・嵯峨に住む豪商で儒学者、能書家の角倉素庵(1571-1632)が出版を計画し、書目を選定し、大堰川河畔、臨川寺東隣りの角倉本邸屋敷内に設けられた造本工房において、素庵みずからがデザインした木活字フォントを用いて、また素庵の筆跡を版下にして刊行した、美麗な装訂に成る一群の平仮名交り文の日本古典文学書のことである。
なお、嵯峨本は本阿弥光悦が主導し、みずから版下を書き、装訂に美術的意匠を施した本であるとする従来の通説には、確証はないとする。また同氏は辻邦生の『嵯峨野明月記』に登場する光悦、素庵、宗達の三人に代えて、「天皇(後陽成・後水尾)と素庵と宗達」の枠組みを設定して研究を続けているそうである。文禄勅版や慶長勅版の刊行者である好学の天皇、後陽成(1571-1617、在位1586-1611)が嵯峨本の誕生に大きな役割を果たしたのではないかと想定している。成果が楽しみである。
これまで嵯峨本の主導者とされた光悦について林氏は、光悦が出版に関与したという当時の文献資料は確認されていないし、出版という事業は、400年前の数寄者が趣味的に行う行為でないことを「私たちは認識している」と自負されている。これは川瀬一馬『嵯峨本図考』(1932)および後続の研究者が光悦の筆跡について実証的な研究を怠っていることが問題である。それにもかかわらず、長年そのまま信じ込んできた美術界はみずからを光悦呪縛から解放するべきだ、と主張されている。
世の中の実態は光悦没後の信奉者による光悦神格化にあるわけであって、結果的に素庵の筆跡を光悦のものとし、方印偽造までがまかり通っている。素庵が後述のように不幸な病のために世間から消されてしまったのが大きな要因と考えられるが、書跡も版本も素庵の作品が光悦の名にすり替えられたものが多数現存している。謡本は別として、嵯峨本には光悦本というのは存在しないと断言されている。
実態の例を林氏の文を借りて次に引用する。
素庵が染筆した古歌・古詩などの多くの書跡は、当時の慣例に従って、署名や印章を記さなかった。そのため、後世「素庵の書」の余白に光悦の落款・印章が入れられ、「素庵の書」は、「光悦の書」に捏造された。たとえば、有名な京都国立博物館蔵の重要文化財『宗達金銀泥鶴下絵三十六人和歌巻』の和歌本文は、素庵が揮毫したものであるが、後世、巻末に篆書体「光悦」黒文方印が捺され、光悦の書に捏造された。その書が素庵の筆であることは、素庵書体の基準作と対照して、明らかである。(後略)

(こういう事実を私は知らないままに問題の鶴図一部を前回ブログに載せてしまったのは汗顔の至りであります。)

林進氏の連続講座の関連部分がウエブサイトにある。http://www.sotatsukoza.com/menu/sotatsukoza_shiryo5.pdf

次に素庵の病と没後について林氏の文章を引用する。
晩年、素庵は突然に不幸に見舞われた。寛永4年(1627)冬に、素庵は癩(ハンセン病)を患って角倉家から出され、世間との関係が絶たれた。二人の息子玄紀と巌昭は、父を不憫に思い、世間の掟を破って、父を癩者として放浪の旅に出さず、また清水坂の非人宿にも入れず、密かに嵯峨の清凉寺西門に隣接する千光寺の旧地(藤原定家・為家ゆかりの土地、現在の嵯峨中院)に隠棲させた。のち素庵は光を失ったが、変わらず学問に専心し、学者としての生涯を終えた。寛永9年6月22日没、享年62。以後、素庵は歴史の闇に消えた(消された)。彼の多くの優れた業績も隠された。そのうえ角倉の屋敷はたびたび火災にあい、すべての資料は灰燼に帰してしまった。

ついでながら、素庵が藤原惺窩の依頼によって生涯の仕事とした『文章達徳録綱要』は子息玄紀が後を継いで寛永16年全6巻を堀杏庵(正意)の序文を添えて刊行した(朝日日本歴史人物事典コトバンクより)。
角倉船の図
安全祈願のため清水寺に奉納の絵馬、寛永十一年は最後の航海となった

本書には、このほか角倉船と朱印船貿易のことや清水寺奉納の絵馬、角倉船遭難の地を訪ねる旅のエッセイや地名の同定研究などもある。高瀬舟についてのことなどは記録と事実をあまり知ってしまうと鴎外の作品からのイメージが壊れてしまう弊害もある、これは贅沢というものだろう。
素庵の書跡が光悦筆にすり替えられるあくどい話は骨董品鑑定にありがちなことではあるが、もとより光悦の没後の話だから光悦は全くあずかり知らないことだ。私は東洋文庫と中野孝次の作品で『本阿弥行状記』も読んでみた。この内容は本阿弥家の家伝であるが、もっぱら家業の刀剣の目利きに関する伝記だけで嵯峨本や和歌巻は関係しない。言わんとする処はいかに精錬潔癖、正直を旨とする家柄であるかということに徹している。また刀の鑑定については折り紙(鑑定書)を発行するに際しては一族一同の合意で決める伝統がある。最後の決定は家長に委ねられるが、10年、20年と鍛えてきた家長の目には絶大な自信が込められているのだ。光悦も一時期の家長であるからには真贋を見抜く目に狂いはない。そういう人物の名を他人の作品にかぶせるとは光悦自身が聞けばどう思うだろうか。まことにナンセンスなことで浅ましい限りである。光悦作を心底から愛好する人には迷惑この上ないことだ。

壁にぶつかって残っている部分をこれから再挑戦して読んでみよう。数学についての哲学などそうそう読む機会はないだろうから。和算という学も計算は理解出来ないにしても文化遺産としてみれば算額のような民俗もあり面白いものだと思う。以前読んだ冲方丁『天地明察』も面白い読み物だった。今回の角倉家では基礎を中国に学んだ和算で土木工事をなしとげた。吉田光由は暦と歴史にも関心が強く『古暦便覧』をものして日本歴史の年代修正を図っていることも本書に記されている。617ページあるこの書物、汲めども尽きぬという俚諺のとおり、アチラコチラとひっくり返す度に興味あることが飛び出してくる。ノンフィクション好きの私向きの書物であった。
読んだ本:『角倉一族とその時代』編者 森洋久 思文閣出版 2015年刊

(2018/6)