2017年5月25日木曜日

雑感 久しぶりの司馬遼太郎さん――『「昭和」という国家』

司馬遼太郎『「昭和」という国家』を読んだ。随分前に一度読んだはずであるが全く覚えていない。覚えてはいないが、読んだ経験として何かが形のない記憶として脳に残っていたのだろうと思う。読むに従って出てくる内容がすべて初めてではないのだ。この本は放送された談話の文章化である。NHKが1986年から87年にかけて計12回ETV8で放映した。放送の形は司馬さんのひとり語りで台本はない。司馬さんは全くの手ぶらだったという。タイトルに「雑談」と付け加えることで多少のんびりした風合いを出すつもりの司馬さんであったが、苦衷に満ちた話しぶりが多かったらしい。昭和への司馬さんの思いの表れのようだったと制作の栗田博行氏は書いている。

放送のタイトルは「昭和への道」であった。日本には魔法にかかったようにおかしな時間があった。それが昭和初年から20年までの期間だった。軍部に占領されていた期間だった。それを「『昭和』という国家」と呼んだのだと思う。国の中に国があったわけだ。明治憲法に付け入られる隙があった。明治憲法を作った人たちは知っていたから上手に憲法を運営した。しかし、賢かった明治人達がいなくなると、悪賢い連中が現れてきたのだ。天皇と統帥権をうまく使った。憲法による国の上に統帥による国ができたという具合だった。統帥権はもうないから、もう二度と現れまいと司馬さんはいう。だけど、教育勅語を物欲しげにみる人たちがこのごろ増えている。明治のはじめの民権論を少し考えると良いかもしれない。押し付け憲法だと言われるが、現行の憲法の材料は鈴木安蔵という憲法学者と憲法研究会が昭和20年12月につくった。それをGHQが骨子にしたのだった。そのもとは植木枝盛にある。このたび司馬さんの本を読みながら調べているうちに知った。我孫子の白樺文学館の館長さん、武田康弘氏のブログで教えてもらった。

ところで、この本には教育勅語は明治の立憲国家の圧搾空気だったと書いてある。明治憲法はきちんとした立憲憲法ではあるが、自由民権運動があまりにも盛んになると困るという事情のもとでつくられた。政府に少し不安もあったからバランスをとろうとした。そこで教育勅語がもってこられた。教育勅語は明治天皇の教育係の元田永孚(もとだながざね)が原稿を書いたが、この人は朱子学の人だった。だから、また儒教に戻るのは少しおかしいのでないかと伊藤博文は首をかしげた。しかし、ほかに知恵がなかった。
近代国家を成立させるには、家を建てる時の基礎工事のようなものが要る、それは精神ともイデオロギーとも違う何かだ、圧搾空気のようなものだと司馬さんはいう。その圧搾空気がどういう作用をするのか教えてくれないから、わたしにはその圧搾空気というものがわからない。
徳目にしたがう儒教の教えと、個人の権利・自由をうたう下からの力とは方向が違う。だから司馬さんがいうのは、上下それぞれの力に挟まれたクッションのようなものか。

私は司馬さんの小説の良い読者ではない。初めて読んだのは『梟の城』、あとは『国盗り物語』、『関ヶ原』ぐらいか。それも作者を意識してのことではなく、作品中身に惹かれてのことだったろうと思い出す。『坂の上の雲』はブームがひと通り過ぎてからだが、はじめの方だけで、終わりまでの長さに嫌気がさして読むのをやめた。小説よりもエッセイの方を好む。半藤さんと一緒に昭和期の話をしだした頃の座談などはよく読んだ。だからノモンハン事件が出てくると、あ、またか、という気分にもなる。この本も司馬さんが自分の国に疑問をいだいた契機としてノモンハン事件がはじめに挙げられている。それほど腹に据えかねているということだ。ノモンハンは事件と呼ばれるが実は戦争だ。結末は大敗北だからどこかに隠されてしまった。
4年後には司馬さんも同じ戦車連隊に入れられた。当時と同じ型の戦車に乗せられた。装甲も戦車砲の性能も弱かった。技術力と兵の生命軽視のせいだ。本土決戦に使うというので部隊は満州から栃木県の佐野に引き揚げてきた。九十九里海岸に米軍が上陸するするのを迎え撃つ想定だった。都会地から農村地方に逃げてくる群衆と逆方向に進む計画だから、交通整理をどうするのか上官に問うたことがある。「轢き殺してゆけ!」が答えだったという。司馬さんはこういう命令には従わないでおこうと決めた。この本には出てこないが、ほかではよく語っている。

ノモンハンの2年後に大東亜戦争を始めた。石油がいのちの近代戦で日本には石油がない。石油がなくなれば戦えないし、軍隊は無用の長物になる。そうなる前にイチかパチかでやるしかなかろう。やってダメならそれまでよ。これは司馬さんの言葉ではない。私が彼らの気分を翻訳したものだ。そして結果は破滅だった。中学1年のわたしは日本は滅びたと作文に書いた。しばらく後には国に騙されていたとわかった。それ以後わたしは官製のすべてを疑うようになった。そのことは正しく、いまもそれで間違いないと思う。
日本軍の戦力を考える場合には、特殊要素が加わっていた。いわゆる陸軍の夜郎自大な性格と思考、参謀本部と関東軍の確執による作戦の齟齬、負け戦を認めない体質と隠蔽、第一次大戦の実践不参加による兵器性能への無知、情報力への無関心、精神論優位など非合理的な問題が数多い。この本でもこれらは各回に主題を変えて登場する。これまで見たり聞いたりしているから、今更司馬さんに教わらなくても知っていることのほうが多い。それでも面白いのは司馬さんの語り口と中身に共感するからだろう。久しぶりで読み返してみたものの、格別書いておくほどのことが思いつかない。亡くなって20年を越した。司馬さんにはお目にかかったことはないが、少し気難しいところのある方のように思う。でも書かれたものを通しての感じはこころよく、近くにおられるような気になる。図書館では貸出中が多い。どんな人が読んでいるのだろうか。
司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版1998年

追記:忘れていた。去年8月に『ひとびとの跫音』を読んだ。いい話だった。 (2017/5)

2017年5月17日水曜日

ドナルド・キーン『百代の過客(続)』講談社学術文庫 2012年

もとの単行本は朝日選書(1988年)の上下巻、これを合本にしたのだから文庫本といっても分厚いのだ。物好きに厚みを測ってみたら3.4cmあった。この中に幕末明治のおおよそ70年ほどの月日が入っている。1984年刊行の前編には円仁に始まって芭蕉に至る千年ほどの時期が入っているが、こちらの合本はまだ読んでいないが2.8mmだ。近代になると日記の数が増えているし、ひとつあたりの日記の分量が格段に増えていることもあって、とても現代までカバーできるどころではなくなったという。数ある中から著書に入れる日記を選ぶにはすべてを読むことになると思うが、こんな気の遠くなるような仕事を良くも続けられたと感心する。日本兵捕虜に対する通訳訓練に始まった米軍の日本語教育が、本人の才能を開き、漢文まで読みこなせるアメリカ人を作り上げた。驚くべしだ。そのうえでこの著者は日記の中に日本人を発見しようとの文学的目的を設定した。そのためには書いた人の心を読み取るのだという。
日記、年の暮れ、三日坊主という三題噺は、大抵の日本人はすぐ理解できる。日本人は日記をつけるのが好きなそうだが、実態はキーンさんによると、月日と天気の羅列が圧倒的なのだそうだ。それでも何かめぼしい記事が見つかるかもしれないと期待して果てしもなく読み続けるのは執念でしかないだろう。苦心してキーンさんが選んでくれた日記は、それぞれに興味深い。
徳富蘆花の日記は四千頁もある。一般には死んだら捨ててくれと言い遺す人が多いらしいが、蘆花(1868-1927)はまだ38歳のときにそれまでの日記を捨てた。「精神革命」のためであったという。筆者は蘆花についてよく知らない。現存する彼の日記は大正3(1914)年から5年間の記事に過ぎないがそれでもこの頁数だ。大逆事件の判決に憤激して天皇に宛てた公開直訴状を送ったことや「謀叛論」を講演したことなどは明治441911)年、つまり日記のない期間のことだったからどこにも書いていない。
では、一体何が書かれていたのか。すべて個人的な体験だけであり、社会的、国際的の事件や話題は無し。将来書く小説の素材と考えられるものを書いていたのだろうとキーンさんは想像している。
兄蘇峰との仲違いが決定的になり、子供のない夫妻が同居させてかわいがっていた9歳になる蘇峰の娘鶴子を「絶縁の宣告」として送り返したその日、蘇峰宅から父危篤の報が入る。すぐ来いとの二度の催促に、行けば和解のしるしに解釈されるとして行かなかった。「早晩来なければならぬ運命であったのだ」と書いた。妻愛子はその態度に不満だったようだ。
細君も余が父の死を眼前に看過ごすのを余程苦にして居るのである。然し余断言して曰く、「此際一言でも言へばタヽキ出してしまふ」
蘆花には言葉だけでなく行動にも粗暴な面が強い。キーンさんは書いている。
  蘆花の暴力は常に爆発の寸前にあった。例えば、ある時は、

先ず「徳冨」と朱塗で書いた山鹿団扇を引裂き、開墾鉈を持ってわざわざ大戸口へ出張し、「徳冨健次郎」の名札を切り割り、更に損墺の写真四枚を引裂き打破り、庭に投げ棄てゝ其上に放尿し、下駄で大地に踏みつけ、午后は拾ひあげて焼いて灰にした。此ればかりでも罪、死に当るであろう。

といった具合である。日頃から(少なくとも彼の心のなかでは)熱心なキリスト教徒であったはずの作家が、このような暴力をふるうとは、驚かざるをえない。

どこかに説明があるのかもしれないが、蘆花の父母に対する感情は複雑なものがあり、とくに父については経緯があるようだ。昔のこととは言え、女性関係について蘆花は多分に父の血を受け継いでいることを自覚していたらしい。若い女中への欲望と夫人への愛情の混在などが日記に表明されている。夫人との性生活も書き込んである。蘆花にしてみればこういうことは、日記を書くにあたって徹底的に真実を貫くことにほかならない。
キーンさんは蘆花の日記の分量に応じてそれなりに多くの頁を割いて論評しているが筆者にはそれをすべて消化する知識が不足している。だが最後に書いてくれている。すなわち、蘆花の日記を読んで私達が感じる、なるほどこの作家は、明治時代随一の人気作家の一人になっただけのことはあると納得させる、おそらく最も永続的な印象は、妻愛子に対する蘆花の一貫した愛情なのだ、と。

「下村とく日記」というのが収録されている。下村とく(18881968)は埼玉県入間郡名栗村で生まれた。日赤の看護学校を卒業した看護婦、助産婦の資格を持つ職業婦人であり、日露戦争には病院船に乗り組んで従軍した。勲八等宝冠章を賜った。歯科医志望の日本人青年との写真結婚でアメリカに渡り苦労する。明治451912)年から亡くなった昭和431968)年までの間、毎年つけていた日記のうち印刷されたのは、ごく一部にすぎないが、日本人移民の典型的な人物の日記である。
出典は末尾の参考文献に、<伊藤一男『続・北米百年桜』(1968)北米百年桜実行委員会(シアトル)に「写真結婚花嫁の船中日記」として「下村とく日記」の一部として収録。「下村とく日記」Professor Roger Shimomura蔵>と記載がある。
夫は結局歯科医にはなれなかったが、ちゃんとした仕事についたらしい。とくは助産婦としての手腕が買われシアトルに着いた明治45年から昭和15年までの18年間に千人以上の赤ん坊を世に送り出した。最後に取り上げたのは、いまカンザス大学の教授をしている彼女の孫だったとあるが、これが参考文献に記載されているprofessor Shimomuraであろう。
とくを乗せた阿波丸が出帆したのは228日。海は荒れに荒れた。「夜に夕食せしは妾のみ」。病院船での従軍経験で船酔いに強くなったか。また、「船は45度以上の傾斜。夜に至りて尚甚し。行先如何と気づかうて心細き事、此の上なし。頼みとする我が父なる神に祈りて、眠られぬ眼をやうやうとじぬ。」キリスト教信者だったという事実が初めて表現された。のちのち信仰心がもっと苦しい危難を乗り越えさせてくれる。
1941127日の日記。
教会から帰って見れば日本の飛行機がハワイをバクゲキせしとゆふ夢の様なニュース余りの事にびくりする。折しも婦人会のクキングレスンありしが途中帰宅して又レデオ(ラジオ)の前に座してニュースを聞く。今朝6時日本はデクレヤーワアー(宣戦布告)をせしとゆふ。いよいよ我らの前途も暗澹となる。神よ共に在ませと祈るのみ。

キーンさんはこの開戦時のとくについて、おそらくアメリカ人だとはっきり意識はしなかったろう、つきあいは日本人か日系アメリカ人、英語も最後までうまく話すことはできなかっただろうと想像する。しかしとくは、自分の孫をアメリカの名で呼び、彼女にとっての「ホーム」とは、自分の生まれた埼玉ではなく、夫とともに暮らしたシアトルにほかならなかった。だが、その「ホーム」も失うことになる。翌年3月大統領令によって一家は、アイダホ州南部のミニドカという荒れ地に追いやられた。
一家はさいわいにして戦後もとのシアトルに戻った。彼女の日記は生涯のうちで晩年がいちばん幸せだったと強調している。

『松浦武四郎北方日誌』。松浦武四郎(1818-88)とは伊勢の人、自らの意志で日本国中を歩いた人。28歳から41歳まで六回にわたって北方に渡って残した以下の記録を総称してキーンさんがこのように呼んでまとめた。
『後方羊蹄日誌(しりべしにっし)』、『石狩日誌』『夕張日誌』「十勝日誌」「納沙布日誌」『知床日誌』『北蝦夷日誌』。
幕府の面倒な規制を乗り越えてアイヌの世界に足を踏み入れた松浦は、分け隔てする意識なくアイヌと接することで言葉を交換し、生活様式を知り共に暮す。アイヌを理解するにつれて教わる彼らの深い文化遺産を通じて敬愛の度合いが深まる。松浦の記録を紹介するキーンさんの筆は、おのずから無知無策の幕府行政と官吏の悪政、原住民への無理解から滅亡に追い込んでゆくことへの批判の様相を呈することになる。イザベラ・バードもアイヌに惹かれて滞在したことも話題にして同好の士を見出したように喜ぶ。さて、こういう記事を読んで、日本人は何を考えればよいのか。新たに領土として取り込んだはずの土地の原住民をどのように取り扱えばよいか。過去の実情は、ひたすら差別視するばかりで日本語を教え込むこともせず、相手の文化もわかろうとしない。徳川時代の侍では知恵の出しようもなかったことは理解できるが、明治政府もどうやらその延長に過ぎなかったようだ。

『南島探検』。笹森儀助(18451915)。キーンさんは探検家という肩書を与えている。明治261893)年、千島探索調査旅行から帰ったばかりのところに内務大臣井上馨から呼び出され、北方事情を議することにあわせて琉球を調査する話だった。笹森が企図するならば、北方、南方共に国防上の重要性を訴えるはずだったが、井上の意図は国防より財政にあり、砂糖増産の方途を探ることにあった。これに賛成する富豪、金原明善の後援を得て琉球探検が実行されることになった。したがって笹森の記録は日記ではなく実情報告であり、公開が前提とされる。その内容は外部にあからさまにしがたい箇所は削除されたりして編集される。実見した実情は無教養の官吏が横行し、原住民は貧苦のうちに辛うじて生き延びている。貧困のうえに苛酷にも一律の課税制度がある。官吏、住民ともに教育は行き届かず、衛生上はマラリア・フィラリアなどの風土病対策はなされず、ハンセン病者は放置されている。結論は政情批判とならざるを得ないが、キーンさんは報告書から実態を読み取ることで住民たちの気持ちの赴く方向を示唆するにとどめている。笹森は琉球諸島がれっきとした日本国であることを信じたかったが、言葉が通じないのには困惑している。弘前出身であるので日本語方言の障壁は自覚していたものの、琉球諸島の言葉は日本語と同じ祖語を持ちながら異なる言語であることが理解できなかったらしいとキーンさんは書いている。また旧宗主国への原住民への思慕は強く、しかしその清國はすでに無力であった状況で新たな統治者となった日本はどうすべきであったか、まだ方策を立てる能力は明治政府にはなかった。後の朝鮮併合の練習問題のような課題が克服されないまま時代に流されて、大戦争の果の敗戦を経てアメリカの基地問題を抱える今に至った日本の姿に考え込んでしまう。笹森の記録は東洋文庫に全二巻の『南嶋探検―琉球漫遊記』として入っている。

下村とくの日記の項で、とくの家族が戦時に強制収容されたことを悲しんだキーンさんは、いずれ国籍とか国境などのとっぱらわれた隔てのない多様な人々の暮らしができる日が来ることを確信すると書いているが、松浦武四郎も笹森儀助も無意識のうちに同じようなユートピアを胸中に抱いていたに違いないと思う。誰しもが行きつく悩みのタネは人間というおかしな生き物のことになるだろう。
『百代の過客』には「日記にみる日本人」と副題が付けられている。いろいろな日本人がいること自体も面白いことには違いなかろうが、日本文学を専門とするキーンさんは、取り上げた日記を紹介しながら日記に書かれていないことをも参照して読者を飽かせずに案内してくれる。これもまた紛れのないキーンさんの文学なのだと感じた。

この著書はキーンさんが英文で書いた原文を金関寿夫氏が訳したものであるが、訳者のことばとして日本語にしやすい英文だとあった。そういう英文がどのような文なのか、ひとつ読んでみたいものだとは思うが、このように長大な著書であるからには諦めるのが賢明というものであろう。最後に続編に採択された「日記」32編を書き留めておく。
「遣米使日記」(村垣淡路守範正)、「奉使米利堅紀行」(木村摂津守喜毅)、「西航記」(福澤諭吉)、「尾蠅欧行漫録」(市川清流)、「欧行日記」(淵辺徳蔵)、「仏英行」(柴田剛中)、「航西日記」(渋沢栄一)、「米欧回覧実記」(久米邦武)、「航西日乗」(成島柳北)、「桟雲峡雨日記」(竹添進一郎)、「松浦武四郎北方日誌」(松浦武四郎)、「南島探験」(笹森儀助)、「航西日記」(森鷗外)、「独逸日記」(森鷗外)、「漱石日記」(夏目漱石)、「新島襄日記」(新島襄)、「木戸孝充日記」(木戸孝充)、「植木枝盛日記」(植木枝盛)、「小梅日記」(川合小梅)、「一葉日記」(樋口一葉)、「峰子日記」(森峰子・鴎外母)、「津田梅子日記」(津田梅子)、「下村とく日記」(下村とく)、「欺かざるの記」(国木田独歩)、「子規日記」(正岡子規)、「啄木日記」(石川啄木)、「観想録」(有島武雄)、「幸徳秋水日記」(幸徳秋水)、「蘆花日記」(徳富蘆花)、「木下杢太郎日記」(木下杢太郎)、「西遊日誌抄」(永井荷風)、「新帰朝者日記」(永井荷風)。
(2017/5)

2017年5月7日日曜日

読書随想: 堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』

作品の表題だけを見て、これは詩人についての話柄であろう、であれば自分には難しいだろうとの思い込みで今まで読んでいなかった。ジブリ学術ライブラリー『堀田善衞 時代と人間』という音声ディスクで「自作について」というのを聞いたところ、著者自身が自伝的小説だと話していた。
それまで著者の生い立ちについてはごく断片的にしか知らなかったので、そういうことなら読まずばなるまいということになったわけだが、完全に惹き込まれてしまった。
若き日の詩人たちの中には著者も含まれる。時間の経過にしたがって少年、若者、男として立ち現れる著者の生活、体験がフィクションを混じえて描かれるが、主題は時代のもたらしていた環境である。簡単に言ってしまえば世相だ。著者はあとがきに言っているが、「この作品の影の主人公は、いや白日の輝光のなかに躍り出ている主人公は、当時の日本帝国そのものであったかもしれない。従って、この作品は国家の横暴に対する怒りの文学であったかもしれない」。更にいう。「現代の若い読者諸氏には、近代日本というものが、如何なる時期を内包していたものであったかを知ってもらうためにも、筆者はこの作品を諸氏の手に渡したいと思っている、と言うことを許して頂きたい。かの戦争における膨大な犠牲の果てに克ち取られた、現在程度の自由を守りつづけるためにも……」。単行本になった1968年の著者50歳の発言である。
作品の舞台は実家の回漕問屋が手仕舞った幼年の頃への回想を除いては、満州事変勃発の1931年、中学入学から1944年に召集令状を受け取るまでの期間である。この間の記憶を50歳のときに文章化したわけであるが、そこに至るまでの新たな25年間にこの作家が体験したこと、考えたことなどのさまざまもまた文章の中に溶け込んでいるはずである。ここにいうさまざまのなかには、敗戦前後の上海を中心とした中国経験、アジア・アフリカ作家会議への10回を重ねる参加そのほかを通じての世界的な人的交流と経験など、他の日本人作家にはない思考が含まれている。その上での上記「あとがき」への発言である。
作品から直接読者の胸に強くひびくもの、筆者の場合は大学修業年限の短縮とそれに続く徴兵のこと、それに思想取締という権力の暴力である。
雨の日の神宮球場での学徒出陣壮行会という図柄は、敗戦後度々報道されてお馴染みであるが、若者は直接目にした。修業年限は毎年短縮され9月卒業、12月入隊となった。何ゆえの年限短縮か、戦線拡大のためではなく、「死」による兵員の不足であった。次に来るのは徴兵年齢の引き下げであったろうと考えると筆者はゾッとする。作品に登場する詩人たちはゾッとするまもなく召集された。
俗に兵隊は一銭五厘の命と軽んじられた。はがき一枚の安いものだと。けれど召集令状ははがきでは来ない。いわゆる赤紙であって、役場の兵事係が直接各戸に持って来るのが普通だった。
男が帰郷して令状を見ると、薄い赤色だった。命を差し出せと命令した天皇の名も印璽もないと怒る。堀田さんは本文の間に召集令状のカットを載せている。濃い赤でなく薄い赤だったというのは年々染料不足をきたしていたからだと調べてみて筆者は知った。こんな情けない状況で戦争するとは、とここでも思う。
思想というのは外からは見えない。人間の頭のなかにあるものだ。取り締まるには外から見て判断できるものでするしかない。本や書類という物か本人の行動で判断して捕まえて、頭の中身を自白させようとする。自白しないと拷問責め苦になる。取り締まる根拠は法律であろうが、法律を運用するのは人間だ。人間は信用ならない。そもそもが思想に右も左もないわけだから権力が気に入るかいらないかでことの始末が決められる。
作品の当時は学生狩りというのがあったはずだ。働きもせずブラブラしているのはぶち込んでおけ。作品の若者も突然下宿から留置場に入れられた。二週間取り調べもなく置いておかれてから「もういいぞ」釈放された。映画館でニュースを見ると満州国皇帝来日とやっていたので、ああこれだったのかと、留め置かれた理由がわかった。
予防拘禁というのもあった。留置場から出されても、もう少し居ろとかいわれて予防拘禁所に入れられて雑役などやらされる。これには法の定めはない、根拠なしである。
刑事や特高に目をつけられると逃げようがない。若者は留守中に部屋に入って持ち物を調べられた。アパートの管理人が元警察関係者だった。いたるところに彼らの協力者がいた。いまでいうGPSの代わりの人間がうようよいたのだ。まことに怖ろしい世の中だった。いまも余り変わっていない。何が「共謀法」だ。
いちどは法学部政治学科に入った少年は、初めて六法全書というものを開いてみて、条文を目にした。これは文章じゃない、こんなものを読んで暮らすことはできないと感じた。さっさと文学部に転じてフランス文学科に入った。堀田善衞という作家が生まれたひとつの契機だ。
憂鬱な時代を背景にいろいろな物の見方や暮らしのあり方を教えてもらった。15歳も年上の人たちに時代、旧制大学の学生生活は筆者の学生時代からみれば大人の世界だ。変わらないのは上に述べた戦争と思想統制のことだろう。
戦争で死ぬとはいうものの、実は殺されて死ぬのだ、普通に死ぬということとは明らかに意味が違うことを教わった。堀田さんは今の時代の人たちにこの記憶を受け渡したいと言っている。それからすでに新たな50年が過ぎた。堀田さんの正確だけれども少し難しめの文章ではあるが、時を超えて読み続けられたいと思う。

『若き日の詩人たちの肖像』初出は河出書房『文芸』19661月号―1968年5月号、28回連載(67年7月号は休載)。19689月新潮社刊。今回は筑摩書房『堀田善衞全集7』(1993年)で読んだ。

(2017/5)