1853年6月に、滞在中の那覇を一時離れて、ペリーはサスケハナ号とサラトガ号の2隻でボニン諸島(現小笠原諸島)を探検した。ボニンは無人の訛りで、島々の帰属はまだ決まっていなかった。事前の資料調査でこの諸島の位置が補給に適当と見定めたペリーは、是非とも実地に地形水深等を調査したいと願っていた。ピール島(現在の父島)の二見港の位置に良好な碇泊地を見つけて、その奥に事務所、波止場、石炭集積所を建設する場所が選ばれ、土地の所有権を入手した。土地を購入した相手はナサニエル・セイヴォリー、マサチューセッツ生まれ。最初の移住者の一人で、移住者たちの首長的存在だったようだ。ちなみにナサニエルから5代目に当たる子孫のセーボリー孝氏が米国図書館でこのときの土地契約書を発見してwebに公開している。
https://www.50colors.anniv-ogasawara.gr.jp/46
ペリーは当時の米国郵船事業にも関わった経験もあり、その観点から上海とカリフォルニアを結ぶ郵船航路開設を計画し、中間港にボニン島を適当と定めて植民地を建設することを提案している。英国からインド洋経由で米国東海岸までの所要日数など詳しく計算して遠征記に含めているほか、任務を終了して帰還後に編者ホークスに手渡された計画文書も第10章の終わりに付記されている。なお、植民地建設といえば、アフリカ艦隊時代のペリーは解放奴隷をアフリカ西岸に植民してリベリア国を建設する事業にクェーカー教徒の志を燃やした経験を持っている。第2章で西アフリカ沿岸の航路に詳しかったことが思い出される。
母島については、プリマス号のケリー艦長が1853年9月の日付で報告しているところによれば、同島を占領したことと住民組織ができていることが記述されている。ケリー艦長が提督から受けた指令にナサニエル・セイヴォリーとジョン・スミスについて調査することが述べられてある。後者については父島のセイヴォリーたちの後見人として残した水兵らしいが、ほかに記述がない。セイヴォリーについては、「『ピール島植民地』という名称で自治政府を組織していることがわかった」とあるが、これは6月にペリーが訪れたときにセイヴォリーに託した計画であろう。この自治組織は「文明および未開の国々から訪れた放浪者による憲法制定の独創的な試みに関する興味深い見本として、以下の文書を付記する」として規約が付記されている。この規約の文言もあるいはペリー氏の手になるものかと想像する。遠征記は編集されてあるため後世に残さない事情や記録もあったことが考えられる。
小笠原諸島は1876(明治9)年に日本領有が確定した。
琉球諸島に補給所をもうける案件については、石炭500トンを収容できる貯蔵所を建設することが琉球当局に同意され実行されている。遠征記の最終部分にすでに積み荷の置き場として利用されているように述べられている。ペリーが最終的に琉球を離れるときまでに、日本と締結した友好条約と同様の協約が締結され、避難および補給についての課題は解決された。
この協約の案文検討の段階で、米国が琉球を独立国として認めるとの文言を提示したのに対して、摂政は清国に服従する義務を負っている立場上、あからさまに独立を意味する文言は避けるよう求めた。この場面が意味することは、ペリーたちには最後まで琉球が置かれている国際的な状況が理解しにくかったということである。それは無理もないことで、当時の琉球は王制を遺しながら、薩摩の島津氏の支配下にあって、同時に清国に朝貢していたのであった。これを徳川幕府からいえば、対外通交の禁止の例外として島津家には琉球を通じてのみ対外通商を黙認していたわけである。協約文言で独立が認められてしまえば、清国は朝貢を拒否するだろうし、ひいては幕府も薩摩経由の交易ができなくなって、王制の危機を招く。ここはなんとしても現状維持で凌ぐほかないのであった。
ペリーたちの現地観察でもわかったように清国船の入港は一切なかったし、シナ人の存在も見られなかった。外国排斥はしっかり守られていたのである。別の資料によると薩摩の役人も僅かの人数だけが常駐していたらしい。遠征記の記事中日本人の登場は一箇所一人だけである。清国との交易は常に琉球船が往来していた。那覇港には日本船が数多く入港していたと記事にある。鎖国とはいうものの薩摩と幕府はこうして適当に利益を得ていた。
さて、琉球の国際的立場に関連して、遠征記には宣教師ベッテルハイムという琉球にとっては厄介な存在が述べられている。
「艦隊が入港すると、町の北の、奇妙な形につき出した岩の上にある一軒の家のそばの旗ざおに、突如としてイギリス国旗が揚がった。その家は、宣教師のベッテルハイム氏の住居だった。彼はユダヤ教からの改宗者で、イギリスで結婚し、信心深いイギリスの紳士たちや、イギリス海軍士官たちの庇護のもとに5、6年前からこの島に住んでいたのだが、琉球人たちはこのことをまったく快く思っていなかった。」
「ベッテルハイム博士は日本の小舟に乗って艦を訪れた。彼と島民との関係はうまくいっていなかったため、博士は艦隊の到着を喜んで迎え、すくなからぬ興奮が態度に現れていた。彼は提督の部屋へ案内され、2、3時間ほど話し込んだ…」次の出番では迎えのボートが出されて、博士は提督、ジョーンズ牧師、通訳のウェルズ・ウイリアム氏と朝食をともにする。そのあとはいろいろな場面で博士の家が利用されたり、博士が立ち会う場面があったり、はては琉球当局がペリー一行の立ち入りに強く抵抗を示した王宮訪問の際に博士も同道している。
初対面のはずの博士に対してペリーはどうしてこうも簡単に心を許して仲間扱いをしたのか。まして住民に快く思われていない人物をあえて王宮にまで連れて行くとはどういう神経なのだろうか。住民との融和を考えている立場ならこれはないだろう。読者としてはこのように思える。
第11章に島民の宗教に関する考え方とベテルハイム博士が島民の間に暮らし始めた事情についての説明がある。
1846年のこと。「信仰熱いイギリス海軍士官たちが、この島にキリスト教の宣教師を派遣する目的で「琉球海軍伝道団」を結成して、最初に送り込んだのがハンガリー生まれの改宗ユダヤ人ベッテルハイム博士だった。帰化してイギリス臣民となりイギリス女性と結婚した。医師であり、言語学者であり、偉大な精神力と活発な体力、不屈の精神力の持ち主であり、宣教師の資質を多く備えていた。当初はローマ教会の宣教師も二人いたが、布教を断念して去った。ベッテルハイム氏は滞在し続け、活動の手を緩めなかった。」1850年に琉球に滞在したヴィクトリア(香港のこと)の元主教による情報。
英国汽船レイナード号の船長が現地当局者から受け取った2通の文書のうちの1通に島民の宗教思想が述べられてあった。そこには、
「われわれの生活のあらゆる状況を律しているのは孔子の教義のうちの修身斉家の原理である。国政は孔子が伝えた規則と原則に従っておこない永遠の平和と安寧の確保を心がけている。わが国の上流社会も庶民も天性の能力に不足があり、儒教に専念しているにもかかわらず、いまだ完全に習得するに至っていない。このうえ儒教に加えて天帝の宗教(キリスト教のこと)を学ぶことになれば、その試みはわれわれの能力を超えるものとなって、それに心が傾くことはないであろう」とあった。
これに対してヴィクトリアの元主教も語ったそうであるが、キリスト教徒の見方は、孝行を徳とする家父長制は奴隷制の根源とみなすということである。
虐げられている人たちは思想と行動の自由が束縛されなければ福音に耳を傾けるはずである。はじめのうちはみんな話を聞いてくれた。ところが支配者の日本の当局者は、キリスト教の形跡が国内に少しでもあることを許さず、日本の制度を崩壊させるとして警戒した。はじめは穏やかに対応した琉球当局もベッテルハイムの執拗な布教活動に次第に先鋭になっていった。こうして対立が完全に敵対関係になったところにペリーの登場だった。
琉球限りで通交は黙認するが、キリスト教は認めないとの日本の支配姿勢は具体的には目に見えなかった。日本の本土であれば転向か殉教のどちらかを選ばされたはずだがベッテルハイムにはわからなかったのだろう。ペリーは文献を通じて本土での宣教の実態を知っていたと思うがどうだろうか。
琉球当局は日本の法律の執行はできなかったから、上記のような穏やかな文面でしかキリスト教を拒否できなかったと考える。
1854年7月10日付の琉球当局から提督宛の文書には、ペリーの帰国に当たって同氏を連れ帰るよう嘆願してあった。その願いを聞き届けたのか、提督はミシシッピ号にベッテルハイム氏を乗せて那覇を去ったのであったが、なんと後任の宣教師がすでに着任していたらしいのは琉球には気の毒なことであった。
それにしてもペリーがベッテルハイムに向けた好意的と思える処遇はどういうところに根があったのだろうか。8年間嫌がらせを受けながらも住民の間に住み込んでいた実績から、かなりの生きた情報が得られたと考えられるから、重宝な人物だったことは理解できる。あとは琉球人対キリスト教徒という枠組みでペリー自身の行動を律していたということかも知れない。
とにかく厄介事がひとつ片付いたことを読者としても喜びたいところではあるが、ペリーが日本に出かけている間に留守番役のプリマス号の水兵が不祥事を起こして殺された事件が起きていた。酒に酔って住民の家に入り込んで婦女凌辱というお定まりの犯行に及びかけたところで男たちに追われたあげく海中に逃れて溺死したという事件だった。提督は水兵の処分は米国側でおこない、加害者となった住民は琉球当局の処置に任せることで落着した。
この時代、米国海軍は誰でも入れる状況にあり、海賊まがいの連中もかなり混じっていたというから、そういう手合を規律で縛って働かせる提督以下の士官たちも大変だったことだろう。それにしても、いまに変わらぬ沖縄問題が160年も前から始まっていたとは、遺憾に思うどころではないが、世界中の軍隊の課題であると思えば、ことは人間の問題に行き着いてしまいそうだ。なにをか言わんや、である。(2018/8)