2014年8月19日火曜日

読書随想 唐木順三 『実朝の首』

唐木順三氏の「実朝の首」は昭和48(1973)年『歴史と人物』に掲載された。本稿は昭和文学全集28 小学館1989によっている。

大銀杏倒伏前の八幡宮。現在の上宮は1828年に再建されたもの
本編は鶴岡八幡宮で暗殺された三代将軍源実朝の首の所在が記録に残っていないことに題材をとり、当時の模様を誌した『吾妻鏡』『愚管抄』などを参照しながら首の行方を尋ねる史伝と推理のエッセイである。
『吾妻鏡』によれば事件の当日は二尺ほど雪が積もり、拝賀の儀式に参内する将軍一行の行列は午後六時に来た。行列の詳細も細かに書かれているが、優に百名を超す顕官に警護が千人とある。夜になってから退出。実朝が殺される場面は合戦のように大勢が入り乱れる有様で決して公暁の一人テロのような光景ではなかった。先年倒れた大銀杏は樹齢千年とかいわれていたが、建保七年は1219年だから樹はあったとしても大きくはなく、そこにかくれていたとは伝説にすぎない。『吾妻鏡』には「石階の際に窺い来たり」とある。まずこれだけをイメージして読み始める。
著者によって分けられた六つの節にしたがって書いてゆく。


秋の好日、小田急大秦野駅からタクシーで実朝首塚を見に行く場面から始まるこの文章は、それだけで著者が身近に感じられて読む気が出る。運転手が、実朝の首塚っていわれているが本当かね、とわざわざ此処を訪れるものずきをからかうような口ぶりで言った。
周囲が南京豆や大根の畠で、その中に欅、榎、楓の巨木のある百坪ほどの一劃にありきたりの五輪塔、傍に大正八年に建てられた大きな石碑、そこに刻まれた漢文の由来記を分かりやすくしたような案内記がある。
三浦義村の家臣武常晴(或いは武村常晴)が実朝の首を此処に持ち来たり、退耕行勇を導師として供養し、葬った。武常晴は武村(いまの横須賀武山)の人で.この地の領主波多野忠綱を頼って将軍の首をひそかにはこんだというわけである。忠綱は実朝の菩提のために近くに金剛寺を建立した。現にその寺は塚の北の丘陵地帯の裾にある。

さて、タクシーの運転手も此処に首が葬られているとは思っていない様子だ。多分この五輪塔は供養塔だろう。では、なぜここに実朝の供養塔があるのか。忠綱はなぜ金剛寺を建立したのか。
実朝が殺されたのは健保七年の正月二十七日、波多野忠綱は『吾妻鏡』では建保四年までしか名前は出てこない。また、忠綱は三浦義村との仲はよくない。健保元年の和田合戦で誰もが認める先陣先登でありながら義村と争って論功行賞に漏れた。義村は後に「友を食う三浦犬」と悪名が立ったほど盟友をも利で裏切る人物、忠綱は単純率直の武勇の士である。武義晴はワルの義村の家臣であるが、なぜ主人が敵対する忠綱を頼ってきたのか。史実にあたって著者の疑問が湧いてくる。


此処で序説は終わり、次節では『吾妻鏡』と『愚管抄』の叙述に従って実朝暗殺事件が著者の手によって再現され、事件のからくり、つまり一派の悪巧みがおおよそあからさまになる。しかし、ところどころ、どう解釈すればよいか分かりかねる、逆に言えば自由な補填が許される箇所があると著者は書く。
実朝が討たれたとき、『愚管抄』には公暁は太刀持ちを北条義時と思って斬り伏せたとしている。実はその太刀持ちは本来義時の役目であったが、文章博士の中原仲章が代理をつとめていたのであった。著者が分かりかねるというひとつはなぜ義時が仲章と役目交代したのかにもあると思う。ここには書かないが、このことに関係しそうな記述を著者は『吾妻鏡』から二、三拾って推理を働かせている。

著者も説明は付けてくれるが、公暁が実朝を討つ理由、「父の敵を討つ」と叫んだ敵はだれか、父とは二代将軍頼家であることなど、「国史」が学校の授業になかった世代の私はあれこれ資料に当って確認しながら読み進む。

http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/sanetomo/index.html



下手人公暁は将軍実朝と執権義時の両名を殺害したと思い込み、実朝の首を抱えて、ただ一人雪の下の備中阿闍梨の屋敷に入って、使者を立てて「今は我こそは大将軍なり」と三浦義村に通告して義村館へ赴く。この間公暁は食膳でも首を手放さなかったと伝えられる。
一方、義村は公暁の通告を義時にも連絡し、公暁討ち取りの命令を受ける。義村の館へ行く途上で公暁は敢えなく斬られてしまった。著者いわく、『吾妻鏡』では、実朝の首を抱えていた公暁が義村の家臣等に首を斬られたというところで実朝の首のほうは行方不明になっている。『愚管抄』では公暁殺害のくだりを誌した後に、「実朝が頸は岡山(鶴ヶ丘の裏山)の雪の中よりもとめいだしたりけり」と附加えているが、その首がどうなったかについては何も言っていないと。
義村は公暁の首を義時の御覧に入れたが、実朝の首はどうなったのか。
著者は義時が事件後も健在であることを義村は知っていた、だから公暁の言を義時に連絡するわけだが、仲章が義時の身代わりになったことをいちはやく通報されていたからだと見る。実朝暗殺の張本人だった義村は公暁を裏切ることによって一転身の安全を図ったのであった。

一月二十七日に凶変が起こることを義村はもとより、義時ほかかなりの人が知っていた様子だと著者は書いている。典拠は出していない。実朝は知っていたのかについては『吾妻鏡』に誌されているところをひいている。すなわち八幡宮の拝賀の式に出発する前、鬢を整えた随身の秦公氏に髪一筋を抜いて与え、折から庭に咲いている梅を見て「いでていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな」の一首を残したと。ほかにも、早い時期から不安を感じていたらしいことが、詠んだ歌のいくつかから判断できるとして例が四首挙げられている。

実朝の葬儀は横死の翌日、即ち二十八日に行なわれた。『吾妻鏡』はこの日、哀傷に堪えず、母政子が行勇律師を戒師として落飾し、秋田城介景盛等百余人が出家したことを報じた後に次のように誌している。「戌の刻、将軍家を勝長寿院の傍に葬り奉る。去夜御首の在所を知らず、五体不具なり。其憚有る可きに依りて、昨日公氏に給はる所の御鬢を以つて御頭に用ひ、棺に入れ奉ると。」
勝長寿院は頼朝が父義朝の霊を慰めるために建立した寺だが、いまはただ義朝の墓があるばかりで、寺は無い。実朝の墓の跡もまた無い。

唐木氏は上のように書くが『吾妻鏡』二十八日条には「御臺所令落餝御」とあって落飾したのは実朝の室である。母政子ではない。だから、この部分だけは著者の誤りと指摘しておこう。

ここでは著者は、まず当時の武士達にとっての首の値打ちについて読者に注意を促している。
保元平治以来、武家の首に対する関心は異常に高い。首実検によって初めて生死が決定され、従って論功行賞も決定されるわけだから、首は木の根、草の根を分けても探しださねばならぬものである。それが武士の習いであった筈である。実朝が首無しの五体不備のまま葬られたということは異常中の異常であった。この異常を『吾妻鏡』はなぜか追及していない。だからこそ実朝の首塚が問題になるわけである。

波多野忠綱に首を持参して供養を願い出たのは武常晴だという。この人物について著者はほとんど分からないと書いて推理が始まる。『吾妻鏡』によって、公暁を斬った義村の家臣は長尾定景と雑賀次郎以下五人の郎従と分かっているが、四人の名は不詳である。著者は四人の郎従に着目して武義春はこの中にいたと推理する。何やらアガサ・クリスティのポアロ氏の謎解きの場面のようだ。
定景は公暁を誅すべしという命を受けている。主眼は公暁の首にある。実朝の首など目にも入らなかったであろう。常晴はふとそのあたりにころがっている首を見つけ、それが実朝のものと判断し、人に知られないところにそれを隠して一旦は義村のもとへ帰った。なぜ義村のもとへ首を届けることをしなかったか。
常晴はかねがね首領ながら三浦義村の権謀また裏切りを快く思ってはいなかった。古つわものの親分定景は今回の事件での義村の変身をうすうす勘付いている。長年行をともにしてきた親分の心の機微は引率する郎従にもうつる。著者はこのように常晴の心理を探る。
常晴の心に実朝の首を義村の見参に入れることを不快とする感情が咄嗟に起こった。
公暁事件の余波が静まってから、常晴は実朝の首を隠し持って波多野忠綱を訪れ、一部始終を話して供養を願い出た。
なぜ忠綱を頼ったかといえば、和田合戦で義村との先登争い事件に見るように忠綱が義村とは正反対の剛直の士であったからである。
忠綱は実朝の首をひそかに森の中に埋め、世間がこの事件を忘れる頃を待って寿福寺の長老行勇を招いて、新たに建立した金剛寺で亡き将軍の霊を慰める供養会を催した。

推理を終えて著者は言う。すべてに実証があるわけではなく推理推定にすぎないと。
ここで著者は、「タクシーの運転手が『首塚っていうが本当かね』と私に言ったとき、私は『さあね』とあいまいな返事をした」と書く。冒頭の節では、本当かねと言う運転手のからかうような口振りと、運転手も此処に首が葬られたとは思っていない様子だった、との叙述だけしか書いていないのだ。読者はうまく誘導されてきた感じがする。最後に著者はいう。
あの首塚が事実無根かといえば、そうでもない。事実無根を証拠だてる資料も事実もないのである。
著者の勝利宣言のようだ。実質的に本編はここで終る。



寿福寺について開山は栄西。頼朝の菩提を願う政子の発願により頼朝が没した翌年正治二年である。元久元年十二月十八日南都より政子の御願による七観音像図絵が到着の折、供養の導師は栄西、将軍家御結縁のため渡御との記録がある。この年七月に前将軍の兄頼家が殺された実朝は十三歳であった。このときが栄西と初対面で以後屡々寿福寺に赴いて法話を聞いたりしていると紹介している。行勇はその栄西の後継である。八幡宮の供僧であったが、寿福寺の栄西に禅を学び、栄西の没後長老になった。十二歳で将軍になった実朝は最初に『法華経』講義を聴いて以後、なにかにつけて行勇を頼りに教えを請うていた。寿福寺に実朝と政子の墓といわれる五輪塔が並んでいることはや行勇との深い因縁を示している。

第六節には紀州由良にある興国寺(もと西方寺)の紹介があり、ここにも実朝の墓といわれるものがあるとのことで、その由来を『鷲峰開山法灯円明国師行実年譜』に拠って紹介している。
実朝暗殺の八年後、嘉禄三年に沙門でありながら地頭であった願性が施主で西方寺が建立された。この願性はもと実朝の近侍藤原景倫である。実朝に宋に渡る意志を打ち明けられ、その準備のために藤原景倫が九州博多に下ったところで実朝暗殺の報を聞いて、剃髪して高野山に登る。そこでたまたま筑後の前司の孫の西入という人物に出会う。
この西入が実朝の頭骨を持って髙野に登ったのである。西入の配下の侍が『葬所に於いて之を拾得す』と誌されている。そしてこの頭骨を西方寺に葬ったわけである。
これでは今ひとつ要領を得ない。西入が何者とも分からないし、葬所がどこかも不明である。

高野山金剛三昧院は政子の発願で建立され、初代別当は行勇である。法灯国師心地覚心は二十九歳で金剛三昧院で行勇に参じ、三年後行勇に従って寿福寺に行く。まもなく鎌倉を出て、諸国遍歴の後、四十三歳で渡宋し、六年後無門和尚の印可を得て帰国、髙野へ登ってまたも行勇に出会い、三昧院の第一座に据えられたが、四年後に由良の興福寺に移った。願性の願いを入れて実朝の霊を厚く供養するための「追修道場」とした。唐木氏の文章にはないが、覚心が西方寺に移った後、寺名が興福寺に変わったようだ。
源実朝公御首塚(秦野市のサイトより)

以上が「実朝の首」おおよその内容であるが、さて唐木氏の推理では首の在処は秦野であるが、由良西方寺にも、また、寿福寺にも墓がある。
私には『吾妻鏡』が首の所在に触れていないことが気になる。
『吾妻鏡』が首の在処を追及していないのは、一件落着したからではないか。つまり、『吾妻鏡』の作者はのちに首の所在を知ったが、何らかの理由で公表しなかった気がする。
首の所在を追いかけていたら行勇が出てくるという唐木氏の話をヒントとすれば、秦野の金剛寺開山に際し行勇が招かれているのは、そこに首があったからだとも思える。
第五節に唐木氏は『吾妻鏡』五月十二日の条をひいている。行勇が御所に来て「所帯相論の輩」について申し述べるつもりのところ、実朝は政事に介入するなと嗜めてとりあわなかったので、行勇は泣いて寺に帰り閉じこもってしまった、というのである。これについて唐木氏は、このあと三日おいて実朝は行勇をわざわざ寿福寺に訪ねて慰めたと『吾妻鏡』にならって簡単に処理しているのであるが、実朝が師弟の禮をとって両者涙を流しながら法話をかわしたとの寿福寺の老人たちの伝聞もある。唐木氏は材料の取捨選択に厳密さを保って伝聞のたぐいは捨てたのだろう。
(『吾妻鏡』建保5年5月15日壬辰条)(『沙石集』巻第9ノ13)
これほど親密であった実朝の供養だからこそ金剛寺に行勇も出てきたといえるのでないか。

『愚管抄』に「実朝が頸は岡山(鶴ヶ丘の裏山)の雪の中よりもとめいだしたりけり」とあるからには首が見つかったのであろう。誰が見つけたのでもよいがそれが金剛寺に来ているとしてもよいだろう。
そうであれば、唐木氏の推理が当っていてその続きがあったことになる。このほうが結末がめでたくてよろしいと思うがどうだろうか。
しかし、こんな単純なことなら唐木氏が書かないわけがない。何が支障なのだろうか。何とも気持ちの落ち着かない読後感ではある。

秦野辺を探っている人の情報には、金剛寺の周囲には武という姓がたくさんあるそうだ。これも興味ある話である。今売れている作家葉室麟氏に『実朝の首』(2013)という作品があることを知った。首の所在が不明では許されなかった人たちの時代、結論は出ているはずだ。情報が後世にまで伝わらなかっただけのことだと思う。現在の私たちが自由に推理を楽しんでも許されるだろうと勝手に考えている。
唐木氏の推理は丸谷才一氏が朝日新聞の文芸批評で激賞したと粕谷一希氏(当時『歴史と人物』社)が書いているのだが、読んでみたい。(2014/8)