筆者は岩倉使節団が目指した条約改正問題について、どのように書いてあるかに興味を持った。結論を言えば、この著者の記述によるだけでは納得のゆかない箇所がある。確実な史料が得られない結果だと筆者は理解しているが、通史であるからには細部にこだわる必要はないとも思う。全体は上下巻で千頁を超える大部の記述で圧倒される。それでもこの時期についての記述は終わっていないのだそうだ。いずれ別の形の作品が現れるのであろう。
廃藩置県断行によって中央統一政府の形をととのえた王政復古功績旧四藩連合政権は、できるだけ早く、自らの手で万国対峙の実を挙げ、政府の権威を国内に確立しなければならなかった。「廃藩置県への即時的反抗・反乱が勃発しないことを確認した政府は、岩倉右大臣(明治4(1871)年10月8日就任)を総責任者とし日本政府そのものを代表する形態の一大使節団を米欧に派遣し、国内での条約改正を回避、直接相手国首脳と条約改正予備交渉を行なって日本側の主張の正当性を認めさせ、他方で国内体制を整えることにより、可能な限り早期に条約改正を実現しようとした。その結果、政府首脳部の木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らも随行するという中央政府中枢総出の対外使節団となり、太政大臣三条実美・参議西郷隆盛らを中心とする留守政府の面々は、条約改正を可能とさせる国内改革遂行に従事することとなる」。(下巻331-332頁)
このあとに続けて著者は、使節派遣に関する諮問の文書を引用しながら上記の方針に若干の解説をつけている。文書の出典は注記に、歴史学研究会編『日本史史料4 近代』岩波書店、1997年、64-66頁、とある。この書物の編者は宮地氏自身である。残念ながら手近に現物がない。幸い国会図書館のデジタルコレクションで該当の諮問文書が「岩倉公実記 下巻1」にあったのを参照できた。現物は漢語とカタカナの文章で、漢字を睨んでいれば、おぼろげに内容がわかる、といったものだが、宮地氏は本書では現代の漢字とひらがなの文語で部分的に引用している。
要約すれば、旧政権が締結した条約は使いものにならないという現状が述べられ、我が国が東洋の国の一種とみなされて、我が国の法制・権利・規則・税法など一切が通用しない。甚だしくは公使の喜怒によって談判ができないなど、対等であるべきはずのことが何もない不自由さである。こういう事情が王政復古の後も未だに改善されていないが、ようやく万国対峙・独立不羈の国家を創出するため条約改正を実現できる統一政府が成立した。
しかし、現行条約は来年の西暦1872年7月4日より条約改正協議ができることになっているが、それに対する準備ができていない。諸外国が要求して改正を迫って来れば対応できかねるから当方より申し出る形にしたい。万国公法に従って条約を改正するには、我が国の「國律民律貿易律刑法律税法」等のうち公法と相反するものの改正案をつくり、実際に施行していなければならない。それには三年の期間は見ておかなくてはならない。したがって、一方で全権使節を各国に派遣して和親の意を伝え、併せて条約改正の暫時延期を打診すると同時に条約改正の具体的内容を当方より持ちかけて商議するならば、必ず我論説を至当な事とし同意が得られるであろう。それとともに、列国公法に依って国内改革を行うために「欧亜諸州開化最盛の国体諸法律諸規則等」を実見し調査する(「 」内は原文中の用語ーー筆者)。
明治4年10月8日、使節団が任命され、同日付で岩倉は外務卿を罷め右大臣となる。同月14日、日本政府は岩倉大使が帰国するまで条約改正交渉を延期すると在日各国公使に通告、遣米欧使節団は11月12日、サンフランシスコに向け横浜を出港した。
「米国政府と交渉に入った岩倉は、日本の望む条約改正の骨子は次の通りだと説明する。
❶司法制度の確立に伴い領事裁判を廃止すること
❷外国通貨の日本国内流通を停止すること
❸局外中立規定を確立すること
❹関税決定権を日本側に回復すること
❺犯罪人を相互に引き渡す制度を確立すること
❻両国間の紛争を国際仲介制度により解決すること
❼平和時においては外国軍隊を日本国内に駐留させないこと
正に堂々たる全面的な条約改正要求である。米国政府は逆提案する。条約改正交渉を米日間でおこなうならば、改正交渉に関する日本政府からの全権委任状を提示せよ、と。予備交渉を本交渉に切りかえられるとあって、ただちに大久保と伊藤が委任状受領のため帰国、米国に戻る直前の1872年5月6日(明治5年3月29日)、伊藤は駐日英国代理行使アダムス(パークス公使は本国での日本使節との交渉のため帰国中)を訪問、『十分な権限を有していなかったので、委任状を取りに帰国した』と帰国理由を説明する。」(下巻335頁)
この部分の記述は、まるで答弁書を棒読みする政治家のようである。著者は細部を知っているはずだが書けなかったのだろうと推測する。このあと、アダムスとの問答で、委任状がいる理由は、何らかの成果がほしいからと答え、なぜ成果が今必要かと問えば、国務省と話した結果だと答える。
そこで、「アダムスは本國外務省宛公電で、こう結論づける。当地ではなく海外の地においてすべての条約を締結するため、使節に全権が賦与されるべきだというのが彼らの考えだ、と」。(注記:F/O 46/153.NO.82,7/5/1872、英国外務省宛公信)
「英国代理公使アダムスもドイツ公使フォン・アダムスもブラントも日本の思い上がりに激怒する。日本側の不遜な行為を中断させなければならない。両名は米国経由で帰国、6月26日(明治5年5月21日)にワシントンに到着、この日ブラントは岩倉に面会、こう忠告する。現行の普日条約に規定されている最恵国条款に従い、日米改正条約により米国が獲得するだろうすべてのものはドイツも獲得できる、と同時に、日本がかち得ることになる米国からの譲歩に関しては、その中のいかなる譲歩も日本に与えることに、おそらくドイツ政府は同意しないだろう、と。
ブラントの話を本国外務省に伝えるアダムスは、自分の驚きをこう表現している。
これが信じられるだろうか?使節たちは最恵国条款など聞いたことがないと言明し、岩倉は英日条約中にそれが存在していることを否定した、ということを。しかしそれは事実だ。(注記:F/O 46/154.Adams to Hammond 11/7/1872, confidential.)(ハモンドは外務次官ーー筆者)
英独両使の公然たる介入により、岩倉使節団は米国との条約改正交渉を中止した。1872年9月17日(明治5年8月15日)付の公信で、帰国するアダムスの後を引き継いだ英国臨時駐日公使ワトソンは、日本国内の状況を本国外務大臣にこう伝えた。
日本政府と一般の輿論は、使節団の米国長期滞留とそこで費やされた約40万ドルに見合った成果がないことに関し、彼らが感じている失望をなんら隠そうとしていない。」(下巻第43章 P336-337、注記:F/O 46/155, No.112. 17/9/1872)
「アダムスが米国経由で帰国する出発直前の1872年5月16日、三条太政大臣が送別会に彼を呼び、昨日政府は、新条約を交渉するため条約締結諸国をヨーロッパの地に招集することが決定された、と告げた。」そのような決定がなされた理由は、使節団出発の頃には廃藩置県という大処置がどのような結果を生むのか定かでなく、国民の同意が得られるまで時間がかかると予想されたが、いまや平和裡に受け入れられている。条約改正を延期する必要はなくなったから、早いほうがいいとなったからだという。(注記:F/O 410/14, 20/5/1872, Adams to Granville. 英本国グランヴィル外相宛の公信)(下巻348頁)
この記録は、「華族・士族層の反発」という小見出しで廃藩置県に対する世情を記述する節に挟み込まれているが、ワシントン滞在中の岩倉たちをさしおいて留守政府が決めた情報を知らせている。アダムスは早速本国に知らせ、自分もこの情報を知った上で岩倉たちと会談することになる。
ワシントンでの使節団の行動を記述した文章はここまでに紹介した以外にはない。
注記として書き出したF/Oに始まる記号番号は、英国国立図書館の外務省関係文書であることを示す。現在のところデジタル処理がまだできていないため、内容を読むためには閲覧室まで出向かなくてはならない。著者はそれを読んでいるのであろう。
ブラントはプロイセン王国の初代駐日領事として来日し、後、ドイツ帝国成立でドイツ公使となる。日普修好通商条約は1861年に締結され、1871年ドイツ帝国成立時にそのまま引き継がれた。
米国との交渉を中止したあとの状況を著者は次のように記述する。
「日米条約改正交渉を挫折させられた以後の岩倉使節団にとっては、彼らの欧州回覧は、逆にキリスト教弾圧を避難され、日本側の要望を納得させるどころではない形勢逆転の失意の旅行となった。彼らの回遊全体をよく見ていたのは、生誕期の日本ジャーナリズムよりも、在日欧米社会の方であった。1874年1月17日付の "The Japan weekly Mail" は次のように総括するのである」(下巻337頁)。
引用が長いので、適宜要点を拾って記すことにする。
「使節団の指導的メンバーたちは、彼らの最も切望していた課題」即ち「外国人に対する司法権問題」が、「そこに自分たちが現れることだけで瞬時に解決される」かのような「希望に満ちあふれて旅立った」。「自国の進歩が条約締結諸国(Treaty Powers)に対し公正な司法行政への保証を与えるとの考えにそそのかされたのだ。この、公正な司法行政の存在なしに、外国人と外国人の諸権利を外国の司法権から日本国の司法権に移すという提案は一瞬たりとも外国人によって聴き入れられないものである。彼らは相当浅薄なお雇い外国人たちに惑わされたのだ。」「また彼らは某国外務大臣に騙されたのだ。この人物は、彼と同じ官職にある人々が当該問題に関しとっている立場を愚かにも放棄してしまったのだ(その処置はあとになって彼の政府により完璧に否認されたのだが)。」「日本人のプライドを傷つけ、その虚栄心をさいなんできた文明諸国(the more civilized nations)に対する劣等性の刻印(the mark of inferiority)が除去されて、何の不思議があっただろうか。」しかし「訪問した各国の外務大臣たちは彼らを暖かく歓迎したとはいいながら、問題をただちに在日外交代表に委ねてしまった。これは使節団にとっては苦い下剤を飲まされたものとなった。」「各国在日外交代表団がどのような見解を[…]いだいているかを、あまりにもよく知っていたからである。」日本人は外国の膨大な法典を翻訳・解釈・自国への適合を研究する外国人・専門家を雇って十分な準備をした。しかし在日外交代表団の立場は確乎たるものだ。「日本人は、彼らと外国人との間において、一時的にせよ司法制度に対するヨーロッパ人の要求を満足させ、また中立公平な司法行政への微小なりとも保証を与えうる裁判所も法律も訴訟手続も、何一つ有していないのである。」(注記:FO 46/176,18/1/1872,Parkes' private letter Encl.)
第44章に著者は、条約改正が予想を遥かに超える至難の大事業であることが判明したと、岩倉公が帰国直後、明治6(1873)年9月13日に明治天皇に告白した記録を採り入れている( 下巻357頁)。内容はお詫びの弁明で具体的な事柄は書かれていない。ここでは省略して出典を記しておく。「東京大学史料編纂所所蔵「修史局雑綴」第28冊」。
次いで著者は使節団が条約改正交渉に失敗した要因を明かしてくれる史料を紹介する。
「欧米キリスト教諸国が日本に押しつけている治外法権と低率協定関税は、日本に対してだけのものでは全くなく、不平等条約体制という国際的法秩序そのものだ、という苦い真実を使節団は米欧回覧の中ではじめて理解した。
パリの公使館に顧問として勤めていた英人マーシャルは英国外相の求めに応じ、74年5月6日付で次のような覚書を提出している。
使節団がヨーロッパに来るまで、いかなる日本人も、日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった。使節団がヨーロッパに着いてのち、特にパリに滞在する間に、はじめて彼らはこの問題を徹底的に学ぶことができた。彼らはようやく理解できた、日本の諸条約は、ヨーロッパがトルコとのカピチュレーション以来、東方諸国家との取りきめに際し適用しつづけてきた諸規定・諸規範の単なる応用に過ぎないのだということを。彼らは発見した、日本は他のアジア諸国と同様、明瞭な劣等性の原則の上にのみ取り扱われていること、諸条約は国家的自由の最も重要な表象たる独立と法権という国家主権を部分的にであれ剥奪しているのだということを(注記:F/O 410/14,6/5/1874,Marshall to Derby)」。(下巻 358頁)
著者は「岩倉をはじめとする使節団のメンバーはこれ以降、現行条約以上の譲歩を締結諸国に絶対に認めないこと、条約改正実現には日本国家の国際的実力を強化する以外に途がないことを心に誓い、行動に具体化していく。」と述べてこの件を終わっている。
ところで、カピチュレーション(capitulation)という用語が登場するが、これについては上巻第4章に不平等条約世界体制の起源として説明されている。治外法権・領事裁判制度の起源となったオスマン帝国の制度。キリスト教徒を二等国民として帝国臣民のイスラム教徒と差別した支配体制。オスマン帝国側からの特恵的条約であって、いつでも帝国側から停止、廃止可能であった。帝国内で交易するキリスト教徒との紛争に備える裁判制度として機能していた。マーシャルの覚書での言及は条約上の治外法権に関することであるが、「日本を縛っている諸条約の国際的な意味に関し正しい認識を有していなかった」という表現こそ使節団が最恵国条款の存在を知らなかったことを指している。このことも著者が第4章の東アジア外交をリードする英国の政策の中で説明している。
「イギリスが、この不平等条約世界体制を実現するために最も重視したのが条約締結諸国(ただしロシアは除外されている)との共同要求・共同行動という行動パターンであった。英語ではTreaty Powersという名称で頻繁に登場する。他の欧米列強を共同の要求と行動に巻き込み、欧米列強の外交力・軍事力を総結集することにより、自由貿易体制を貫徹深化させ、最恵国条款により、勝ちとる権利を均霑させ、しかもその中で自国が自動的に最大の受益者となるという論理がそこに貫かれていた」(上巻62頁)。
(「均霑(きんてん)」の字義は「等しくうるおう」であり、語義は「平等に利益を得る、または与える」ことをいうーー筆者)
読者として知りたいと思った疑問に、史料によってのみ記述する著者が答えてくれたのはこれで全部だと思う。しかし、まだもやもやした気分が残っている。岩倉への使節派遣諮問にみられるように、新政権は万国対峙・独立不羈を標榜して世界の中に位置する国家という日本を自覚している。したがって条約改正には世界を相手にしなくてはならず、そのためには「万国公法」に従わなくてはならない。だから「万国公法」を研究したうえで新政府の政策万般を策定しているつもりでいる。それなのに条約改正交渉は列国に相手にされない。鍵は「不平等条約体制」というシステムにあった。「万国公法」はアメリカ人ヘンリー・ホィートン(Henry Wheaton)が著した「The element of the international law」が清国でウイリアム・マーティン(漢字名「丁韙良」)によって漢訳された『万国公法』と、オランダのライデン大学のフィッセリング(Simon Vissering)の講義を留学生西周と津田真道が筆録したものを翻訳した『万国公法』の二種があり、日本では同時期に出回ってベストセラーだったらしい。それにもかかわらず、岩倉たちは自国の締結した条約に最恵国条款があることを知らなかった。ある書物に、ホィートンのころは 文明の國(civilized nations) とキリスト教国(Christian nations)は同じ意味に扱われていて、国際法はキリスト教国にしか妥当しなかったのが事実であった、と書かれてあった(丸山真男氏の発言、『翻訳と日本の近代』岩波新書、加藤周一氏共著、1998年)。このことと当時の日本人に最恵国条款についての知識がないこととがあるいは関係しているのかもしれない、などと考えている。いずれにしろ、宮地正人氏は史実にしたがって歴史を記述されたことには違いない。
ふと思いついて、萩原延壽『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』を読んでみた。新聞連載中から気になっていたこの著作、全14巻にもなってしまってからいよいよ手が出ず、今に至る。ようやくこの一冊を手にしてみると、読まずば死ねまいという気になった。この岩倉使節団の巻はいい勉強になった。
英国外交団内部で交換された情報記録のほかに木戸孝允日記ほか日本の外交文書など広い範囲の史料が駆使されていて、宮地氏の叙述とは別種の刺激を与えられる。
岩倉たちがワシントンで会談した米国側はフィッシュ国務長官であった。岩倉使節団が発遣されたことをうけてロンドンに帰国していたパークスは英国駐米公使サー・エドワード・ソーントンとの交信によってワシントンの情勢をつかむ。以下は「ソーントンよりグランヴィル外相への報告、1872年3月15日付、ワシントン発」にしたがって萩原氏が記している内容に沿って述べる。
ソーントンは3月14日、フィッシュに会って使節団の目的など尋ねた。既に二度日本側と会談していた。日本側は諸外国との条約を改正したい一般的な意向を持っており、その新条約の基礎とすべく、アメリカ政府と何らかの協定に到達したい意向を表明した。他の条約締結国も類似の基礎案に同意することを希望しているとも。日本側が提出した信任状には、交渉をおこなって調印する権限をあたえられていないこと、日本に帰る以前に交渉を開始する意向が記されていないことが確かなように思えたので、調印する権限を確認したところ、権限は持っていないが、議定書を作成し、そこに双方の見解を書き留めておくことはできるのではないかとのこと。これに対してフィッシュが、その議定書をやがて締結される条約の基礎ないし草案にするのなら、その文書に調印することが必要であるとのべると、必要な権限を取り付けるために、一行のうち2名が近く日本に帰るとこたえた。
つづいて日本側は条約改正に関して日本政府が希望する大筋のところを説明した。(筆者注:前述❶~❼参照)以下はフィッシュの返答である。
第一の領事裁判廃止については、しっかりした司法制度がじっさいに導入され、かつ十分に機能していることが判明した場合にはアメリカは廃止に異議を唱えないであろう。第二の外国貨幣の流通については、財務当局に打診することになろう。第三の中立問題は非常に難しく国際法の専門家の意見を徴することが必要。日本側の見解を文書にして提出されたい。第四項以下についてソーントンはフィッシュとの応答を記していない。
治外法権の撤廃と、関税自主権の獲得とを中心とする日本側の要求が、明確に提示され、日本大使の発言は、全体として、独立諸国家間における日本の地位を高め、上昇させたいという強い願望に貫かれていたという。フィッシュは、日本側が口頭で表明した見解を文書にまとめて提供するよう希望した。
つづいてフィッシュは、アメリカ政府の希望として、次の諸点を表明した。
すなわち、第一に、より多くの日本の港、できればすべての港が外国貿易のために開放されるべきこと。第二に、旅券を所持する条約締結国の国民は、商業上の目的で、日本全土を旅行することが許可されるべきこと。なお、同氏は、この旅券の発行に際して、それら諸国の公使は判断力と鑑識力を必要とするであろうと付け加えた。第三に、言論、出版、良心の自由の原則が承認され、この原則が日本において永久に確立されるべきこと。第四に、キリスト教の物的な象徴は尊重されるべきであり、キリスト教徒は日本政府によって迫害されないばかりでなく、私人による迫害をまぬがれるため、日本政府によって保護されるべきこと。第五に、日本が他の諸国にあたえる一切の利益と特権を、アメリカも同等に享受することを期待するものであること。
萩原氏は、この最後の項目は、いわゆる最恵国待遇の要求である、と付記している。(163-166頁)
ついでながら、日本側が画策していたヨーロッパの一国での合同会議案はフィッシュは拒否し、日本の改正要望の実現可能性についても否定的であった。
ブラントがワシントンに到着して岩倉に忠告する。日本が今般米国と即刻条約を結ぶようなことになれば、ドイツが最恵国条項を適用し、日本が米国に対して行う一切の譲歩を要求するが、同時にドイツは日本が米国から獲得するかもしれないいかなる譲歩も日本に与えないと説明した。宮地氏の叙述のとおりである。岩倉がそのような条項を知らぬと言ったに対してブラントは、日本とオーストリア・ハンガリーとの修好通商条約(明治2年9月14日(1869年10月18日)調印)の、第20条の写しを翌日届けたそうである。次にその条文を示す。
「日本天皇陛下、他国の政府及人民に与え、或は爾後与えんとする総て別段の免許及び便宜は、墺地利及洪牙利政府並に其民族にも、此条約施行の日より免許あるべきを今爰(ここ)に確定せり。」(『条約改正関係・日本外交文書』第一巻)
萩原氏は木戸日記を参照している(170頁)。
「2月18日(陽暦3月26日)雨、終日内居、条約一条を集議せり。此度俄に大久保、伊藤帰朝して条約改正の勅許を乞わんとす。今此挙動反顧いたし候に、余等伊藤或は森(有礼)弁務使等の粗(ほぼ)外国事情に通ぜしに託し、怱卒其言に随い、天皇陛下の勅旨を再三熟慮謹案せざるを悔ゆ。実に余等の一罪也。」(『木戸孝允日記』二、日本史籍協会版)
「木戸が後悔しているのは、年少の伊藤と森にひきずられて、不覚にも使節団の目的変更に同意したことであり、その結果すぐ明らかになったのは、日米双方の立場の相違の大きさであり、交渉を継続した場合『彼の欲するものは尽(ことごと)く与え、我欲するものは未(いまだ)一も得る能わず』という事態を招く恐れである。ここにおいて嘆息すべきものは、開国を思い、人民を顧みるよりも、また『功名の馳せるの弊なきにしもあらず』ともいっているが、ここにいう功名の弊は、伊藤と森についてばかりでなく、使節団と同船で帰国したアメリカの駐日公使デ・ロングと、使節団をワシントンで迎えた国務長官フィッシュについても、同じく言えたことかもしれない。フィッシュとデ・ロングの場合、「功名」を競う相手とは、当然イギリスであり、パークスであろう。」
ちなみに意見の齟齬をきたした彼らの年齢を記す。岩倉47歳、木戸39歳、大久保42歳、伊藤31歳、森26歳。
この萩原氏の著書によって、宮地氏の記述では腑に落ちなかった大久保と伊藤が取りに戻った委任状の役割が、議定書の草案に調印するためのものであったこと、そしてアメリカの逆提案の内容も読者は理解できた。予備交渉のはずが本交渉まがいになったかのような事態は、伊藤と森の英語遣いの二人が大使・副使たちをさしおいて会談を進めたようにもとれるが、ソーントンの報告に徴しても確かな事実は不明である。宮地氏が事の次第を記さなかったのは記録がないからであろう。
木戸は5月25日(陰暦)の記述に「森(有礼)大に旧条約の趣旨を誤り」と記しているが、森が最恵国条項についてブラントやアダムスが指摘するような危険を認めなかったという意味であろうと萩原氏は指摘している。
「7月22日、大使岩倉以下、副使の木戸、大久保、伊藤、山口は、三条太政大臣、参議、外務卿輔にあてて、滞米交渉中止にいたる事情について連名の最終報告を作成したが、そこでくりかえし強調されているのは、最恵国条項の問題である。」「アメリカやイギリスの反対により、その合同会議を海外でひらく見込みがない以上、『我使節一行帰朝の上、我国にて会同条約の挙を起(おこし)候方上策に可有之候』というのが、その結論であった。」「そして片務的最恵国条項の重みをかみしめる如く、つぎのように記している。」として、『条約改正関係・日本外交文書第一巻』よりアメリカからの最終報告書を引用している。
続く引用文は煩雑を避けて省略する。日英修好通商条約を例に取り、その23条(最恵国条項)を説明してある。日英修好通商条約第23条について、米国との条約を改正して新条約がなった場合、英国は旧条約のままで利点だけ獲得することになるとその効果を説明している。日英修好通商条約をふくめて、「安政の諸条約」が片務的であるゆえんは、この点にある。
萩原氏は次のように記してこのくだりを結ぶ。
条約改正交渉の前途に最恵国条項という難題が待ち構えているという認識こそ、使節団が痛切に思い知らされた教訓であった。
二日後の7月24日(陰暦6月19日)、別れの挨拶に来訪した岩倉にたいして、フィッシュもこの点に言及するのを忘れなかった。
「フィッシュ 今般条約改正の義は、素より帰国の御所望に付、此方にても之を引受、談判に取掛候処、其後貴政府の御議論も有之趣にて、遂に半途にして立消いたし候に至る上は、合衆国政府は依然旧条約を固持するの権理は有之義に候。」
「フィッシュ 若し欧州において新条約御取結の上は、合衆国は矢張旧条約を固持し、新条約にて他国へ御差許の箇条は之を占むるの権里有之候。」(216頁)
岩倉使節団がアメリカ側に申し入れた基本的な要求のうち、治外法権の撤廃が明治22年(1889)、関税自主権の獲得が明治44年(1911)と、それぞれ明治の大半をついやして漸く実現の日を迎える。
今回筆者が参照した書物にはあまり書かれていないが、米国代理公使であった森有礼が条約改正問題だけでなく、それ以前からの米国における個人的な行動・思想が大いに関係している。森がキリスト教信者であり、キリスト教解禁要求には立場が難しかったこと、『日本の教育』(英文)、「英語国語論」などの著者・論者であること、秩禄奉還を私有財産を侵す人権問題ととらえて公然と政府方針に反対していたこと、これらすべてを通じて米国政府内に森に好意をいだく者が多かったこと等々が遠因・近因としてあったと思う。ただこういう問題が明示の記録に出ていないので、研究論文の範囲まででしか公にならないのであろうと考える。森有礼は不幸にも暴漢のために横死する結果になったが、暴漢でなくとも彼の周囲には日本人という壁があったと思うし、その壁は今日でも日本人の間にあるのではないか。岩倉使節団の当時も現在も日本人の風景というのは変わっていないように思える。
読んだ本:宮地正人 『幕末維新変革史(上)(下)』岩波現代文庫 2018年
萩原延壽 『岩倉使節団 遠い崖ーーアーネスト・サトウ日記抄 9』朝日新 聞社 2000年