2014年7月20日日曜日

読書随想 露伴を読む(1)

「雪たたき」(昭和14年)

雪たたきは下駄の歯の間に固く挟まった雪のかたまりをたたき落とすことをいう。
鳥がその巣を焼かれ、獣がその穴をくつがえされたときはどうなる。心は乱れ、目はうつろに、
ただ脅え、警戒し、緊張し、いたづらに闘争的になるであろうと、冒頭に5行の文を置く。これで作品の時代の様相を表わしている。
応仁、文明、長享、延徳を経て、今は明応2年の12月の初めである。西暦でいえば1493年に当たる。前年にはコロンブスが新大陸に到着したが、日本の中は下克上の時代、将軍家が落ち着かず荒れに荒れている。
泉州堺は静かな屋敷町の裏通り、傘の代りに古筵をかぶった男一人、禄を離れた侍らしい。雪も止みかけ、筵を捨てて早足になろうとして下駄の雪に足を取られ躓きそうになる。
エーッ邪魔なとばかり目の前の小門の裾板に下駄をぶつける。二度三度繰り返すと雪塊が抜けた。と同時に門がすっと開いた。
門が開いたのは男の意外であったが、読者の意外はこれが始まりで数奇な物語に導かれる。屋敷の主は堺の豪商、いまは海外に出て留守であった。下駄の音が秘密の合図と勘違いした侍女の過失から邸内に導かれた男は、失礼の詫びを受けて立ち去る。謝金のほかに室内に丁重に置かれていた笛を持ち去る。
笛がなくては娘の命にもかかわる豪商の隠居、身代にかえてもお返しくだされというのに、損得では意地でも動かぬ男の意志、割って入ったは旧主を盛りたて再興を図る一味の面々。あわや血を見ようかとまでの激論に男は意地を曲げる。「損得にそれがしも引き廻されてござるかな」。
足利将軍家の跡目争いに端を発した明応の政変の余波で家督争いに負けた畠山尚慶の再挙を題材にとった史伝物語である。露伴の筆にかかると血なまぐさい世の中でもしっかりと商売にいそしむ堺商人の暮らしと争いに明け暮れる武士の世界があたかも絵巻物の一巻でもあるように浮かび出る。「雪たたき」という閑雅な響きの表題は新派の舞台に掛けてもよし、講談でもよし、浪曲師も使いたくなろうかという庶民にもわかりやすいお話。

余談になるが、一般に漢字漢語が多くて読みにくいとの露伴評は、ここでは必ずしも当たらないと思う。たしかに漢字が多いが、この全集には旧仮名遣いのルビが振ってある。全集の編集者は蝸牛会となっているが、全集のどこにもその構成員や編集方針などが見当たらない。したがって、ルビや仮名づかいの取り扱い方針などは分からない。僅かに私は研究者の論文中に蝸牛会6名の名を発見し得た。すなわち、幸田文、斎藤茂吉、柳田泉、小林勇、土橋利彦、松下英麿である。(「目野由希 露伴「史伝」の戦中戦後――松下英麿の軌跡――」

( 露伴全集第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年第二刷)




「幻談」(昭和13年)

一席の高座を聴く趣の短編である。
はじめに、山や海に出掛けると神秘的なことや怖ろしいことにも出会うと言いながら、外国のお話を軽く紹介します。アルプスのマッターホルン初登頂に成功したウィンバーが語ったという登攀記の一節です。下山にかかってのこと、半数の4人が滑落します。上で4人が踏みこらえます。落ちる4人とこらえる4人の間でロープは力足らずして切れてしまいました。下の4人は4千尺ばかりの氷雪の處を逆落としに落ちていきます。午後6時ごろ幾分安全な場所まで降りて来ました。つい先刻まで一緒にいた人々がもはやいない、という虚ろな気分です。そのとき4人の目に見えた不思議な光景がありました。そのすこしこの世でないような情景を描写したのち、「心は巧みなる畫師の如し」という経文の言葉でおさめます。これがいわばマクラに当たります。
さて本題は、というところで趣味の魚釣りと閑職にまわされたお侍ののんきな暮らしの話になります。大川に釣り船を出して、ときには江戸前の海までゆく。馴染みの船頭が約束の日に迎えに来ておもむろに出掛ける。雲行きの怪しい日にはきょうは旦那はどうするかなと遅い時間に様子を見に来て、昼になると旦那は座敷で、船頭は台所にさがって昼飯をとる。さて行こうか、という具合な往時の日常が描かれます。露伴自身、釣りが大層好きだったそうですから、仕掛けや竿など道具の蘊蓄を傾けるのも楽しそうです。
こうした日常のある日、遅くまで海にいて薄暗くなってから帰りを急ぐとき、ふと向こうの水面に妙な物が見えます。はてなと船頭を見ると同じように首をかしげている。ということがあって、その見えたものがなんであるか、それをどうしたか、その次の日はという具合に話が進んでいきます。
おしまいは伏せておきますが、緩急を心得た話の展開です。江戸っ子の露伴がしゃべらせるのですから船頭の話しっぷりも生きがいい。これなら露伴さんも高座に上がってもずいぶん客がついたろうなどと失礼なことも考えたくなりました。
兎に角面白いのです。おしまいのぼかしぶりも大変よろしい。名作です。
(露伴全集第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年第二刷)

連環記 (昭和15年)

「かものやすたね」という人の話で始まる。賀茂保胤であるが、慶滋保胤と書く。生年没年は承平3933)年―長保4(1002)年とされるが確かには不明のようである。陰陽師安倍晴明の師の賀茂忠行の次男であるが家業の陰陽師にはならず、儒家であり詩歌に優れた菅原文時に師事した。文時は道真の孫、従三位、漢詩の巨匠であるが、保胤も資質高く弟子の上位にあり、詔勅・記録を司る大内記にまでなった。
保胤の仕える具平親王は保胤を師としていたが、この師は世事には一切興味を示さず、「出世間の静寂の思いに胸が染みて」いて、親王への講義がひととおりすむと、なかば瞑目するようにして口の中でかすかに何か念じるようにしていたという、少し変わった先生ではあったらしい。狂言綺語(詩歌のこと)をもって仏法をたたえる縁としたいという白楽天のような思想を保胤は是としたところであろうことは疑いないと露伴は述べている。
保胤がいかに慈悲心の強い人物であったか、いくつかの逸事が紹介されているが、ことにあって涙を流す様子は尋常ではなかった。時にはそのために自身も困難な目に遭うこともあった。そういう話も今鏡に遺されている。世才に疎いのはやむを得ぬことで長年借家住まいをしていたが50歳にちかい頃、六条に安い土地を買って居宅を作った。その記録は池亭記として遺った。またこの池亭に住まいしながら本朝善男善女四十余人の幸せな往生事実を記録して日本往生極楽記を著わした。
ここまでの保胤の事績を露伴は漢語漢文調の言い回しを駆使して面白おかしく書き綴っている。すべて現代文のふりがな付きとは言え、意味をとるには辞書もいるが、調子の良さに引きずられてしまう。
このあと、保胤は遂に落髪出家をしてしまう。戒師が誰であったかまったく記録がないそうな。
また妻も分からず子もあったはずだが系図にも見当たらないという。妻子ともに普通の人であったろうが、「善人ではあったろうが所謂草芥とともに朽ちたものと見える」とある。
保胤は入道して寂心となった。世間では内記の聖と呼んだ。

このあと、寂心、朋友源信、叡山の高僧増賀のこと、大江匡衡とその妻赤染右衛門、大江定基と妻、この妻には名がないわけではないが当時のならいとして記録がない、そして三河赤坂の長の娘の力寿などが登場する。定基と匡衡は従弟同士である。また定基も保胤と同じ文時を師とする流れにあり自然交流もあったろう。
定基と妻、力寿の三角関係の調停に赤染右衛門と大江匡衡が乗り出す場面は、露伴は前もってこれからでたらめを書く、ただし、定基夫婦の別れ話は定基夫婦の実演したことであると断っている。創作ではあるが、まるっきりあり得ないことではない人物のつながりはある。

定基が若くして三河の守に任じられて赴任先で力寿を見初めてしまったが、すでに定基には妻があった。赤染右衛門はあわれな定基の妻を見かねて、夫匡衡をたきつけて定基の改心を図るが、定基は妻を離縁してしまう。ところが、程なくして力寿も病を得て儚く世を去る。定基は惚けたように時を過ごし棺を覆うて弔うべしとの命令も下さないから、遺体はいつまでも傍らにある。古い書き物によれば、「悲しさの餘りに、とかくもせで、かたらひ伏して、口をすひたりけるに、あさましき香の口より出来たりけるにぞ、うとむ心いできて、なくなくはふりてける」とようやく始末を付けた。
このくだりについて坊さんの虎関の文と比べて大納言のは好いと露伴は書く。大納言は宇治拾遺物語の著者、宇治大納言源の隆国と思われる。ただし露伴は力寿の名は『宇治拾遺』にはないと書いている。三河守定基と力寿の話は『今昔物語』にも有名である。余談になるが豊川市には江戸時代に立てられた力寿の石碑があり記念の桜が年ごとに人を呼んでいる。
やがて定基は官職を捨てて東山如意輪寺を訪れる。そこには保胤のなれの果て(と露伴はいう)の寂心がいた。定基が剃髪して得度を受けて寂照と名乗ったのは三十歳そこそこだった。寂心の友であり師でもある恵心の教えも得て修道に励む。

「寂心は長保四年の十月に眠るが如く此世を去ったが、其の四十九日に当って、道長が布施を為し、其諷誦文(ふうじゅもん)を大江匡衡が作ってゐる。そして其請状は寂照が記してゐる。」露伴は『寂心上人伝』の存在を紹介して、寂心上人は衆生を利益せんがために、浄土より帰りて、更に娑婆に在(いま)すことを或る人が夢みたと記してあると。世を哀しんだ寂心と、寂心を懐かしんだ世の人々のこころがこういうことを伝えるに至ったのであろうと述懐している。寂心が池亭で編んだ往生極楽記につづいて大江匡房が続本朝往生伝を撰し寂心(保胤)も採録されている。「法縁微妙、玉環の相連なるが如しである」と露伴は記す。『連環記』の所以であろう。

寂照はやがて師恵心の意を受けて南宋の僧知禮に宛てた問目二十七条を携えて渡海する。問目を閲読した知禮は東方にこのような深い理解をした人があるかと大いに感心して答釋を作ることになった。また知禮は寂心を宋の天子にも紹介したので、紙筆を求めて日本の国のことを説明する機会を得た。文章の人であるから文字といい文といい宗主(眞宗しんそう)を驚嘆せしめ、日本の国体を賛美措くあたわず、紫衣束帛を賜り圓通大師の号を賜った。やがて知禮の答釋ができあがったが、寂照は引き留められ代りに弟子に持たせて日本に送ることになった。かくして寂照は呉門寺に留まり帰国することはなかった。仏の弟子になったからにはどこに居ても易らぬ理屈で、呉にあること三十余年、我が国でいえば長元七(1304)年「雲の上にはるかに楽の音すなり人や聞くらんそら耳かもし」の歌を遺して、莞爾として微笑して終った。

保胤の寂心、定基の寂照の二人をめぐるさまざまな人と人生絵図、平安期の貴族政治、浄土思想の世であるからにはどうしても叙述には漢字漢語が横溢する。途中赤染右衛門が登場するあたりになると和歌も登場するから、男性は漢字、女性はかなの世界となり文章もかなりくだけたものになっている。露伴はでたらめを語るといいながら俗諺俗謡の調子も取り入れ、なかなかのご機嫌である。本作をもって小説は終わりにしたらしいが、ずいぶんと楽しみながら書いたように思える。漢詩は読み下し文にしてあるが、仏説、仏法に関する言葉など読むには少し苦労が要る。
しかし、変幻自在というのもおかしいがじっくりと楽しめる作品であった。
『連環記』は「日本評論」昭和156月号と7月号に発表された。この年2月には皇紀2600年の大祭が催された。翌年末には太平洋戦争を仕掛ける。日本中が昂揚しているこういう時期にこういう作品を悠々と書いていたことは、「紅旗征戎わが事にあらず」と『明月記』に記した藤原定家を連想する。寂照が入宋して天子にまみえるくだり、「寂照は紙筆を請ひて、我が神聖なる國體、優美なる民俗を答へ述べた」。神聖なる國體という言葉遣いは時流に合わせたのかもしれない。当時一般に考えられていた國體とは字面は同じでも内実が別のものである気もする。露伴は言葉に関しては音幻論があるように言語は音声という考えの持ち主、と同時に市井の庶民の言葉を大切にした人であると私は考える。現在の目で見れば難しい漢字も多いが、漢字かな混じり文という日本語を大切にした作家と思う。旧仮名遣いを追って読んでいるうちに久しぶりに心の内なる自分の言葉に出会う心持ちがしていたことを特に記しておきたい。
(露伴全集 第6巻 小説6 岩波書店 昭和53年 第二刷)