うしろの壁に色の変わったところがある。調度課の人に何故かと聞くと、この部屋はもともと金庫だった。色の変わったところに金庫の扉があったのだという。説明を聞いて福々しい気持ちになった。かねがねお金がほしいと思っていたら、自分自身がいつの間にか金庫の中身になってしまったと喜んでいる。
それでも自分から無資産というのは業腹だから、部屋を夢獅山房と呼ぶことにして以後郵船会社の会報『海運報国』に「夢獅山随筆」を連載した。
会社の中に文章の先生にいつもいてもらうとは贅沢のようではあるが、一体どんな文章に先生が必要なのか不思議にも思える。百閒先生の仕事の中身を知りたいとは思うが、そういうことに触れた文章はどうも見当たらない。「夢獅山房」(『菊の雨』所収)には次のように書いている。
今度の私の樣な役目は日本の会社で前例のない事ではないかと思はれる。外國關係の會社に外人の囑託がゐて、外國文の添削をするのは普通の事であるが、それは主として語學の方面の仕事であろう。私の場合の樣に、日本文推敲の囑託を受けると云ふ事は、私がその任であるかどうかは疑はしいとしても、從来さう云ふ方面にまるで無關心であったらしく見える會社の中から、日本語及び日本文尊重の風潮が興こりかけたのではないかと思はれるのであって、私が先づその聘を受けたのは文章道の精進を自分の使命と心得てゐる私の冥利であるが、日本郵船がさう云ふ風潮の先唱をなしたと云ふ一事に或は將來の意義が加へられるのではないかとも考へられる。しかし自分に都合のいい事で會社を褒める樣な事を云ふのは甚だ聞き苦しい話に違ひないから、右の一件はこれでやめる。まことに奥ゆかしい表現であって百閒の育ちの良さがうかがえる。発端は仲の良かったフランス文学者辰野隆氏の推薦だったというが、辰野博士に適任者の推薦を依頼した人が郵船会社にいたはずだ。どんな人がどんなつもりで文章指南に人を得たがっていたのだろう。まさに前代未聞のことだと思う。
さて、法政大学の教授職を学校の騒動を機にやめてから5、6年経ってのお勤めとなった。
嘱託期間は昭和14年4月に始まり1年ごとの嘱託期間を毎年更新して敗戦後の昭和21年まで続いた。
郵船社員で百閒に師事した俳人村山古郷氏によれば、
「今までの髭茫々、浴衣一枚で琴を弾じ文をやるといった文覚上人の様な姿を一擲し、洋服を新調するやら、キッドの靴を注文するやら、丸の内の一流船会社の嘱託にふさわしい体裁をととのえるのだといって」「初出社の日、フロックコートに山高帽子、薄鼠色の手袋にステッキを携え、郵船ビルの正面から乗り込まれた」という(講談社全集第四巻「月報」から)。
月給二百円、水曜日は不出社、平日は午後からという異例の厚待遇だった。それでいて先生には困ったことがあった。
自宅での長年の習慣は、朝5時か6時に目覚めて果実を一、二種食べる。日本薬局方の赤葡萄酒を一杯飲む。家人が掃除をする間、新聞をひろげたり、郵便物の封を切ったりする。それらを見終わる前に小さな英字ビスケットを齧って牛乳を飲む。何もなければ10時頃机に向かい、そしてお昼になると蕎麦を食べる。蕎麦は正午きっかりに届くようになっている。正午より早く来たり、遅くなったりもするだろうけど、蕎麦屋が来たから正午だということになっている。今度勤めに出るとなるとこの辺の調子がおかしくなる。
郵船ビルの部屋の鍵は自分で開けるのだから行くまで閉まっている。閉まっていては蕎麦屋が困るだろうし、置いてゆかれては蕎麦が伸びる。丸の内にも蕎麦屋があるから行けばよいという人がいるが、これは大変な誤解だ。家で蕎麦ばかり食ったのは、蕎麦が好きなためではなく、蕎麦で一時のおなかをを押さえて我慢をしたに過ぎない。自分から足を立てて食べに出掛けるということになれば蕎麦屋で盛りやかけをを食うよりは、西洋料理とか鰻の蒲焼などのほうが好きである。ただ昼間のうちからそういう物を食べ散らかすようなお行儀の悪いことをすると自分の身体にいけないから、蕎麦で養生していたのだ。食い意地が張っていて自制心の弱い自分のような者は、なるべくうまそうな匂いのする場所へ近づかないに限る。
面倒だからなんにも食べないのが一番簡単であると思いだした。そう決めると気が軽く、お腹の中も軽いなりに出かけた。家を出る時から既に腹が減っているので、何時間かのうちには目が回り出した。廊下を歩くと時化にあった甲板のように、向こうが高くなったり、足もとが落ちていったりして危なくてしようがない。郵船会社は見掛けは立派だけれども、廊下が安定していない。
ある日節を屈して丸ビルで蕎麦を食ってみた。誂えたお膳は来たけれど、あたり一面が大変な混雑で、私のすぐ右にも左にも、鼻をつくほど近い前にも知らない人が一ぱいいて、みんな大騒ぎして何か食っている。腹の減った鶏の群れに餌を投げてやったような有り様で、こっちまでいらいらして、自分の蕎麦を食う気がしなくなったから、半分でやめて、外へ出てほっとした。
あれこれ考えた挙句、弁当持参にした。麦飯をアルミニュームの弁当箱に詰めて携行し、机の引き出しに入れておいて、そろそろ廊下の浮き上がってくる2時半か3時頃に食べる。おかずが旨いとご飯が足りなくなるから塩鮭の切れっ端か紫蘇巻きに福神漬をほんの少しばかり入れてある。夕方帰るとき、エレベーターに乗った拍子に、袱紗包の中が時としてからんからんと鳴ることがある(「腰弁」から)。
講談社の「内田百閒全集 第四巻」月報4に村山古郷氏が「百閒先生の借金証文」という文を寄せている。村山氏が百閒にお金を貸したことがあるから証文が手元にあるわけだが、証文といっても備忘のメモで金額も二円とか三円とかだそうだ。
「古郷さん、お金をいくら持っていますか」「はい、三円とちょっと」「そのうち二円貸してください。今、私の家には一銭もない」
昭和十年ごろのこと。百閒先生は文名隆々として高かったが貧乏と借金話は一世を風靡していた。村山氏は晩学の貧書生であったと書いてあるが、その乏しい嚢中からも借金をした。もちろんきちんと返してくれたが、時によると、未返済のまま次の錬金術にかけられ、二円が五円に、七円にと重なって殖えることもあった。しかし、それはそれだけのことで、その間に村山書生は別の名目で何倍、何十倍かのお金をもらっていた。
「これはこの間の校正のお礼です。借金の返しではない。あのお金はまだ借りておきます。これはお礼として上げるのです」といって、十円、二十円と何度も頂戴したのだそうだ。不思議なことをする先生だとは思ったが、ある時こう言われたという。
「あの二円は誠にありがたかった。家の中が旱で干上がっている最中に、あの二円でどれほど潤ったか知れない。今手許にお金が入ったからといって、その中から二円返してすむことではない。恩借は消えませんよ。だから借りておきます」村山氏はメモを見るたびに先生の御恩を思うと結んでいる。内田百閒氏は立派なものだと思う。
戦争が進んで、日本郵船も船がなくなってきた。嘱託解嘱の話が出たが、やめるとなれば、文士の徴用で報道班員として陸海軍のお先棒を担がされることにもなりかねない。無給の嘱託を願い出て容れられた。百閒は長くこのことを徳としていたという。5月10日の東京大空襲で百鬼園邸は焼尽し、蔵書のすべてが失われた。戦後日本郵船が存亡の危機に見舞われた時に百閒は退職したが、その際会社で長く愛用した『大日本国語辞典』全五冊の下付を願い出て快諾された。当時、日本郵船が退職する内田嘱託に贈ることができた唯一の餞別であった(同「月報」村山古郷「百閒先生の借金証文」から)。
(2016/5)