2016年7月22日金曜日

お稲荷さんと狐

『狐』という本が図書館の棚にあったので読んでみた。陰陽五行に詳しい吉野裕子博士の著書である。狐にかかわる日本の民話・伝承・信仰は古来数限りなくあるが、大体が狐の生態によってとらえたものと「中国における狐」の影響をうけたものの二点にしぼられるという。たとえば、狐の生態のなかで、もっとも特異とされるのは、苛烈な「子別れの儀式」だそうだ。

春先に子を産んで秋口にはそれまで慈しんでいた子を猛然と追放する。親から離された子狐は自力で一本立ちする厳しい生活に入る。こういう生態から人々は「子別れ」の親子の間の感情を想像することで、「葛の葉」のような演し物が誕生する。
ついでに、ちょっと調べてみたが、有名な陰陽師、安倍晴明は、安倍益材の子、賀茂の某に陰陽道を学び云々と経歴があちこちに書かれているが、系譜は不明であるという。なるほど出自が不明であればこそ「葛の葉」の狐の子にされてしまったわけだ。吉野さんの研究に関係はないが安倍晴明が陰陽師というのも無縁ではなさそうだ、などとひとりで楽しんで読み始めた。

中国の狐との比較で面白いと思ったのは狐の化け方だ。内田百閒の『短夜』の狐は女に化ける前に水辺で藻を頭にかぶるが、これは日本式。中国式はドクロをかぶるそうだ。
吉野氏は「中国における狐」の影響に二通りあるという。ひとつは古代中国の哲学である陰陽五行思想の理を負う狐の影響、他は百歳とか千年の劫を経た老狐が妖怪となって種々の妖術を使う、その種の狐の影響である。

後者の例を筆者は東北道下り線の上河内サービスエリアにある食堂で知った。旨い蕎麦を食った食堂の名が「九尾」とあり、これは中国渡来の妖狐である。伝説は江戸時代の浄瑠璃『玉藻前』に伝えられている。お姫様の正体が妖怪であることを見破ったのが、これもまた陰陽師の安倍のナニガシで、那須野で退治したが、すぐには死なず後々まで殺生石の伝説を生んだという。

吉野裕子さんの文学博士号は「陰陽五行思想から見た日本の祭り」という論文に与えられた。表題にいう祭りは「おみこしワッショイ」のそれではなく、大嘗祭や伊勢神宮にまつわる祭祀などのことである。日本古来の祭祀を古代中国の哲理である陰陽五行の思想で解けばまったく別の姿が見えるらしい。

本書『狐』にはお稲荷さんと狐の結びつきの不思議を陰陽五行の考えを当てはめると納得することが多いということが述べられている。日本の狐伝承には中国の狐が影響しているとは、これまで知らなかったが、陰陽五行説という中国哲学が民間伝承の地位に置かれたまま正面から研究してみようという学者がいなかったのが不幸であったと思う。日本の土地に日本という國が生まれる前は、海を越えて来たいろいろな人たちがいたわけで、そういう人々が抱いていた伝承や信仰も同時にもたらされたのは当然であろう。

後漢の許慎著述の『説文解字』略して『(せつ)(もん)』は、完成が紀元121年、中国文字学の最高古典であり、もっとも古い漢字字典だという。その『説文』によれば狐に三つの徳がある。

1)其ノ色ハ中和。(2)前ヲ小トシ、後ヲ大トス。(3)死スレバ則チ丘に(カシラ)ス。

この三つが狐の持つ徳性であるとされる。今ここで関係あって大事なのは(1)の中和で、これは狐の「土徳」を指す。世界の森羅万象は有形無形を問わず、木・火・土・金・水の五元素のいずれかに還元され、この五元素は青・赤・黃・白・黒の五色によって象徴される。狐はその体毛が黄色いことから土気の徳を有するもの、土気の神は后土で土を掌る神、つまり狐は神の象徴として尊ばれた。(2)は狐の形を指している。これを北斗七星の形、(ひさご)を縦割りにした杓子に見立てて、食糧に関係する神と考えた。
(1)(2)は農耕に深い関係を持つ神々であって、狐はその色と形から地上におけるこれらの神々の象徴・依代として社に祀られることになった。これが、狐が農耕神と崇められるようになった、と吉野さんが考える大筋である。ここでは吉野さんの序説の説明を随分端折った。それは俗信だろうとかいわれても、なにしろ2千年の昔、古代中国の人が考えたことを文献によって導き出した推論なのだ。
()()」ということが紹介されている。「狐に(つか)えること」つまり「祀ること」である。
朝野僉載(ちょうやせんさい)*という文献の大意が紹介されている。「唐時代の初めから、百姓の多くは狐神を自宅の中に祀り、狐神に仕えてその恩恵にあずかることを希求した。その流行はめざましく、当時、村のある所、必ず狐神があり、狐の祭祀なくしては村は形をなさない、とまでいわれた。」とある。
なぜこのように狐が信仰されたか、理由は二つ。中国農村において、五行の中の土気が最も尊崇されていたこと。全身が黄色の毛で蔽われている狐は、土気象徴の化身とみなされ、土徳の神として格好の信仰対象になったこと。正真正銘の土徳の神は「后土(こうど)」であり、地を掌り、五穀黄熟をもたらし、「社」に祀られる神である。后土は格式が高く、その祭祀はいわば公的である。
一方、狐は黄色の故に土気象徴とみなされ、その結果、土を掌る后土とそのを一つにすることになる。「后土」が尊貴で、そのうえ象徴的な存在で、目にすることも耳に聞くことも出来ない神霊であるのに対し、狐は村人の身近に常にあり、土気象徴の美しい毛並みを、この目で日常、つねに見ることが出来る存在なのである。となれば中国の農民が豊作祈願の対象として狐を信仰し、穀物神として祀ったのは極めて自然の成り行きであったろう。
*筆者注:『朝野僉載』。唐代、 則天武后のころ張族鳥が、 朝廷と民間とで見聞した事柄を書き留めた随筆集。 唐書・旧唐書の列伝に現れてこない人物の傳記やエピソードの中に、 当時の風俗習慣が記載されている貴重な資料である。(汲古書院のホームページより)

吉野さんは稲荷と狐の関係を伏見稲荷大社の縁起から説き起こしている。一つは、『日本書紀』欽明記冒頭に天皇幼時の霊夢についての記事がある。
秦大津父(はたのおおつち)という者を探して召しだされ、ご寵愛になれば、必ず將來、御位につくことが出来るだろう」という夢であった。そこで使いを出して国中を探したところ山背國紀伊郡深草の地にその者がいた。召し出して、重用したところ、やがて帝位につくことが出来、秦大津父は大蔵卿になった。もう一つは、『山城国風土記』逸文の記事である。

伊奈利社風土記に曰はく、伊奈利と()ふは、秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)()が遠つ(おや)伊侶具(いろぐ)秦公(はたのきみ)稲架(いね)を積みて富み(さきは)ひき。(すなは)(もちひ)をもちて(いくは)となししかば、白き鳥となりて飛び(かけ)りて山の峯にをり、伊禰(いね)奈利(なり)()、遂に社の名となしき。その苗(すゑ)に至り、先の(あやまち)を悔いて、社の木を(ねこ)じて、家に()ゑて()み祭りき今、その()ゑて()きば(さきはひ)を得、その木を()ゑて枯れば(さきはひ)あらず
吉野裕子『狐』より引用)。

このように稲荷社の起源、稲荷社の名、および神木の由来が述べられている。ここで明白なことは、稲荷社の奉斎者が古代日本における最大の大陸渡来氏族、秦氏であること、および「欽明記」の記事にあるように、深草一帯が秦氏の居住地であったことの二点である。深草の地に鎮座する稲荷社が、秦氏によって創始されたものであることは疑いのない事実とされている。

伏見稲荷大社の祭神は「宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおがみ)」であって、狐はその神様のお使いだとされている。けれども現実には、稲荷といえば狐、狐といえば稲荷が連想されるほど日本人の心のなかでは稲荷と狐は一つになっている。さらに「二月初午」、「朱の鳥居」、「油揚げに小豆飯」と連想がつながっている。互いに別々のこれらのものが何故に緊密に結びついているのか。しかも当たり前すぎて誰も疑問にしない。しかし、いったんこれらのことに疑問を抱くなら、つながりの原因は神様ではなく狐にあると考えつく。信仰の対象はいつの間にかすり替わって狐になっているわけである。ただ、神社に祀られているのが神様ではなくて狐だとは、日本人としては、ちょっと言い出しにくかったのかもしれない。
それが、実は大陸から渡ってきた秦氏がそのようにした、狐信仰は、上に見たように、中国の習俗であって、それが日本の土地に伝播した結果だとなれば大いに納得できようというものである。

風土記に見られる稲荷社の創建は伝承であるが、現実には諸文献に稲荷社創祀が記録されている。
『延喜式神名帳頭注』に「人皇四十三代、元明帝、和銅四年辛亥(かのとい)、二月十一日戊午(つちのえうま)、始めて伊奈利山三ヶ峯の平らかなる処に(あら)はれ()す」とみえ、『神祇拾遺』には「和銅四年辛亥、二月戊午日」とある。これらの文献から推して、稲荷社創祀の暦日、「和銅四年辛亥、二月十一日戊午」というのは、稲荷社の社伝とみて間違いないとされている。ちなみに和銅四年は711年である。
稲荷の例祭は以後、今日に至るまで、「二月初午(うのつきはつうま)に執り行われている。このように定められた理由を吉野氏は当時の社会背景から為政者の思考を陰陽五行の理で推理する。
社会背景とはこの場合、和銅元年から三年の天候不順、長雨・大風等による凶作、飢餓、疫病などであった。続く年について当時の為政者は暦日で予測して対策を立てる。和銅四年と五年も引き続いて水禍が予想され、それに対処するための呪術が案出される。これが和銅四年辛亥二月戊午日を期して行われた稲荷神、つまり土徳の狐神勧請鎮祭だった。
狐の土徳による水の撃退、「土剋水」の理による水の抑止だ。戊午つちのえうまを重視するの天干が土気の狐の象徴と見、地支のは火であるから、「戊午」は「火生土」の理で火によって顕現する狐であり狐神創祀に最もふさわしい日である。伏見人形(画像参照)に表される「馬上の狐」が、最高の相を持つと信じた当時の心情を表す像で決して面白半分の玩具ではない。



実は、稲荷創始の暦日が「和銅四年二月十一日戊午」に定着する以前は、学者・研究者たちに暦日の疑問があった。島根大学の故友田吉之助名誉教授が秦氏の使用していた暦を特定したことで吉野氏の推理が正しいと判明したらしい。大変な研究のようで吉野氏は学恩に感謝している。

暦日決定に至る経緯は吉野氏の推理であったが、その後の文献にこの推理が妥当であったことが証明されている。すなわち、『続日本記』和銅五年七月条に、「伊賀国、玄孤を献ず」とあり、玄孤は黒い狐で瑞祥である。朝廷はこれを(よみ)して、同年九月に詔をくだして、子の年は五穀の実りよくないとの言い伝えであるが、思いがけなく豊作になった。そのうえ瑞祥とされる黒狐が出現したのはこの上ない(よろこ)びであるとして、罪人の大赦と租税の減免が行われ、国を挙げての歓迎となった。これを五行の理に照らせば、黒は水の象徴、狐は土の象徴であって、「土剋水」の理でもって黒狐は水を抑える(この説明を筆者はまだよく理解できない)。詔の中で子の年は五穀の実りが良くないとするのも、子の年は多雨を意味し、水禍凶作という意識が社会一円に浸透していた事実を物語る。和銅五年の秋九月の大詔は、打ち続く天候不順への対策としての狐鎮祭を推理したことの妥当性が
立証されたわけで、吉野さんの勝利宣言でもある。

稲荷と「朱の鳥居」の関係は明確な理由付けはまだないとしながらも、吉野氏の私見として「火生土」、すなわち「火は土を生ず」の理によるものだろうと書いている。土徳の持ち主である狐を祀る場所の入り口に火気の象徴の赤色を置くと考える。赤い幟も同じ。小豆飯、赤飯を供えるわけも土徳の狐を養うための食物の意味が込められていると。油揚げの色、黄色もまた狐の力の補強になると考えられている。

初午の伏見稲荷に詣でた人が境内の杉の木の枝を折って福を願う習わしが平安時代からあるそうだ。「験の杉」という。藤原光俊の歌「きさらぎや けふ初午のしるしとて 稲荷の杉のもとつ葉もなし」は初午の賑わいと併せて杉の葉の人気を、杉の下葉が一枚も残っていないと詠んだ。
江戸時代の国学者伴信友の著作『験の杉(しるしのすぎ)』は伏見稲荷の考証でもっとも権威があるとされている。『験の杉』には前述の『山城国風土記』に「験の杉」の起源を求め、秦の伊侶具の子孫が過ちを悔いて社の木を根こじして家に祀り、祈ったという故事にある木を杉と推定し、同種の杉を植えてその葉を持ち帰ることが風習となったのだろうと書いてある。なぜ「しるしの木」が杉であったかについて、社家の秦親盛撰『稲荷谷響記上』にみえる社の古伝に「影向(ようごう)の杉」とあることを吉野氏は紹介している。影向とは神の顕現を意味するが、吉野氏はの字から推理して、字のつくりの「(さん)」の意味が「アヤ」刷目(はけめ)」で、毛の長いこと(『大漢和辞典』)から見事な尾を持つ狐の象徴として杉の字がふさわしいと説を立てる。稲荷神が狐でなければこれほど杉が珍重される理由にならなかっただろうという。
さきに狐に三徳ありといういわれを紹介したが、うち(2)は、狐の体つきの形から(ひさご)を連想し、それはまた北斗七星につながった。北極星の周囲を規則正しく回転する北斗七星が天然の時計となって暦として利用され、農事の目安となり、穀物神となった。よって狐は北斗七星の依代である。それはそれとしても、それ以前は、(ひさご)を縦に割った形、つまり食器として大匙の形が素朴な信仰の穀物神とされた理由だろうと吉野氏は考える。
「北斗という天の大匙を経由することなしに、宇宙太一への供饌は届かない。それ故に天照大神(太一)は、自身の御饌津神として北斗七星、即ち豊受大神を身近に祀ることを要求されたのである。その間の事情は外宮鎮座伝承の中におおよそうかがわれる。」
(『狐』120ページ)

同じページに神楽歌が示されている。
ひさかたの天の河原に豊竃(とよへつひ)御遊(みあそ)びすらしも(ひさ)の声する(神楽歌)
吉野氏はいう。
「日本古代において「ひさかた」は天の枕詞であった。それには「久方」とか「久堅」が当て字されるが、おそらく「瓠形(ひさかた)」であろう。北斗は人類への貢献度において卓越し、天を代表するに足る星座と見做されたに違いなく、この北斗と二つ割りにした瓠は相似形だからである。」(同121ページ)
筆者はここに枕詞「ひさかたの」の語源を知ってひそかに快哉を叫んだものであった。

本論に戻って、本書にはこのほか稲荷社の白狐についての説明が続くが、陰陽五行の理だけでなく、空海が介在する伝承が関係する。それは伊奈利山の故事や初午の起源より100年後の話であるが、仏教との習合のことにつながってゆく。空海がかかわる伝承が混じると話が広範囲に広がり何やら俗っぽくなるのが常である。時代が下って金儲け、経済が絡むことで、特に江戸期にはそれこそ数万の稲荷社が存在するに至る。そこには真説もあるのだろうが、創祀起源にみられるような真摯な素朴さがない。筆者はこれを嫌う。白狐には「土生金」の理があるため、金属・貨幣・富・財を生む呪物であり、信仰の対象となることが理解できれば十分だ。

一つだけ気になるのは伏見稲荷大社の祭神の伝承である。中国農村では狐を祀ることが盛んであったなら、最大の渡来氏族の秦氏によって創祀された伏見稲荷の主神が狐であっても不思議ではない。それが神のお使いだとされてきたことは、何かに対する遠慮めいたことなのか。吉野氏は違うという。主神は狐に違いないのだと。

主祭神、宇迦之御魂大神の「ウカ」は梵語で白蛇をいう「ウガヤ」であろうとする。
つまり稲荷山には蛇が祀られていたが、移住者の秦氏が狐を祀ったのだと吉野氏は考える。秦氏の勢力が大きくなって先住の神つまりは神に仕える禰宜が追い出されて別の場所に移ったものであろうとする。

稲荷山の山の姿は奈良の三輪山に似て神奈備山であるという。つまり神がいます山で古代日本では普通に見られる信仰である。その神の依代は蛇であるのが普通だったが、和銅の創祀が狐神の徳に頼るものであったことから狐神の力が強くなった。稲荷の神は狐として信仰を集めた。伏見稲荷の御神符(おふだ)にはしたがって蛇と狐が描かれている。図の上下関係は祭神の優劣ではなく、祭神の変遷の時間的推移を表しているとされる。


この書物は日本と中国の文献や伝承も含めて狐の話題を陰陽五行と関係させて語ってくれる。陰陽五行思想は随分複雑で難しい理屈らしいが、ここには必要最小限にやさしく説いてくれる。稲荷だけでなく全般に人間が作ってきた歴史の奥行きを窺わせる興味深い作品と思う。(吉野裕子『狐 陰陽五行と稲荷信仰』法政大学出版局 1980年)

(2016/7)