2015年7月2日木曜日

鷗外ところどころ

「安井夫人」のあと、吉野俊彦『鷗外百話』を読み、いまは松本清張『両像・森鷗外』を読んでいる。清張のは評論であり複雑な要素を緻密に構成しているため、時には読みづらく前進と後退の繰り返しである。これらを読みながらあらためて考森鷗外について考えついたことなどを書き留めたい。

「安井夫人」を読んでいてちょっと首を傾げた部分があった。麻布長坂裏通りに移った年、仲平は松島まで観風旅行をした、という箇所である。旅の服装を書き留めている。「浅葱織色木綿の打裂羽織に裁付袴で、腰に銀拵えの大小を挿し、菅笠をかむり草鞋をはくという支度である。」日常の仲平には見られない、いわば盛装ではないか。贅を尽くしたとかいうのではないが、仲平の生活からいえば晴れ姿のような感じがする。こういう叙述をこの箇所に挿入してあるのはなぜだろうと考える。必要な叙述だろうか。前後と脈絡はなさそうだが、どういう意味があるのだろう。
ふと思ったのは著者鷗外は仲平が好きなことである。本に埋もれて過ごしてきた慎ましい暮らしにようやく余裕が出来た。ちょっと世間並みの勇姿を見せてやろうとの著者の親心みたいな気持ちをここに表したと見るのはどうだろう。挿入箇所はほかでもよかったかもしれない。お佐代さんもこの姿に満足したのではないかな。



鷗外が執筆した著述のうち軍務に関わる論文等の約三百篇は軍医という職業上の本務である。その他の作品は余暇にものされたいわば余技となる。こちらの評判がよろしかったのが軍内部の反感を買ったようで、小倉に転任させられたことをもって左遷と考える研究者も多い。小倉時代には売文は鳴りを潜め、もっぱら「即興詩人」の飜訳に励みフランス語など勉強したという。東京に帰り咲いた後、再び文芸作品を書き始める。明治四十五年から後は歴史ものに転じる。
「安井夫人』は歴史小説として一括りに分類されるが他の歴史ものとは作風が大いに違うように思える。
松本清張は『両像・森鷗外』(1985年、文藝春秋)の中で、
鷗外は十四篇の歴史小説を書いている。「興津彌五右衛門の遺書」「阿部一族」のほかは、「佐橋甚五郎」「護持院原の敵討」「大鹽平八郎」「堺事件」「安井夫人」「山椒大夫」「津下四郎左衛門」「魚玄機」「ぢいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」「寒山拾得」。 殉死の二篇を別にすれば、あとは主題に一貫性がなく、ばらばらである。テーマ小説ではないからそれでよい。
と述べている。また「高瀬舟縁起」には、それがひどく面白いと思った話を書いたとある。「追儺」では、小説というものは何をどんな風に書いても好いものだという断案を下している。その結果を松本清張は、作品群に系統がなくばらばらであり、出来、不出来も仕方がないとする。こういう見方をすれば、「安井夫人」がなんとなく中途半端な作品に思えるのも理解できる。
そこで私流に考えてみる。「安井夫人」を書き始めるにあたって鷗外は、夫人ではなく安井息軒を書こうと思い立って材料を集め始めたのでないだろうか。息軒は儒者であり、その考証学という学風は鷗外の好むところであったし、貧しい中で刻苦精励する生き方にも共感していたと思われる。ところが、調べるうちに出てきたのが十六歳の美人で、好んで不男のもとに嫁いだというお佐代夫人のことだった。話材としては格好のものだというわけで、息軒伝から方向を変えてお佐代さんの逸話を「ちょっといい話」的に仕立てあげることにしたのかもしれない。

そしてさらに言えば顔の話がある。吉野俊彦氏の『鷗外百話』にある「第五十話 森鷗外の顔」である。
「執筆の過程でひもとく全集に載せられた鷗外の晩年の写真を見ると、日本人としてここまで立派な顔があるのかと思うほどすばらしい」とある。また、芥川龍之介「森先生」の文章を紹介している。漱石の葬式に来て受付に名刺を差し出した人、「その人の顔の立派な事、神彩ありとも云ふべきか。滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり」というものだ。この年の鷗外は55歳で予備役に入れられて浪人中であった。そして吉野氏の見るところでは、若かりしころの鷗外の顔は、全集に載せられた写真を見ても、それほど立派だったようには思われないのだそうだ。鷗外の二女小堀杏奴さんの思い出にも、「人間は親から貰った顔のままではいけない。その顔を自分で作っていって立派なものにしなくてはならない」とよく言っていたそうであるが、その言葉の通り、晩年の父の顔は實に立派な美しさを感じた、とある(小堀杏奴「晩年の父」)。吉野氏は、その人の境遇は別としても、その人の教養や努力によって、生まれた時の顔は徐々ではあろうが、おのずと変化してゆくことは鷗外の実例で証拠付けられたと信じて疑わないと述べている。
ここで思い当たるのは不男で猿と呼ばれた安井仲平さんである。同じように疱瘡で片目になった父の滄洲翁が仲平の嫁探しにあたって、「顔貌には疵があっても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取るにしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。仲平なぞもただ一つの黒い瞳をきらつかせて物を言う顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目ばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識った女をよめにもらってやりたい」と切望するのである。

以上に述べたような要素が「安井夫人」を生んだとも考えられるなぁというのが、私の新たに得た感触である。

吉野俊彦氏は日本銀行調査局長を経て理事まで勤められたが、勤務の余暇には森鷗外の研究に余念のない生活を送られた方である。銀行の仕事を終えたあとの時間は自宅で夕食後仮眠を取り、その後は書斎で午前二時まで経済評論執筆や鷗外の研究に勤しんだとは自らも公表されている。それというのも森鷗外が公務を終えたあとは自宅で深夜まで読書と執筆に過ごした勤勉ぶりに打たれて、同じサラリーマンという共感からその生活態度を模範と仰いだのだという。ここにいう共感には生活リズムが似ているという表面的なことのほかに同僚や上司などとの軋轢、嫉視など不愉快な環境が当然含まれる。


津和野藩の藩医であった白仙は参勤交代で帰国する藩主の供をするべきところ、折悪しく持病の発症で同行が叶わなかった。逸る気持ちを抑えながら江戸で三ヶ月養生してようやく小康を得て旅立ったものの途中土山まで来て脚気衝心で急死したのであった。この時代、藩主の旅には武装警固よりは主君の不時の発病、食あたりなどの手当が最重要事になるはず、藩医として供をするその役目が務まらなかった事こそ最大の不忠だ、十二代もの間頂戴してきた禄を離れるかもしれない恐怖、白仙の心中は深刻であった。それがために病の小康を得たのももどかしく帰途についたのがあだになった。宮仕えの悲しさである。荒れた古塋域に祖父の墓を見つけ出した鷗外の像は清張氏の「両像・森鷗外」冒頭の挿話である。
森鷗外は徹頭徹尾官僚人だ。官僚人たるの資格は上昇志向、であると清張は書く。「鷗外は偉大なる文学者であると共に一面決して昇進や栄転に無頓着ではあり得ない官吏の心理に支配せられた人であった。それはその手簡や日記や作品の或る物に示されている」との小泉信三氏の言(「山県有朋と森鷗外」(文藝春秋昭和四十年五月号)が紹介されている。
三年間の小倉勤務を経て東京に戻った鷗外は二年後に日露戦争に出征する。凱旋の翌明治四十年陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる。この官職は軍医の最高位で、中将相当官である。四十六歳。
難解とされたクラウゼウィッツ「戦論」の原著を読みこなした鷗外は、留学先や小倉の師団内で講義して、その評判は賀古鶴所という親友を通して山県有朋にも達し、山県の歌会「常磐会」設立などに加わって親愛される身となった。

官吏の世界では高位高官ほど矩に縛られる。軍人である一方で文学者としての鷗外はだんだん作品の表現が窮屈になる。歴史物の最後に考証学者に題材を得て、鷗外はようやく煩瑣な配慮から逃れて自由な気分で著述に専念できるようになったようだ。
『渋江抽斎』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』の考証学者の伝記三部作のうち『北条霞亭』は大正六年から九年にかけて断続的に発表された。この間に予備役に編入された。次いで帝室博物館総長と図書頭として宮内庁入りとなる。これは山県の推挙によるものだ。大正十年には宮内庁図書寮から『帝諡考』を刊行、つづく『元號考』を未完のまま亡くなった。じつはこの年辺りから鷗外の健康は急速に衰えていたらしい。

これらいわゆる史伝は難しいから私は読んでいない。当時の新聞に依頼された連載として始まったものの中身は漢字だらけ、漢文のしかも白文のまま出てきたりして到底読者の受け入れるところではなかった。それでも委細構わず書き進めたように伝えられている。私は考証という仕事を鷗外が好んだから、考証学者の伝記執筆は余生の過ごし方として喜んでいたのだろうと想像していたがどうも違うようだ。『渋江抽斎』の出来が良かったことについて清張はその成立過程を詳しく追っているが、抽斎の三男渋江保氏という著述家の寄せた資料に大きく負っていることが明かされている。また、「両像」の末尾近くには北条霞亭という人物は伝記を書くには全く魅力に乏しい人物だったのに、なぜ書いたのかを追求している。清張はこれを書いた時期の鷗外の健康と霞亭の死因を関連付けている。
北条霞亭の死は萎縮腎か脚気衝心かという問題を鷗外は考えていた。萎縮腎なら自分の死を予期する、脚気衝心なら祖父の森白仙と同じだとして、霞亭という人物への関心をこの点に見出して完結まで書き継いだように清張は述べている。


多田伊織「言葉から実践へ―森鷗外晩年における『考証』:の概念規定」という論文を読んだ。 
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/kosh/2013-11-29/s001/s034/pdf/article.pdf 
京都大学人文科学研究所の女性研究者であるが、普段から考証学に親しんでいるという。その方法はテクストを集め、関連する記述を抜き出し、時系列で比較し、異同を検討するやり方なのだそうである。この方法を援用して鷗外が考証学にとった態度を研究したのがこの論文だという。おかげで勉強させてもらった。

一般に鷗外の死因は萎縮腎とされている。それはそのように公式発表があったからでもあるが、実は早くから肺結核症であったという事実が隠されていた。当時の肺結核は不治の病であり、ドイツで衛生学を修めた軍医としての体面上秘匿すべき事実でもあったろう。大正八年には結核予防法も交付された。医者としての鷗外は自分の病気を生涯かけて隠し通さなくてはならなかった。
鷗外の肺結核について、多田氏の論文は医学的見地からも詳細に伝えている。死因が肺結核であったとの公表は長男於菟氏によるラジオ放送であった(森於菟『父親としての森鷗外』ちくま文庫、1993)。
多田氏は霞亭が萎縮腎であったこと、その病気は進行性であって鷗外も患っていたこと、いわば死を呼ぶ病であって、結核症にも関係していることから、鷗外が自分の死後、世間が『北条霞亭』に秘めた自分の思いを見出してくれることを期待したかもしれないとしている。ちなみに石川淳が昭和16年の『森鷗外』に萎縮腎という持病が『北条霞亭』に関係していることを見抜いていた慧眼を清張は賞賛している。

さきに「安井夫人」について感想を書いた最後に、「石見人森林太郎」が何を意味するかに触れた。肩書や身分にとらわれない人そのものを表す気持ちとしておいたのであったが、自由人と言い換えられるように思う。もちろん自然人としてではなく、思想、精神的に枠にはめられないで思う存分に書くことが出来る喜びを表す言葉としてである。松本清張はこれを官吏であることから抜け出し得て、文学者になったことだろうと推理している。遺言に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルゝ瞬間アラユル外形的取り扱ヒヲ辞ス」とあることから官吏の身分からの離脱を意味すると解したのであろう。私は同時にもっと広い解放感も意味したのでないかと思っている。(2015/7)