読者として知りたいと思った疑問に、史料によってのみ記述する著者が答えてくれたのはこれで全部だと思う。しかし、まだもやもやした気分が残っている。岩倉への使節派遣諮問にみられるように、新政権は万国対峙・独立不羈を標榜して世界の中に位置する国家という日本を自覚している。したがって条約改正には世界を相手にしなくてはならず、そのためには「万国公法」に従わなくてはならない。だから「万国公法」を研究したうえで新政府の政策万般を策定しているつもりでいる。それなのに条約改正交渉は列国に相手にされない。鍵は「不平等条約体制」というシステムにあった。「万国公法」はアメリカ人ヘンリー・ホィートン(Henry Wheaton)が著した「The element of the international law」が清国でウイリアム・マーティン(漢字名「丁韙良」)によって漢訳された『万国公法』と、オランダのライデン大学のフィッセリング(Simon Vissering)の講義を留学生西周と津田真道が筆録したものを翻訳した『万国公法』の二種があり、日本では同時期に出回ってベストセラーだったらしい。それにもかかわらず、岩倉たちは自国の締結した条約に最恵国条款があることを知らなかった。ある書物に、ホィートンのころは 文明の國(civilized nations) とキリスト教国(Christian nations)は同じ意味に扱われていて、国際法はキリスト教国にしか妥当しなかったのが事実であった、と書かれてあった(丸山真男氏の発言、『翻訳と日本の近代』岩波新書、加藤周一氏共著、1998年)。このことと当時の日本人に最恵国条款についての知識がないこととがあるいは関係しているのかもしれない、などと考えている。いずれにしろ、宮地正人氏は史実にしたがって歴史を記述されたことには違いない。
ふと思いついて、萩原延壽『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』を読んでみた。新聞連載中から気になっていたこの著作、全14巻にもなってしまってからいよいよ手が出ず、今に至る。ようやくこの一冊を手にしてみると、読まずば死ねまいという気になった。この岩倉使節団の巻はいい勉強になった。
英国外交団内部で交換された情報記録のほかに木戸孝允日記ほか日本の外交文書など広い範囲の史料が駆使されていて、宮地氏の叙述とは別種の刺激を与えられる。
岩倉たちがワシントンで会談した米国側はフィッシュ国務長官であった。岩倉使節団が発遣されたことをうけてロンドンに帰国していたパークスは英国駐米公使サー・エドワード・ソーントンとの交信によってワシントンの情勢をつかむ。以下は「ソーントンよりグランヴィル外相への報告、1872年3月15日付、ワシントン発」にしたがって萩原氏が記している内容に沿って述べる。
ソーントンは3月14日、フィッシュに会って使節団の目的など尋ねた。既に二度日本側と会談していた。日本側は諸外国との条約を改正したい一般的な意向を持っており、その新条約の基礎とすべく、アメリカ政府と何らかの協定に到達したい意向を表明した。他の条約締結国も類似の基礎案に同意することを希望しているとも。日本側が提出した信任状には、交渉をおこなって調印する権限をあたえられていないこと、日本に帰る以前に交渉を開始する意向が記されていないことが確かなように思えたので、調印する権限を確認したところ、権限は持っていないが、議定書を作成し、そこに双方の見解を書き留めておくことはできるのではないかとのこと。これに対してフィッシュが、その議定書をやがて締結される条約の基礎ないし草案にするのなら、その文書に調印することが必要であるとのべると、必要な権限を取り付けるために、一行のうち2名が近く日本に帰るとこたえた。
つづいて日本側は条約改正に関して日本政府が希望する大筋のところを説明した。(筆者注:前述❶~❼参照)以下はフィッシュの返答である。
第一の領事裁判廃止については、しっかりした司法制度がじっさいに導入され、かつ十分に機能していることが判明した場合にはアメリカは廃止に異議を唱えないであろう。第二の外国貨幣の流通については、財務当局に打診することになろう。第三の中立問題は非常に難しく国際法の専門家の意見を徴することが必要。日本側の見解を文書にして提出されたい。第四項以下についてソーントンはフィッシュとの応答を記していない。
治外法権の撤廃と、関税自主権の獲得とを中心とする日本側の要求が、明確に提示され、日本大使の発言は、全体として、独立諸国家間における日本の地位を高め、上昇させたいという強い願望に貫かれていたという。フィッシュは、日本側が口頭で表明した見解を文書にまとめて提供するよう希望した。
つづいてフィッシュは、アメリカ政府の希望として、次の諸点を表明した。
すなわち、第一に、より多くの日本の港、できればすべての港が外国貿易のために開放されるべきこと。第二に、旅券を所持する条約締結国の国民は、商業上の目的で、日本全土を旅行することが許可されるべきこと。なお、同氏は、この旅券の発行に際して、それら諸国の公使は判断力と鑑識力を必要とするであろうと付け加えた。第三に、言論、出版、良心の自由の原則が承認され、この原則が日本において永久に確立されるべきこと。第四に、キリスト教の物的な象徴は尊重されるべきであり、キリスト教徒は日本政府によって迫害されないばかりでなく、私人による迫害をまぬがれるため、日本政府によって保護されるべきこと。第五に、日本が他の諸国にあたえる一切の利益と特権を、アメリカも同等に享受することを期待するものであること。
萩原氏は、この最後の項目は、いわゆる最恵国待遇の要求である、と付記している。(163-166頁)
ついでながら、日本側が画策していたヨーロッパの一国での合同会議案はフィッシュは拒否し、日本の改正要望の実現可能性についても否定的であった。
ブラントがワシントンに到着して岩倉に忠告する。日本が今般米国と即刻条約を結ぶようなことになれば、ドイツが最恵国条項を適用し、日本が米国に対して行う一切の譲歩を要求するが、同時にドイツは日本が米国から獲得するかもしれないいかなる譲歩も日本に与えないと説明した。宮地氏の叙述のとおりである。岩倉がそのような条項を知らぬと言ったに対してブラントは、日本とオーストリア・ハンガリーとの修好通商条約(明治2年9月14日(1869年10月18日)調印)の、第20条の写しを翌日届けたそうである。次にその条文を示す。
「日本天皇陛下、他国の政府及人民に与え、或は爾後与えんとする総て別段の免許及び便宜は、墺地利及洪牙利政府並に其民族にも、此条約施行の日より免許あるべきを今爰(ここ)に確定せり。」(『条約改正関係・日本外交文書』第一巻)
萩原氏は木戸日記を参照している(170頁)。
「2月18日(陽暦3月26日)雨、終日内居、条約一条を集議せり。此度俄に大久保、伊藤帰朝して条約改正の勅許を乞わんとす。今此挙動反顧いたし候に、余等伊藤或は森(有礼)弁務使等の粗(ほぼ)外国事情に通ぜしに託し、怱卒其言に随い、天皇陛下の勅旨を再三熟慮謹案せざるを悔ゆ。実に余等の一罪也。」(『木戸孝允日記』二、日本史籍協会版)
「木戸が後悔しているのは、年少の伊藤と森にひきずられて、不覚にも使節団の目的変更に同意したことであり、その結果すぐ明らかになったのは、日米双方の立場の相違の大きさであり、交渉を継続した場合『彼の欲するものは尽(ことごと)く与え、我欲するものは未(いまだ)一も得る能わず』という事態を招く恐れである。ここにおいて嘆息すべきものは、開国を思い、人民を顧みるよりも、また『功名の馳せるの弊なきにしもあらず』ともいっているが、ここにいう功名の弊は、伊藤と森についてばかりでなく、使節団と同船で帰国したアメリカの駐日公使デ・ロングと、使節団をワシントンで迎えた国務長官フィッシュについても、同じく言えたことかもしれない。フィッシュとデ・ロングの場合、「功名」を競う相手とは、当然イギリスであり、パークスであろう。」
ちなみに意見の齟齬をきたした彼らの年齢を記す。岩倉47歳、木戸39歳、大久保42歳、伊藤31歳、森26歳。
この萩原氏の著書によって、宮地氏の記述では腑に落ちなかった大久保と伊藤が取りに戻った委任状の役割が、議定書の草案に調印するためのものであったこと、そしてアメリカの逆提案の内容も読者は理解できた。予備交渉のはずが本交渉まがいになったかのような事態は、伊藤と森の英語遣いの二人が大使・副使たちをさしおいて会談を進めたようにもとれるが、ソーントンの報告に徴しても確かな事実は不明である。宮地氏が事の次第を記さなかったのは記録がないからであろう。
木戸は5月25日(陰暦)の記述に「森(有礼)大に旧条約の趣旨を誤り」と記しているが、森が最恵国条項についてブラントやアダムスが指摘するような危険を認めなかったという意味であろうと萩原氏は指摘している。
「7月22日、大使岩倉以下、副使の木戸、大久保、伊藤、山口は、三条太政大臣、参議、外務卿輔にあてて、滞米交渉中止にいたる事情について連名の最終報告を作成したが、そこでくりかえし強調されているのは、最恵国条項の問題である。」「アメリカやイギリスの反対により、その合同会議を海外でひらく見込みがない以上、『我使節一行帰朝の上、我国にて会同条約の挙を起(おこし)候方上策に可有之候』というのが、その結論であった。」「そして片務的最恵国条項の重みをかみしめる如く、つぎのように記している。」として、『条約改正関係・日本外交文書第一巻』よりアメリカからの最終報告書を引用している。
続く引用文は煩雑を避けて省略する。日英修好通商条約を例に取り、その23条(最恵国条項)を説明してある。日英修好通商条約第23条について、米国との条約を改正して新条約がなった場合、英国は旧条約のままで利点だけ獲得することになるとその効果を説明している。日英修好通商条約をふくめて、「安政の諸条約」が片務的であるゆえんは、この点にある。
萩原氏は次のように記してこのくだりを結ぶ。
条約改正交渉の前途に最恵国条項という難題が待ち構えているという認識こそ、使節団が痛切に思い知らされた教訓であった。
二日後の7月24日(陰暦6月19日)、別れの挨拶に来訪した岩倉にたいして、フィッシュもこの点に言及するのを忘れなかった。
「フィッシュ 今般条約改正の義は、素より帰国の御所望に付、此方にても之を引受、談判に取掛候処、其後貴政府の御議論も有之趣にて、遂に半途にして立消いたし候に至る上は、合衆国政府は依然旧条約を固持するの権理は有之義に候。」
「フィッシュ 若し欧州において新条約御取結の上は、合衆国は矢張旧条約を固持し、新条約にて他国へ御差許の箇条は之を占むるの権里有之候。」(216頁)
岩倉使節団がアメリカ側に申し入れた基本的な要求のうち、治外法権の撤廃が明治22年(1889)、関税自主権の獲得が明治44年(1911)と、それぞれ明治の大半をついやして漸く実現の日を迎える。
今回筆者が参照した書物にはあまり書かれていないが、米国代理公使であった森有礼が条約改正問題だけでなく、それ以前からの米国における個人的な行動・思想が大いに関係している。森がキリスト教信者であり、キリスト教解禁要求には立場が難しかったこと、『日本の教育』(英文)、「英語国語論」などの著者・論者であること、秩禄奉還を私有財産を侵す人権問題ととらえて公然と政府方針に反対していたこと、これらすべてを通じて米国政府内に森に好意をいだく者が多かったこと等々が遠因・近因としてあったと思う。ただこういう問題が明示の記録に出ていないので、研究論文の範囲まででしか公にならないのであろうと考える。森有礼は不幸にも暴漢のために横死する結果になったが、暴漢でなくとも彼の周囲には日本人という壁があったと思うし、その壁は今日でも日本人の間にあるのではないか。岩倉使節団の当時も現在も日本人の風景というのは変わっていないように思える。
読んだ本:宮地正人 『幕末維新変革史(上)(下)』岩波現代文庫 2018年
萩原延壽 『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』朝日新 聞社 2000年