2015年10月1日木曜日

『年を歴た鰐の話』山本夏彦訳、レオポール・ショヴィ原作

あれこれ参照しながら本を読んでいるときに偶然その存在を知った本。辛口コラムで著名な山本夏彦氏(2002年死去、享年87歳)が24歳のときに翻訳した作品。昭和16年のことだったそうだが、文藝春秋社のホームページには「幻の名訳を完全復刻!」とのコピー入りで同氏の一周忌を前に復刊した2003年版を紹介している。これは昭和22年にもとの版元櫻井書店が判型を横版に変えて再刊したものが底本になっている。
あるブログには山本氏の本の最後には著書一覧があって、この本が一番最初に書いてある、とあったので、へぇ、と思って確かめたらそのとおりであった。同じ大きさの活字でズラーと並んだ書名の最初ではあるが今まで全然気が付かなかった。だいいちこんなところまで目が行ってなかったらしい。あらためて書名リストを確認はしたが、それだけでは取り立てて注目すべきとも感じない。フツーの本並でしかない。後述のようにそれが5万円の稀覯本(?)と知れば、俄然まるでそこだけブロック活字ででもあるかのように見えてくるから不思議だ。見る者の欲だろうか、いや別にほしいとは思わないから野次馬の目だろう。文字に命はないから、これは人間の意識の問題だ。別のブログ「最終回文庫」には本の内容よりも出版の経歴が書いてあった。初版単行本が昭和16年、鰐の話の初出が「中央公論」の昭和14年4月1日発行春季特大号だそうで、検索でヒットした値段が4,500円だったそうだ。単行本の4版がネットオークションで5万円もしていると書いているが、当の初版本をお持ちだとのことで、奥付の画像がある。定価2円30銭となっていた。
http://blog.goo.ne.jp/saisyukai-bunko/e/42d43ff1d686c72aa4d00cd0e5cec2c5

幸いわが町の図書館にあったので借りてきた。文藝春秋社2003年版である。原作者のレオポール・ショヴォ氏が挿画・挿絵も担当している。作品は他に「のこぎり鮫とトンカチざめ」「なめくぢ犬と天文学者」の2篇が収載されている。図書館にはショヴィ作品が10点近くあったがいずれも福音館書店の児童書であった。本作も訳者を変えて発行されている。

昭和21年冬、秋田県横手町にて訳者識、として表題頁の次にはしがきがある。その述べるところによれば、見開き2ページにわたる文章は初版の解説だと。そして5年を経て、その間、版を重ねること3回、いま装釘を一変して4版が世上に出る。どうしてこんなに売れるのかと櫻井書店主人に質したら、童話と間違えられて誤って売れたのだそうだ。訳者の思いとしてはこれが童話として売れることに不満はないけれども、書肆が折角童話らしくない装釘を凝らして、なんとか世間の具眼の士に届けたいと念じても、それは儚い工夫であるという。童話として売られて、破れ、棄てられた挙句に、残った一部が好事家の手に帰することを願ったほうが賢明だろうと薄情とも思える書き方である。山本氏が具眼の士というのは、この作品がただものでないと自負しているからだ。そういう作品に惚れ込んで出版してくれたことを山本氏はありがたく思っている。はしがきの末尾に「開板当初に劣らぬ熱情を示す主人と対座中、彼こそ具眼者の随一かと訳者はしばしば舌をまいた」とある。これは対談して櫻井店主が昔でいう赤本屋という商売で出版を会得したのが不運のはじまりで、これぞと思う優れた作品だけを世に残したいという熱意が、かつての履歴が邪魔して出版界や作家に評価されないまま終わったことを話したからである。その高い志にうたれたことを「私の岩波物語」にも書いている。こういう履歴の書物が、過去の刊行分には上述のような古書価格がつき、さらに文藝春秋が復刻再販しているわけであるが、文春版には吉行淳之介、久世光彦、徳岡孝夫の諸氏が寄せた文章が載る。


どの頁も見開きの左側は一ページ大の挿絵で右側頁に本文がある。内容は難しくないけれど、用語用字は旧漢字、旧仮名で歴史的仮名遣いである。なのに児童書だとは、世の中の人は随分そそっかしいのだなと思う。もっとも昭和前半の子どもなら、これでよかったのかななどとも思うが、我が身の場合を思い出してもやはり首を傾げる。
鰐は年をとっている、何しろ娘がもう500歳になろうかというほど年を歴ているのだ。「経ている」でなくて「歴ている」だぞ。この漢字の使い方が気に入った。こっちも年を歴たのだなと思う。
世界中泳ぎまわって、折角できた友達も食べつくし、すっかり孤独になって生まれ故郷のナイル上流にまで戻ってきた。彼の姿を見ると鰐は皆逃げてしまう。眠りこけてる間にドンドコドンドコ嬉しげに騒ぎ立てる輩が集まってきて、神様にされた。なんでだろ?「年を歴た鰐の話」はこんな話だ。
別に意味はなさそうだ。訳者はノンセンスだと言いながら、それを読者に押し付けつる気はないと言う。それがどうした、と思う人は読まなければよい。私は内田百閒の作品の幾つかを連想した。何やら心の充足感を味わった。
「のこぎり鮫とトンカチざめ」は、ならず者の二人連れがクジラの母親に復讐されるまでの物語。「なめくぢ犬と天文学者」は望遠鏡を覗く犬と難しい計算をする犬が盲人の天文学者を手伝っていると、世界のおしまいの日に遭遇する。流星が衝突するのだ。さぁ、たいへんだ、という話。どちらも経過が楽しい読み物になっている。
幼児は好きな絵本を持ってきて、読んでくれとせがむ。何度も同じ本を持ってくる。大人なら美術全集のようなのを手元に置き、気が向いたときにページを開いて眺める。この本もそういう読み方がされそうである。さぁ、ヘタウマの画を眺めながら時を過ごそう。(2015/10)