2020年1月31日金曜日

読書雑感『鶴見俊輔伝』

鶴見俊輔さんと聞けば『思想の科学』の名が反射的に思い浮かぶ。続いて、あの風変わりな雑誌は何だったのだろうと考え始めるがすぐに考えることをやめてしまう。考えてもよくわからなかったからだ。新聞紙上に『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受けた黒川創氏が述べていることを読んで納得した(朝日新聞1月30日朝刊)。氏の経歴に『思想の科学』編集委員を経て作家になる、とあるが、「経て」はいない、「思想の科学」は職業でも社会的地位でもないからという。
私の頭にも、いろいろな人がいろいろなことについてそれぞれに書いている文章を集めた雑誌という印象が残っている。それぞれ個別の生活をしながら、自発的に学問をしていたのだと黒川氏は説明する。そういう学問を鶴見さんは愛したと。「地位とも報酬とも結びつかない、個人によってひそかに続けられた学問は、無垢な輝きを帯びている。」それが学問の初心だとした鶴見さん、とあるが、この表現はすでに黒川氏のだろう。鶴見さんなら、ただ「おもしろいな」と言ったはずだ。
雑誌の表題にある「思想」の意味については深く考えたこともなかったが、上田辰之助(経済・思想の学者)がアート オブ シンキング、からソートを思いついて、思想にしたとの来歴をこの伝記で読んだ。ならば「かんがえること」を科学する意味なんだと妙に腑に落ちる。だから、てんでばらばらな考えることを文章にして持ち寄ったのを雑誌に仕立てた、つまり編集したわけだ。茫漠とした世の中という広大な広場に散らばっている人々がどんなことを考えているのか。「日本の地下水」といううまい表現がでてきた。
1946年から96年まで50年続いた雑誌の終刊にあたって、総索引、ダイジェスト、討議集の三冊が刊行されているそうだが、ダイジェストに採用されたタイトルは2千におよぶという。討議集の表題は「源流から未来へ」とされたそうだ。
鶴見さんは哲学者に分類される学者であるが、私は自分の関心事であることばの使用に関連した著作を多く読んできた。専門的に言えばそれは記号論に関係するらしいが、そっちの方のことは私の頭が受け付けないから、そこから鶴見さんが展いてくれた事柄を読んだ。「言葉のお守り的使用法」はそういう意味で非常に面白かった。内容はほとんど忘れてしまったが、要するに戦時中なら「鬼畜米英」「国体」など、戦後は「民主」「自由」「平和」など、いわゆる空疎な言葉ないしは言葉遣いへの批判である。これさえ唱えていれば安全だというわけである。
哲学者についての話題では自然に言葉も難しくなる。1945年12月、占領下である。軽井沢の山荘に一人で暮らしていた鶴見さんを訪ねてアメリカ軍伍長フィリップ・セルズニックが来た。のちに社会学者として知られる人物。父親の鶴見祐輔の熱海の家には占領軍当局者たちが日本での知見や手づるを求めて頻繁に出入りしていたが、この日、この伍長は婚約者ガートルード・ジェイガーが書いた論文「生まれたままの人の哲学」というのが載っている小雑誌「エンクヮイアリー」を持参して、俊輔と話したかったのだそうだ。論文はプラグマティズム哲学のデューイ論だった。
デューイの哲学は、人間性の完成に対する楽天主義から出発し、その帰結としてどのような形態の社会も人間の努力次第で現出する、という可能性の無制限を主張するようになった。だが、ジェイガーが見るには、人間はそんなに可塑的なものではない。人間にはリカルシトランスがある。不可操性とでもいうのか、つまり「どうしようもなさ」と呼ぶしかないものが。竹のように、ある程度は、しなる。だが、それ以上求めると、折れてしまう。人間性には、こういうところがあり、それが罪というものとつながる――。
一般読者にはそれほど興味があると思えないジェイガー論文だが、俊輔は自分たちの雑誌がいつか刊行できれば、訳出して載せたいと伝える。末尾の典拠資料には、英文で論文の表題・所載誌ほかと和文で『思想の科学』創刊号(1946年5月)と記載されている。その当時の鶴見さんの日本語力については、創刊号に書いた鶴見さんの「言葉のお守り的使用法」の日本語は非常に晦渋でぎこちないものであったことを黒川氏が明かしており、のちに著作集に入れるに際して平明な文章に改められたとある。それから考えると、ここは鶴見訳ではなさそうである。
それはそれとして、この引用文の可塑あるいは可塑性、リカルシトランス、不可操性ということばを私なりに理解するには少し時間がかかった。続く本文には、「セルズニックの言葉にたびたび出てくる「リカルシトランス」(どうしようもなさ)、また、理想に付随する「ユーフォリア」(多幸症)という言葉に、俊輔も目を開かれていく思いがあった。」とあるから、俊輔がアメリカを出てからあとのプラグマティズムの進展が語られたようだ。
「どうしようもなさ」という訳語は当の文脈では正しいのかもしれないが、どうも納得できない。意味が確定できないではないか。形容詞なら頑強に抵抗する(人)、名詞なら強情っぱりとか反抗的な人というのが私の解釈であるが。ま、ここはシロートの口出しする場所ではないけれども、漢英辞典から日本語の訳語を案出したような芸当を期待するには、いまの時代は日本語が痩せ過ぎたかと密かに思う。
鶴見さんは1948年に桑原武夫から京大人文研に誘われ助教授として迎えられる。桑原ははじめ大学を出ていなくてもいいと言ったので、「出ていますよ」と答えると、ニヤッと笑ったとあったが、桑原が小学校卒の学歴で京大助教授に誘おうとしたことに鶴見さんは驚いたというが読者の私も驚いた。中学時代にはすっかりグレて、父親がアメリカに送り込んだ。1年間ハイスクールに在学して英語習得後ハーヴァード大学の哲学科に入った。日米開戦になって敵国人として収監され、さらに不用意にアナーキストと称したために牢獄につながれた。書きかけの卒業論文が没収されたのを大学当局が取り返してくれたおかげで、牢獄の中で論文を仕上げることができて無事に卒業が認められた。日本人の常識では大学と司法当局のやり取りは、へぇと思うし、入学から卒業までの経緯も尋常でない。不良少年のはずがよくできるのだ。ホンマかいなというところだ。でも、それが事実であった。その事実の裏には16歳の俊輔少年のまさに死にものぐるいの英語習得努力と、下宿させてくれた家庭の婦人たちの協力があった。婦人たちは学校に出かけて俊輔の英語教育について教師陣と話し合い、家庭で朗読などで実践的に補講をしてくれたものだ。良きアメリカが生きていた時代だったのだと私は感動した。
ハイスクール1年だけの学業で受け入れようと決めたのはアーサー・シュレジンジャー(シニア)という歴史学者で、父祐輔が懇意であったので後見人になってもらった。俊輔を面接して受け入れを決め、修学方法を大学院で講師をしていた都留重人と相談して決めた。都留は俊輔の生涯の恩師になった。この辺の事情を読みながら私は昨今の日本における大学入試についての問題を連想した。また、藤原正彦氏が『文藝春秋』12月号に紹介しているイギリスの大学の教授たちの、面接もしないでどうやって受験生の人物を知ることができるのか、という疑問も思い返していた。シュレジンジャーと英語ができない俊輔との間にどのようにして会話が成り立ったのか、資料がなくて書けなかったのか残念である。
俊輔は日米開戦のはじめから日本の敗北を信じた。日米交換船に乗るか乗らないかは個人の選択に任された。彼は日本人だから日本が敗けるときには日本にいたいと考えたそうだ。1942年8月、日本に着くと徴兵検査があり、結核保持者なのに第二乙種合格、海軍に志望してドイツ語通訳の軍属となった。ジャカルタ・シンガポールで勤務する中で軍隊の実情を知った。多くは語るまいと決意する。語れば他人に災いをもたらす。1944年に病気で帰国、翌年8月15日は熱海の借家で療養中に終戦の詔勅を聞いた。
この人はどこにでも出向いて行って人と話す。いたるところに何やらの会ができる。60年安保では国会デモに何度も出かけた。座り込みでごぼう抜きにされている写真も残っている。異色なのは「ベ平連」だった。有名無名、おおぜいの人の輪ができた。鶴見さんの経歴には「反米」がまといついている。アメリカのヴィザは絶対におりない。ハーヴァードでライシャワーの日本語教科書に姉和子とともに協力した。そのライシャワーが駐日大使のときにも大使館前で座り込みをした。ライシャワー自伝には俊輔について、強い反米意見をもっている評論家と書いているそうだ。これには鶴見も寂しそうな顔をして彼は怒っているんだよと言う。鶴見は親米家なのに。「正義」のあり場所がちがうのだ。
京都ベ平連の事務局長をした北沢恒彦氏は、この『鶴見俊輔伝』の著者黒川創氏の父君だそうである。著者も幼少の頃から父に手を引かれてデモに加わっている。そんなころから著者は鶴見さんの近くにあった。
私は長年、鶴見俊輔は、けったいな学者だけどいいことを書くなぁといった程度で何冊か単行本を読んできた、要は好きになったのである。それでも、なにをしてるんだろ、この人は、という思いは残っていた。この伝記を読んで、うん、いいことをしてくれたと納得できた。そして著者にも同じ感想をもった。いいことをしてくれたと。
読んだ本:黒川創『鶴見祐輔伝』新潮社 2018年   (2020/1)