2016年12月10日土曜日

『第三の男』とアントン・カラス

どこやらの観覧車のゴンドラが燃えたというニュースがあった。幸いそのゴンドラには客がいなかったから、電気配線の不具合が事故の原因だったらしいというだけで終わった。起こるべき事故が起きたとまでは言わないが、観覧車は乗る気になれない。ただ怖いのだ。あんなに高いところまで連れて行かれて、何かあったらどうするのだと思うから怖いのだ。皆さんは高いところは眺めが良くて気持ちが良いと思うのだろうが、そういう気にはなれない。

ウイキペディアから拝借した

ウィーンに行ったのは、たしか2006年。もう10年も経ってしまった。引っ越しのゴタゴタが済んでホッと一息ついたとき、発作的に手近にあった旅行社の広告「魅惑の東欧四カ国周遊」を見て参加を申し込んだ。生まれてはじめてのあなた任せの海外旅行なので、下調べも何もなしだった。いま、ウェブでウィーン市当局のサイトを見ると、プラーターには市のシンボルの大観覧車があって、これに乗って初めて「ウィーンに来たと言えるのです」とか、映画史上の名作『第三の男』の主役だ、とか書いてある。しかし、そんな宣伝も見ることもせずに出かけた。で、ツァーについてウィーンへも行ったが観覧車はコースに含まれていなかったし、グループの誰一人話題にもしなかった。考えてみれば、その時のメンバーは歳でいえば一周り下ぐらいらしかった。映画『第三の男』(1948)が日本で封切られたのは1952(昭和27)年だ。旅行した10年前の時点からしても古すぎる話だったということか。
とにかく、そんなことでウィーンまで行っていながら観覧車のことは思い出せなかった。大好きな映画のことなのに、あたらチャンスを逸してしまって、とうとう実物は見ずじまいだ。

あの映画には名場面といえるシーンがいくつもあるが、観覧車の場面がハイライトだ。映画が始まって1時間あまりも経ってから、ようやく姿を現したお尋ね者のハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)が昔の親友ホリー・マーティン(ジョセフ・コットン)と観覧車のなかで話し合う。ペニシリンの横流しという人命に関わる闇商売から足を洗う気などないハリーはホリーに対して一瞬殺意を抱く。下を見ろと言いながらハリーはゴンドラの扉を開ける。ホリーも身の危険を察して簡単には落とされまいと身構える。ハリーは銃があると明かす。墜落死では傷を調べたりしないと。秘密はもうバレてるとの話でハリーは真顔になる。殺意が消える。観客はホッとする。表情の演技だ。観覧車の怖さに物語のスリルが重なる。
  

やがて何事もなく地上に戻り、笑顔に戻ったハリーはあの有名なセリフを吐く。「~民主主義の500年でスイスは何をした。ハト時計さ!」。


このハト時計の話はオーソン・ウェルズが考えたセリフだそうだが、ちがいますとスイス政府からクレームが付いたという。ご丁寧にスイス政府からウェルズ宛に手紙が来て、ハト時計の生産地はドイツですとあったそうな。川本三郎氏が何処かに書いてあったように思う。


72年初めにハンブルグへ行ったとき、空港でおもちゃのようなハト時計がたくさん売られていたので一つ買ってみた。ついでに後学のため免税手続きをして還付証明のようなものを貰った。後日、日本の銀行に提出したら銀行側の手数料などのほうが嵩むため支払えないと言われておじゃんになった。税額が小さすぎたというお笑い。いま思い出そうとしても、なぜドイツの空港で現金をもらわなかったのかわからない。

映画の話に戻ろう。「第三の男」が名作と言われたのには音楽の支えが大きい。映画に音楽はつきものだけれども、あの映画にはチターが奏でる音楽がついたために人々の心を揺さぶったのは間違いない。

撮影の準備にウィーンに滞在していた映画監督キャロル・リードはホイリゲで初めてチターに出逢い、その不思議な音色にとらえられた。爆撃で破壊され荒廃した街の闇市の背後から聞こえるウィーン人の心の声のようなものをその音色に感じて、この映画の音楽にはこれしかないと決めたらしい。だからこの映画の音楽は、その時ホイリゲで弾いていたアントン・カラスただ一人に任されることになった。

映画のはじめクレジットのあと、画面はウィーンの街の紹介に移る。「ハリー・ライムのテーマ」をバックに爆撃の瓦礫の向こうにすがたを現す大観覧車は、1897年から動いていたが、戦時中の1944年火災に遇ったそうだ。復活したのが1947年だったというからこの映画のロケーションで画面に登場することが出来たのだ。よかったなぁー。映画でのゴンドラは殺風景なただの箱という感じだが、いまでは豪華な飾り付けで結婚式やディナー会食もできるそうナ。

ところで、この映画に見るウィーンの街は瓦礫の山、道路だけは通行できるようにしたという感じの、これでも都市である。そんな空間にうごめく人々は闇市の商人たちであったりして、往年の帝都のかけらもない。物語に必要な風景だけが提示されるだけである。だから何もウィーンでなくてもよかっただろうが、プロデューサーのひとり、アレクサンダー・コルダが舞台をウィーンに選んだという。彼はハンガリー人だ、若き日に革命の動乱からウイーンに逃れていたことがある。

『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』という本がある。著者、軍司貞則氏は1948年生まれのノンフィクション作家である。ウィーン大学在学中の1977年頃、地元の人々にアントン・カラスの話題を振ってみると反応が悪い。映画『第三の男』は一応知られていてもカラスは知らないというより無関心なのだ。何かありそうだと感じて調べて書き上げたのがこの本、つまり、リポートだ。単行本出版は1982年。

この本の特色はアントン・カラスの評伝ではあるが、調査の間に副産物のようにして著者の知識が増えてゆく中に、民族や民俗と音楽、人種と差別と職業、多民族国家、社会構成などが記述されている。カラスという人間にこれらの問題が集約されているとも言える。栄光と悲哀という言葉がよく当てはまる感じだ。

公開前の第3回カンヌ映画祭でグランプリをとって西側諸国で大ヒットした映画もウィーンではけなされた。あそこに描かれたのは自分たちのウィーンではないと。182館あった映画館のうち上映したのは一館だけだったそうだし、その観客たちは助演した彼らの名優たち、クルツ男爵やアパートの管理人に扮した彼らを懐かしむために見に出かけたのだそうだ。オーソン・ウエルズやチターが目的ではない。

600万枚ものレコードを売り上げ、ローマ法王ピウス12世の前で演奏し、英国やオランダの王室に呼ばれ賞賛されたアントン・カラスについては、ただのホイリゲのチター弾きが…という感覚で、本人の意図しない成り上がりが、周囲の妬みや嫉みを生み、除け者にした。それにしても、ウィーンで出版された音楽関係の名簿、年鑑などに名前も出ていないという著者の報告には驚き入る。これほどにまで名前が抹殺された理由は何なのか。

寄宿している大家との雑談がヒントになった。「彼はホイリゲの芸人にすぎない、酒に酔った客を相手にチターを弾く。『第三の男』の音楽もそこから生まれたものだ」。

ロンドンの「ブリティッシュ・フィルム・インスチチュート」で『第三の男』を繰り返し見ながら音楽を聴いた。あるシーンのメロディが気になった。ハリーをおびき出す場面の風船売りが出てくるところ。ゆるやかなワルツに変調する直前の短いメロディ。

軍司氏はいい勘をしていた。ここに秘密が潜んでいたのだ。専門家に聴いてもらうとチゴイネルだといった。チゴイネルはドイツ語でジプシー(ロマ)を指す言葉だ。内田百閒『サラサーテの盤』の楽曲「チゴイネルワイゼン」の意味は「ジプシーの旋律」だ。

チャルダッシュだとも言われた。こちらはブラームスほかのハンガリアン舞曲などで知られている。西洋音楽にはない音階が使われる。こんな音楽の理屈を並べなくても、あの部分のメロディには感じるものがある。

チターは東方に起源のある民族楽器である。近世にはウィーン、チロル地方で盛んに用いられた。オーストリアではフランツ・ヨーゼフ皇帝の頃は宮廷でも演奏されていた。ピアノやオルガンが普及してくると、この複雑な、演奏技術の難しい楽器は敬遠され、上流階級から次第に東欧諸国の下層社会の楽器となっていった。

カラスは貧しい家庭に育ちながらも音楽学院に通いピアノの腕を磨き教会音楽長を目指した。学費は私的に学んだチターを弾いて稼いでいた。正規に学科として音楽を学んだ職業的チター弾きはいなかったから、カラスは演奏に工夫してありきたりのチター弾きでは出来ない芸で人気を得た。家庭をもつときに、音楽の道は上流社会のものと割り切って諦め、チターを弾いて地道に暮らすことにした。あらゆる客のリクエストに応えられるようにレパートリーもクラシックから民謡まで幅広くこなせるよう努力した。
彼は生真面目な人なのだ。この技術と知識がのちに生かされてキャロル・リードと協同で作曲できた基盤になった。

伝承されてきた曲には様々な地方の音が混じり合っている。カラスは『第三の男』の映画音楽を作るにあたって、何百とある持ち歌をウチに秘めて、リードがシーンごとに出す指示に従ってふさわしい楽曲を作曲した。そこにチゴイネルの楽音が混じっていることはカラスの出自が関係している可能性が高いと軍司氏は考えた。

カラスという姓はハンガリー人のもの、しかしハンガリー系にはチェコ系も混じるという。オーストリア人はゲルマンだ。ウィーン人にはゲルマン系と非ゲルマン系がある。
知的職業や社会的地位を得ていない非ゲルマン系は暗黙のうちに貶められている。
家系を調べた。父親と兄は自動車工場にいる。金属細工師と呼ばれる範疇に入る職業である。これは典型的なジプシーの職業だ。

これだけわかれば、問題を起こせばつまはじきされ、社会常識的には無視される理由がわかる。どんなに高い地位についても、どんな富豪になろうとも、どこかでだれかが、あれはユダヤ人だとヒソヒソいうのと同じである。

軍司氏がいろいろ知ったあと直接的に出自には触れなくても、カラスはいつも、私はウィーンで生まれた。ウィーンが好きなのだ、と強調した。
そのウィーンでは誰もが冷たかったのに、キャロル・リードだけはいつも親切だった。ブームが終わったあとのカラスの生計の道を案じて著作権を取ってくれたりもした。リードは1976年に70歳で亡くなった。カラスも同い年だ。ペンペツィーネ夫人の要請で、5月3日の葬儀でカラスは弾いた、「ハリー・ライムのテーマ」を。

軍司氏が調べたようなことは私の関心事でもあるので、ついつい、ネタバレ式に書いてしまった。一般的な資料としても役に立つ本だ。あんなに名作だ、と騒がれた映画も、その音楽も、騒いでいたのはいわゆる西側の国々だけだったらしいと知って、目が覚めたような気になった。
戦後間もない時期の東京を思い出そう。浮浪者と闇市、大森海岸の米軍慰安所から生まれたキャバレー、米軍物資を扱うブローカーの成金など、外資が来てこんな題材から映画がつくられたらどうだったろうか。荒廃した光景だけが切り取られて世界に売り出される。舞台に使われた街の住民は面白くないだろう。『第三の男』はこんな映画だったのだ。
ウィーン観光ガイドのサイトより

アントン・カラスは、1985年に亡くなっている。ウィキペディアには軍司氏の著書が世に出た翌年、西村晃主演でラジオドラマ化されたとある。1983年のことになるが、そのころラジオは聞かないから知らなかった。
ウィーン観光の公認ガイドのサイトには古楽器博物館にカラスのチターが展示されているとあった。音楽「第三の男」はいまでもホイリゲでよく演奏されているとあったが、軍司氏の調べた当時と事情が変わったのであろうか。記事には2014914日とあった。カラスのチターの写真をサイトから借りた。ガラスケースに入れられているようだ。


参照図書:『滅びのチター師 「第三の男」とアントン・カラス』軍司貞則著 文春文庫1995(2016/12)