2016年12月26日月曜日

鷗外の漢語

先に岡田英弘氏の著書にしたがって7世紀にいろいろな人々の雑居状態の列島が統一された当時の歴史を勉強した。そしてそこから日本語の歴史を考えてみた。雑居状態であったいろいろな人々の内容は、大陸その他諸方面から流入して住み着いていた人々と、それ以前から地元に住み着いていた人々からなる。けれども時の流れということを考えてみれば「それ以前」にもやはり同じように流入派と地元派がいたわけであるから、二千年、三千年という時間のなかの特定の時期を想定した静的な状態を描くことは難しい。

ただ大まかに言えることは、数の上では常におそらく大陸、それもシナからの人々が多かっただろうと思われる。こういう仮定に立って日本語の成立の歴史を考えると、母胎となった当時の列島で行われていたてんでバラバラの方言から自生的に共通の「ことば」ができてきたのではないか。
このように考えると、かつて日本語系統論がさかんに議論されて結果的に何も分からずじまいに終わって今に至っているが、全く無用の議論であったように思われる。こう言っては学者さんたちに失礼になるかもしれないけれども、日本語は他の言語と関係なく、ぽんと生まれてはいけないのであろうか。親戚筋がなくたって別に困ることはなかろうと思う。

さて、せっかく生まれた日本語も、耳で聞いてわかる「ことば」でしかないというのでは、統一した列島を一定の意思で支配する層には不自由だったであろう。たまたま漢字を持ってシナから来ていた人たちがたくさんいたのが幸いだった。そういうわけで『日本書紀』も『万葉集』もすべて漢字で書かれていた。

ところで、小島憲之氏(1913―1998)という国文学者がおられた。上代の日本語、特に漢語の研究が専門である。生涯に著された数々の著書から想像すると、刻苦精励された作業の膨大さに驚く。氏の学問は、日本上代文学と中国文学との関わりについて、その一語一語の「語性」(語の性格)を見定めることを基礎とされている。その小島氏によれば、「『日本書紀』はその語句その文章などを、初唐の欧陽詢(おうようじゅん)の『(げい)(もん)類聚(るいじゅう)』という文学百科大辞典に負うているところがきわめて多く、帝王の言葉の表現など、そっくりそのままいただいている場面が目につく」そうである。文字どおり、目に一丁字のない大多数の民の中に生まれた「ことば」を文字化した人たちはいわゆる渡来人であったわけだ。日本人の漢語との付き合いはそこからはじまった。

いま読んでいる本に小島憲之著『ことばの重み 鷗外の謎を解く漢語』(講談社学術文庫2011年、原本は1984年)がある。
わたくしは、文字化された「ことば」、特に「漢語」を愛好する。一概に漢語といっても、それぞれのもつ性格、つまり「語性」の複雑さは、日々わたくしを悩ますとともに、他方では楽しませてもくれる。わが国の文学に出現する漢語のひとつひとつが、本来の中国の「書きことば」、すなわち漢語をそのまま受容したものであるかどうか、逆にそれがわが国びとの案出したいわゆる「和製の漢語」ではなかろうか、こうしたことをまずわたくしは考える。しかも和製漢語の場合、どのようにしてその和製が生まれたのか、また見掛けは和製語に見えながら、実は「辞書崇信」を必ずしも肯定しないわたくしにとって、それはあるいは漢語であるかもしれぬ、などと最後まで疑いは拭いきれない。おしなべていえば、和製漢語は、明治期までは漢語にくらべてその数は劣る。やはり漢語自体の追求にもっと重点を置くべきであろう。

あとがきに著者はこのように述べてその学問を紹介している。
このような煩わしい仕事の合間に、それでも数年を費やしたそうであるが、一般読者向けに編んだ本書は鷗外を知るうえで、また言葉を知るうえで楽しくも貴重な作品である。前述した『日本書紀』の生い立ちについてのように、知らないことを教わる楽しみがたくさんある。

語性を見定める手順は、まず辞書にあたり、次に出典を遡って最古の用例を知るのであるが、参照する辞書にもすでに誤りがあり得るし、古い書物には写本の誤りもあるわけで、正誤を見極めるだけにも大変な手間がかかる。氏が使用される辞書は諸橋轍次編『大漢和辞典』と、その「大漢和」が語例の多くを負うている清朝の語彙辞典『(はい)(ぶん)(いん)()』が一例である。これらに載っていることにも誤りがあるそうであるから厄介だ。
本書には、十一の章立てをして、それぞれの章に一つずつ漢語を当てている。第一は「(せき)()」である。鷗外がドイツに留学した際の旅行記『(こう)西(せい)日記』に材料を採っている。「赤野」について鷗外は、何もない野というほどの意味で使ったらしいことが文脈から読み取れる。明治17年9月26日、船がアデンに到着し、風景の描写がある。なかに「満目赤野にして、寸緑を見ず」と「童山赤野 青草なし」とがあり、前者は文の、後者は詩の部分である。原文は漢文。

漢字「赤」には色彩名と何もないことを表す二通りの意味がある。鷗外もそのことを承知でほかにも赤をかぶせた語を使っていること勿論であるが、小島氏は「赤野」にこだわる。その理由は、二、三年来探していても、鷗外が使ったほかに語例がなかったのである。これは漢語なのか、和語なのか、あるいは鷗外の造語かと疑いながら唐代以来の漢詩や明治の書生がよむ小説など博捜しても見つからない。「大漢和」に「赤野」はあるにはあるが、(ぎょく)の産地として中国古代から伝えられている地名であって、鷗外が使う不毛の地の意味ではない。『佩文韻府』には語例がない。六朝時代の漢詩に例があったと喜んだが、それは漢詩特有の「対句」のかたわれで「玄州望むに(きはみ)なく、赤野眺むるに(かぎり)なし」と「玄」(くろ)にたいする「赤」でしかなかったりした。

探索の方向を変えて幕末明治の作品に当たることにして、鷗外が愛読した成島柳北、殊に手本にした『航西日乗』、福沢諭吉『西航記』、渋沢栄一『航西日記』など、いずれも航路は鷗外の時代と変わらずアデンに寄港している。柳北はスエズ運河沿いの風景に「両岸赤地渺茫トシテ寸草を見ズ」などとあり、漢語の「赤地」を使っている。いずれにしろその他多くの文章にあたっても「赤野」は見当たらない。鷗外の二年前にアデンを通過した板垣退助の日記には「岸上皆ナ(たん)ナリ」として「赤野」ではなかった。遂に探し当てたのはやはり鷗外の参照した文献の中にあった。久米邦武の『米欧回覧実記』明治十一年刊行がそれである。この岩倉使節団の世界一周旅行はアメリカを振り出しにしたためスエズ通過は鷗外の船とは逆方向からスエズに入る。アデンの項には「極目ミナ赭山赤野ニテ」とあり、ほかにも「赤野黄挨」とか「東岸ハ赤野ニテ」など多くの例が見られた。
こうして鷗外の「赤野」は『米欧回覧実記』の文章から借りて使ったものとしれた。しかし、この発見以後もほかに用例が見当たらないことから、小島氏は「赤野」について久米邦武の造語と見てよかろうとしている。

副産物がある。鷗外の『航西日記』は漢文体で書かれているが、これを読み下し文にしたとき、その各寄港地の風景描写がなんと『米欧回覧実記』に似ていることか。鴎外がこれを下敷きにして書いたことがありありとわかる。すでに名作の評判高い名士の名作が剽窃であったとあれば、いかにも不穏な事態になるが、小島氏によればそういう心配はいらないという。

『航西日記』は大きな部分で『米欧回覧実記』によっていることは明白である。ほかに成島柳北の『航西日乗』の表現の文体を参考にしている点、清国の人、()(しん)(ぽう)の撰になる広東地方の地誌(れい)(なん)雑記』からの引用が随所に見られる。それぞれ引用箇所に断りをつけるのが現代の仕様であるが、こういう創作上の態度は典古、つまり伝統を重んじる中国は勿論のこと、それを承けたわが国でも明治の頃まではまず許された文学上の作法であった。古来、歌の場合には「本歌取り」は表現技巧として鮮やかであれば褒められるべき対象であったし、散文も例外ではない。したがって鷗外のこの場合も目くじら立てるようなことではないだろうというわけである。

とはいうものの、鷗外自身は自分の創作態度における独創性をどのように考えていたのだろうと疑念を呈するあたりがこの著者の面白いところだ。そして小説『舞姫』のはじめのあたりに鷗外の投影である主人公の太田青年が、かつて書いた紀行文を「心ある人はいかにか見けむ」と独白するくだりに注目する。

明治17年の紀行をものした『航西日記』が世間にでたのは数年後の明治22年4月、雑誌『衛生新誌』に分載された。この間にもとの日記に手を加え表現を手直しして練り上げる時間は十分にあったと考えられる。そして発表後は非常に高い評判を得たのである。それだけに『米欧回覧実記』から多くを採り入れ、柳北の『航西日乗』に範を求めた結果の評判が高まるにつれ少しは気に病んだかもしれない。そして、その忸怩たる心情を大田青年の口をかりて、そっと埋め込んだのではないか。『航西日記』の著者名は鷗外ではなく森林太郎だったこと、掲載誌が特殊な医学雑誌であったことを考えれば、特定の範囲内の読者へのサインだったのかもしれない、と著者は勘ぐるのである。

「赤野」というたった一語の追及が『航西日記』全体の表現を見直す糸口となり、さらには『舞姫』を書いた鷗外の心情をも推し量ることに至った。そのまったくの思いがけなさに著者は驚くのであるが、同時に、一語の荷なうものの重みをしみじみと感じることになったと述懐している。
「赤野」の章はこのように単に一つの漢語について語るだけでなく、広く明治の文章について教わることの多い読み物に仕立てられている。

私は漢文で書かれているという『航西日記』の原文に触れてみたくなって、岩波書店の『海外見聞集 新日本古典文学大系 明治編 5』(2009年)というのを借り出してきた。わが渇望の漢文体の原文は、見てみたいというだけの願いであって、もとより読めるわけはないが、この書物には漢字かな交じりの読み下し文がまずあって、頁の下部に細かい脚注が細字で載せてあるのはまことに親切でうれしい。それにしても30ページを費やした読み下し文が漢字だけの原文になると三分の一の分量になることにも改めて感心した。英語を日本文にすると長くなるというのは常識だが、漢字の威力にも今更ながら驚いた。やたらと漢字を開いた文は読む人にやさしいとは思うが、適切に漢字を交える文のほうが引き締まってよろしいと思う。
この「海外見聞集」には、栗本鋤雲「暁窓追録」、久米邦武編「米欧回覧実記(抄)」、成島柳北「航西日乗」、中井桜洲「漫遊記程 下(抄)」、森鷗外「航西日記」 「航西日記 原文」、森田思軒「訪事日録」が収録されている。今回に関連する紀行文が並んでいて便利である。
本書の残りの章の題は、「望断」「繁華」「青一髪」「易北(エルベ)」「妃嬪」「涙門」「葫蘆(ころ)」「(うすつ)」「暗愁」今夕こんせき」とある。それぞれに興味深い逸話が含まれている。

最後の今夕いまではコンユウ読まれることが圧倒的である。たとえ新聞紙上に今夕と文字があっても記者たちはコンユウと読んでいる。著者も新聞用語辞典類から「こんせき」に痕跡しかなく、NHK用字用語辞典』にはコンユウと読みを与えていると述べている。コンセキは今夕の漢語的表現と手許の「新明解」にあったから死語一歩手前といったところか。著者は明治の人の詩嚢の偉大さを懐かしんでいる。

(2016/12)

2016年12月10日土曜日

『第三の男』とアントン・カラス

どこやらの観覧車のゴンドラが燃えたというニュースがあった。幸いそのゴンドラには客がいなかったから、電気配線の不具合が事故の原因だったらしいというだけで終わった。起こるべき事故が起きたとまでは言わないが、観覧車は乗る気になれない。ただ怖いのだ。あんなに高いところまで連れて行かれて、何かあったらどうするのだと思うから怖いのだ。皆さんは高いところは眺めが良くて気持ちが良いと思うのだろうが、そういう気にはなれない。

ウイキペディアから拝借した

ウィーンに行ったのは、たしか2006年。もう10年も経ってしまった。引っ越しのゴタゴタが済んでホッと一息ついたとき、発作的に手近にあった旅行社の広告「魅惑の東欧四カ国周遊」を見て参加を申し込んだ。生まれてはじめてのあなた任せの海外旅行なので、下調べも何もなしだった。いま、ウェブでウィーン市当局のサイトを見ると、プラーターには市のシンボルの大観覧車があって、これに乗って初めて「ウィーンに来たと言えるのです」とか、映画史上の名作『第三の男』の主役だ、とか書いてある。しかし、そんな宣伝も見ることもせずに出かけた。で、ツァーについてウィーンへも行ったが観覧車はコースに含まれていなかったし、グループの誰一人話題にもしなかった。考えてみれば、その時のメンバーは歳でいえば一周り下ぐらいらしかった。映画『第三の男』(1948)が日本で封切られたのは1952(昭和27)年だ。旅行した10年前の時点からしても古すぎる話だったということか。
とにかく、そんなことでウィーンまで行っていながら観覧車のことは思い出せなかった。大好きな映画のことなのに、あたらチャンスを逸してしまって、とうとう実物は見ずじまいだ。

あの映画には名場面といえるシーンがいくつもあるが、観覧車の場面がハイライトだ。映画が始まって1時間あまりも経ってから、ようやく姿を現したお尋ね者のハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)が昔の親友ホリー・マーティン(ジョセフ・コットン)と観覧車のなかで話し合う。ペニシリンの横流しという人命に関わる闇商売から足を洗う気などないハリーはホリーに対して一瞬殺意を抱く。下を見ろと言いながらハリーはゴンドラの扉を開ける。ホリーも身の危険を察して簡単には落とされまいと身構える。ハリーは銃があると明かす。墜落死では傷を調べたりしないと。秘密はもうバレてるとの話でハリーは真顔になる。殺意が消える。観客はホッとする。表情の演技だ。観覧車の怖さに物語のスリルが重なる。
  

やがて何事もなく地上に戻り、笑顔に戻ったハリーはあの有名なセリフを吐く。「~民主主義の500年でスイスは何をした。ハト時計さ!」。


このハト時計の話はオーソン・ウェルズが考えたセリフだそうだが、ちがいますとスイス政府からクレームが付いたという。ご丁寧にスイス政府からウェルズ宛に手紙が来て、ハト時計の生産地はドイツですとあったそうな。川本三郎氏が何処かに書いてあったように思う。


72年初めにハンブルグへ行ったとき、空港でおもちゃのようなハト時計がたくさん売られていたので一つ買ってみた。ついでに後学のため免税手続きをして還付証明のようなものを貰った。後日、日本の銀行に提出したら銀行側の手数料などのほうが嵩むため支払えないと言われておじゃんになった。税額が小さすぎたというお笑い。いま思い出そうとしても、なぜドイツの空港で現金をもらわなかったのかわからない。

映画の話に戻ろう。「第三の男」が名作と言われたのには音楽の支えが大きい。映画に音楽はつきものだけれども、あの映画にはチターが奏でる音楽がついたために人々の心を揺さぶったのは間違いない。

撮影の準備にウィーンに滞在していた映画監督キャロル・リードはホイリゲで初めてチターに出逢い、その不思議な音色にとらえられた。爆撃で破壊され荒廃した街の闇市の背後から聞こえるウィーン人の心の声のようなものをその音色に感じて、この映画の音楽にはこれしかないと決めたらしい。だからこの映画の音楽は、その時ホイリゲで弾いていたアントン・カラスただ一人に任されることになった。

映画のはじめクレジットのあと、画面はウィーンの街の紹介に移る。「ハリー・ライムのテーマ」をバックに爆撃の瓦礫の向こうにすがたを現す大観覧車は、1897年から動いていたが、戦時中の1944年火災に遇ったそうだ。復活したのが1947年だったというからこの映画のロケーションで画面に登場することが出来たのだ。よかったなぁー。映画でのゴンドラは殺風景なただの箱という感じだが、いまでは豪華な飾り付けで結婚式やディナー会食もできるそうナ。

ところで、この映画に見るウィーンの街は瓦礫の山、道路だけは通行できるようにしたという感じの、これでも都市である。そんな空間にうごめく人々は闇市の商人たちであったりして、往年の帝都のかけらもない。物語に必要な風景だけが提示されるだけである。だから何もウィーンでなくてもよかっただろうが、プロデューサーのひとり、アレクサンダー・コルダが舞台をウィーンに選んだという。彼はハンガリー人だ、若き日に革命の動乱からウイーンに逃れていたことがある。

『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』という本がある。著者、軍司貞則氏は1948年生まれのノンフィクション作家である。ウィーン大学在学中の1977年頃、地元の人々にアントン・カラスの話題を振ってみると反応が悪い。映画『第三の男』は一応知られていてもカラスは知らないというより無関心なのだ。何かありそうだと感じて調べて書き上げたのがこの本、つまり、リポートだ。単行本出版は1982年。

この本の特色はアントン・カラスの評伝ではあるが、調査の間に副産物のようにして著者の知識が増えてゆく中に、民族や民俗と音楽、人種と差別と職業、多民族国家、社会構成などが記述されている。カラスという人間にこれらの問題が集約されているとも言える。栄光と悲哀という言葉がよく当てはまる感じだ。

公開前の第3回カンヌ映画祭でグランプリをとって西側諸国で大ヒットした映画もウィーンではけなされた。あそこに描かれたのは自分たちのウィーンではないと。182館あった映画館のうち上映したのは一館だけだったそうだし、その観客たちは助演した彼らの名優たち、クルツ男爵やアパートの管理人に扮した彼らを懐かしむために見に出かけたのだそうだ。オーソン・ウエルズやチターが目的ではない。

600万枚ものレコードを売り上げ、ローマ法王ピウス12世の前で演奏し、英国やオランダの王室に呼ばれ賞賛されたアントン・カラスについては、ただのホイリゲのチター弾きが…という感覚で、本人の意図しない成り上がりが、周囲の妬みや嫉みを生み、除け者にした。それにしても、ウィーンで出版された音楽関係の名簿、年鑑などに名前も出ていないという著者の報告には驚き入る。これほどにまで名前が抹殺された理由は何なのか。

寄宿している大家との雑談がヒントになった。「彼はホイリゲの芸人にすぎない、酒に酔った客を相手にチターを弾く。『第三の男』の音楽もそこから生まれたものだ」。

ロンドンの「ブリティッシュ・フィルム・インスチチュート」で『第三の男』を繰り返し見ながら音楽を聴いた。あるシーンのメロディが気になった。ハリーをおびき出す場面の風船売りが出てくるところ。ゆるやかなワルツに変調する直前の短いメロディ。

軍司氏はいい勘をしていた。ここに秘密が潜んでいたのだ。専門家に聴いてもらうとチゴイネルだといった。チゴイネルはドイツ語でジプシー(ロマ)を指す言葉だ。内田百閒『サラサーテの盤』の楽曲「チゴイネルワイゼン」の意味は「ジプシーの旋律」だ。

チャルダッシュだとも言われた。こちらはブラームスほかのハンガリアン舞曲などで知られている。西洋音楽にはない音階が使われる。こんな音楽の理屈を並べなくても、あの部分のメロディには感じるものがある。

チターは東方に起源のある民族楽器である。近世にはウィーン、チロル地方で盛んに用いられた。オーストリアではフランツ・ヨーゼフ皇帝の頃は宮廷でも演奏されていた。ピアノやオルガンが普及してくると、この複雑な、演奏技術の難しい楽器は敬遠され、上流階級から次第に東欧諸国の下層社会の楽器となっていった。

カラスは貧しい家庭に育ちながらも音楽学院に通いピアノの腕を磨き教会音楽長を目指した。学費は私的に学んだチターを弾いて稼いでいた。正規に学科として音楽を学んだ職業的チター弾きはいなかったから、カラスは演奏に工夫してありきたりのチター弾きでは出来ない芸で人気を得た。家庭をもつときに、音楽の道は上流社会のものと割り切って諦め、チターを弾いて地道に暮らすことにした。あらゆる客のリクエストに応えられるようにレパートリーもクラシックから民謡まで幅広くこなせるよう努力した。
彼は生真面目な人なのだ。この技術と知識がのちに生かされてキャロル・リードと協同で作曲できた基盤になった。

伝承されてきた曲には様々な地方の音が混じり合っている。カラスは『第三の男』の映画音楽を作るにあたって、何百とある持ち歌をウチに秘めて、リードがシーンごとに出す指示に従ってふさわしい楽曲を作曲した。そこにチゴイネルの楽音が混じっていることはカラスの出自が関係している可能性が高いと軍司氏は考えた。

カラスという姓はハンガリー人のもの、しかしハンガリー系にはチェコ系も混じるという。オーストリア人はゲルマンだ。ウィーン人にはゲルマン系と非ゲルマン系がある。
知的職業や社会的地位を得ていない非ゲルマン系は暗黙のうちに貶められている。
家系を調べた。父親と兄は自動車工場にいる。金属細工師と呼ばれる範疇に入る職業である。これは典型的なジプシーの職業だ。

これだけわかれば、問題を起こせばつまはじきされ、社会常識的には無視される理由がわかる。どんなに高い地位についても、どんな富豪になろうとも、どこかでだれかが、あれはユダヤ人だとヒソヒソいうのと同じである。

軍司氏がいろいろ知ったあと直接的に出自には触れなくても、カラスはいつも、私はウィーンで生まれた。ウィーンが好きなのだ、と強調した。
そのウィーンでは誰もが冷たかったのに、キャロル・リードだけはいつも親切だった。ブームが終わったあとのカラスの生計の道を案じて著作権を取ってくれたりもした。リードは1976年に70歳で亡くなった。カラスも同い年だ。ペンペツィーネ夫人の要請で、5月3日の葬儀でカラスは弾いた、「ハリー・ライムのテーマ」を。

軍司氏が調べたようなことは私の関心事でもあるので、ついつい、ネタバレ式に書いてしまった。一般的な資料としても役に立つ本だ。あんなに名作だ、と騒がれた映画も、その音楽も、騒いでいたのはいわゆる西側の国々だけだったらしいと知って、目が覚めたような気になった。
戦後間もない時期の東京を思い出そう。浮浪者と闇市、大森海岸の米軍慰安所から生まれたキャバレー、米軍物資を扱うブローカーの成金など、外資が来てこんな題材から映画がつくられたらどうだったろうか。荒廃した光景だけが切り取られて世界に売り出される。舞台に使われた街の住民は面白くないだろう。『第三の男』はこんな映画だったのだ。
ウィーン観光ガイドのサイトより

アントン・カラスは、1985年に亡くなっている。ウィキペディアには軍司氏の著書が世に出た翌年、西村晃主演でラジオドラマ化されたとある。1983年のことになるが、そのころラジオは聞かないから知らなかった。
ウィーン観光の公認ガイドのサイトには古楽器博物館にカラスのチターが展示されているとあった。音楽「第三の男」はいまでもホイリゲでよく演奏されているとあったが、軍司氏の調べた当時と事情が変わったのであろうか。記事には2014914日とあった。カラスのチターの写真をサイトから借りた。ガラスケースに入れられているようだ。


参照図書:『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』軍司貞則著 文春文庫1995(2016/12)