正岡子規に縁のある人々が次から次へと登場する。子規はすでにいない。忠三郎さんが出てくる。子規亡き後に妹の律が母八重の実家からむかえた養子だ。
私が司馬遼太郎を好くのは彼が大阪人だからだ。彼が歩くと懐かしい地名が次々あらわれる。風景も当然ついて出てくる。ただし著者が訪れる時代によって違う風景だ。地名のゆかりや、時代に登場する人々の逸話など著者の得意とするところだが、これが嬉しい。
今度も、著者が大阪のタクシーで、梅田は百貨店の周りをウロウロしながら阪急本社をさがすことからはじまる。
出だしの章の表題は「電車」とある。忠三郎さんの社会人生活は電車の車掌からはじまった。小林一三の方針がそのようにした。ついでのようにして、明治43年の創業時代の関西私鉄の状況が語られる。
司馬さんの住まいは近鉄沿線だったが、大鉄と称した吉野行き電車で4歳の頃に見た車掌の様子など面白くサービスしてくれている。その内容は本文の流れに沿っているから決して取ってつけたようにはならない。
この作品は16の章に分かれている。年譜によれば、昭和54年8月から同56年2月まで「中央公論」に連載された。章立てと雑誌の号数との関係はわからない。
終わりの章は「誄詩(るいし)」と題されてある。ときに難しい漢語を好むのはこの著者の習性のようだ。おそらく自分の想念によく合うためだろう。誄詩とは「死者の生前の徳をたたえる詩」と広辞苑に出ている。
この場合、死者は忠三郎さんで、詩を贈ったのは作中でタカジと名のっている人、このとき信州は佐久の病院で食道がんの死の床にあった。詩人としての名は、ぬやま ひろし、本名、西沢隆二、風変わりな元党員である。昭和9年から12年間、未決監房にあった。忠三郎さんに遅れること8日にしてこの世を去った。昭和51年のことである。
終始主軸になるのは忠三郎さんとタカジであるが、その余の人たちをも含めて著者は場面に応じて小出しに人柄や立ち居振る舞い方を出してくる。よくもこれだけの人たちを描き分けて、まとめられるものだとその手腕に感心するが、先方は作家だから当然かも知れない。
どのようにして材料を揃えるのだろうと考えたりもするが、思い出すのは井上ひさしがよく話していたことだ。司馬さんが何かを書こうとすると、古本屋街から関連する本が一斉に姿を消してしまうという。この作品で言えば、『坂の上の雲』のために集めた材料がほぼそっくり使えたであろうとわかる。それにしても使い方がうまい。
最後の章、誄詩のはじめに書いている。
この稿の主題は、子規の「墓碑銘」ふうの、ごく事態に則したリアリズムでいえば、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったかと思っている、と。そして続ける。忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによつてもう一度聴きたいという欲求があった、と。
ここで読者は考えてみる。『子規全集』ができた経緯を述べるだけなら、こんなに複雑な人間関係の入り組みを長々と書くことはないのだ。この作者は大勢の縁者たちの集団が、ある時代にお互い無意識のうちに暮らしていた生活の中から、瓢箪から駒のようにして出来上がった『子規全集』をめぐって、取り巻いていた情景をつぶさに覗いてみて、そこにいた人たちの跫音に耳を澄ましてみたかったのだ。
ある人は地味な小説だと評する。それよりも、これは小説かと首を傾げる人もいる。でも読んでみれば、そんなことはどうでもいい。舞台に現れるそれぞれの人たちに作者は心を寄せて話を聞いているのだ。読み終わった読者はもう一度反芻しながら人々を回想する。ついいましがた知った人たちばかりなのに、実に懐かしい想いを抱く。少なくとも筆者はそうだった。
途中に多くの司馬さん一流のサービスがある。
南シナ海は香港の沖合にある東沙群島が話題になる。現代中国のことではない。明治40年頃、タカジの父親吉治は、これが無人島と聞いて事業を始める。まるで自分の国にでもするつもりか、西沢島と名づけて紙幣まで発行したという。清国から抗議されて日本政府が評価した金銭で清国が買収してその領有を認めた。西沢吉治は大損した。
島の評価のため日本政府が軍艦三隻を連ねてやってきた。そのうち軍艦「明石」の艦長は鈴木貫太郎大佐、「音羽」館長が秋山真之中佐だった。吉治と秋山真之の親交がこの時始まったというおまけがつく。
また、忠三郎さんの妹は事情あって修道女であった。戦争中のこと、軍は占領したフィリピン統治策にキリスト教を利用しようとした。カトリック国のフィリピンに修道女を集めて送り込むことにした。同時に別の種類の女性も集められた。兵隊の慰安所を作るためだ。
彼女らは大阪に集合させられたらしい。ここから列車輸送され、下関から一ツ船でもって、フィリピンに送られるのである。この異様な光景が、あの戦争に関する厖大な記録、資料のなかに一行も見かけないのは、どういうことであろう。著者はこの話題に深入りはしない。妹の修道女を大阪駅頭に見送った忠三郎夫妻がこのくだりの主題だ。ふだんのっそりしている忠三郎さんが忙しげにホームを走りまわっている。あや子夫人にとって、走りまわる亭主の姿は異常な印象だったらしいと書いてある。
忠三郎さんは富永太郎の手紙をたくさん保存していた。若くして逝いた詩人の名が、忠三郎さんの古ぼけた伊丹の家の押し入れの奥から現れたことに読者は驚かされる。同時にこのことは著者をも戸惑わせたらしい。
この両人は東京府立一中で一学年違い、仙台の二高では同級であった。わかってみればなぁんだということかも知れぬが、最晩年の四年の間に太郎が忠三郎さんに書いた手紙が156通となればただごとではない。著者は大岡昇平氏の助けを借りてこのくだりを続けている。ここでは二人の交友について書くことはしない。
富永太郎による忠三郎さんの人物評は「独自のボヘミアン的孤立生活者のスタイルを作りだしていた」というものだったことだけ記しておこう。
筆者の感想では、生い立ちの環境が、長じて後の忠三郎さんの性格をしからしめたのではないかというものであるが、底抜けの善人めいたやさしい人である半面で、うちには頑ななほどのきつい芯を持っていたように思える。
あれやこれやと、一読後いろいろな人物像が思い起こされるが、途中で、はてこれはどういう関係の人であったか、などと突然の再出現に戸惑ったりする。筆者は系図、または相関図のようなメモを作って、ときどき参照して読み進んだ。
明治の家禄奉還の頃から昭和51年までのことが話柄になっている。以来およそ80年余りの時が流れた。その間の、多いといってもひと握りの人々の暮らしだが、ひとびとの生活史であり、社会史でもある。
この作品は昭和54年単行本化された。今回は『司馬遼太郎全集50』昭和59年文藝春秋社(平成12年第5刷)で読んだ。(2016/8)