2015年10月26日月曜日

志賀直哉の「国語問題」

阿川弘之氏の著作を少し続けて読んできたので、このあたりで『志賀直哉』を読んでみようと思った。新潮社『阿川弘之全集 第15巻』を図書館で借りて読んだ。この巻には「志賀直哉」(下)が入っている。下巻から読み始めたのは予て関心があった志賀直哉の「国語問題」について参考になることが多くあるのではないかという期待からである。

阿川氏の志賀直哉論は下巻だけでも志賀直哉(以下直哉と略記する)という人物を十分に彷彿させる大変に印象深い作品であり、大いに堪能した。作品に対する評価は一切行わないで、直哉の日常をありのままに描くことによって人物像を描写した。阿川氏の師に対する態度は時に隣人であり、友人でもありながら敬愛の情が横溢している。また直哉を偉い人として敬遠するかのような見方をしていた人でも、いったん会って話をしてみると皆が皆のように温かい心をもったおおらかな人との感想を持ったということについても大いに感銘をうけた。最後のお別れから納骨まで記されているが、老いが進んでゆく生活の状況があまりに具体的なため、それに近づきつつあるわが身のことも合わせて、まさに身につまされるような思いもしたことを白状しておこう。

さて、志賀直哉の「国語問題」というのは昭和21年、『改造』4月号に収載された随筆であるが、国語に対する提案である。3,200字という小論だが発表されると、その発想の奇抜さで大きな話題になり、70年の時を経ても未だに話題に上る。不便で不自由を極める今の国語を棄ててフランス語を国語に採用しようというのだから、大方の反応は戸惑いからの無視に近いものであったのは当然だろう。阿川氏も反応らしいものは殆どなかったと書いている。しかし本人は大真面目であり、これは思いつきなどではないと、ことあるたびに確認し、十数年後までもその意見は変わらなかったことが後々の談話などで明らかにされている。没後の全集に収録される原稿も何ら改められることはなかったという。なお、阿川氏の全集には「国語問題」の原文は載っていないので志賀直哉全集(岩波書店)で読んだ。

提案は突飛な内容であったが、そのようなことを発表したについては、思いつきどころではなく、作家としての心の底からの思いであったろうことは、わずかにその文章からうかがえる。「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか、四十年近い自身の文筆生活で常に痛感してきた」というのであるが、それがどういうことであったのかは、「ここで例証することは煩わし過ぎてできない」とあるだけで読者には伝わらない。

日本語と取り組んで日本とは何かという問題の研究に生涯をついやした大野晋氏は、この作家が日本語を棄ててまでもフランス語に取り換えたいと願った心境については大いに同情の気持ちを隠さない。氏の『日本語について』(同時代ライブラリー、岩波書店1994年)に所収の「日本語の将来」には直哉の「煩わしすぎて」を補足するかのように日本語の包含する問題を易しく述べてくれている。問題の所在は多岐複雑であって、ここに紹介するのでさえ煩わしすぎる。しかし、日本語を研究したり、教える経験を持つものには誠に至当なことばかりなのである。なお同氏の所論は阿川氏が『志賀直哉』の中で触れた大野氏の考えそのままではなく、うえの書物に収載する際に全面的に稿を改めていることに留意したい。このことは直哉が当時慨嘆した以上に私たちの国語がますます扱いにくい容態に変化していることだけでなく、ほぼ全部の国民が将来を慮ることなく事態を放置しながら平然としている様を明らかにしている。ちなみに大野氏は2008年に亡くなったが、その述べるところの日本語の変わりようは現在も同じである。

志賀直哉は明治16年生まれである。その生涯の前半生を国語の問題に絞って眺めてみれば、漢字を多用し、その上ルビふりまでした新聞があった明治時代、国語審議会の制定、漢字節約論、かな文字論、ローマ字論、漢字使用制限、そして占領軍によるローマ字使用勧告などが背景にある。昭和21年の9月に「現代かなづかい」、11月には『当用漢字表』と来ては、こんなものが使えるかと思ったのではないか。当の直哉は「国語問題」発表の後も終生新しい方針に与することなく正漢字と旧仮名遣いによる文章で通した。

「国語問題」には「国語を改革することの必要はみんな認めていることだが、私は今までの国語を残し、それを作り変えて完全なものにするということには悲観的である」とある。そもそも言葉が完全とはどういうことか、考えてもわからない、結論の出ようのない問題なのだ。フランス語が一番良さそうだというにしても直哉は仄聞か想像で言っているに過ぎない。大野氏は明治大正時代に育った日本人にとっての知識の限界や外国観の劣等意識がそのように思わせたのだろうと推測する。昭和21年という時機を考えれば「敗戦」がきっかけかもしれないとも書いている。直哉の文章から提案の根拠が見いだせないのなら、せめて戦時中に度々想い起こしたという森有礼の考えを探るしかないが、そちらは端的に言って西洋文明を摂取するにはあまりにも貧弱なと考えた日本語への絶望感であった。直哉も同じように絶望感を持ったのだとすれば、それは矢張り大野氏が想像するように敗戦という事態が作用したと考えるのが妥当かもしれない。

阿川氏が大野氏から聞いたこととして直哉の長男、直吉氏の証言がある。「国語問題」に関して父君がどのようにか言われていたことはないかとの電話による問いに直吉氏が答えた内容である。その要点は次のようであったと。

よその国に通じない言葉である。言葉の障害が戦争の一因だ。日本文学が海外で読まれていない。若い頃から自分が作り上げてきたものでも、一向に分かってもらえない。フランス語のような国際語で書かれていればそんなことはない。自分の文学は芸術だ。

芸術の域まで高めた自分の文章が芸術の国フランスで読んでもらえない、この悔しさはひとえに日本語のせいだ、とでも言わんばかりの嘆きが聞こえそうだ。猫も杓子もフランスであった明治末年から大正時代を経た人たちにとって、フランスが素晴らしい國に見えたに違いない。実のところは当時既に統一されていたフランス語ももとはといえば北の方の地域語のオイル語が標準に採用されたもので、外された他の地方では未だにその憤懣が残っている。日本の東北訛りが東京語に気圧されたと同じように、フランスの地方訛りの人たちは中央に出る時にはひたすらお里訛りを消すことに努めるのは今に変わらないそうだ。さもなくば能力まで疑われるという。直哉にはこういうことがわからなかったのは、当時の人間としてやむを得ないだろう。

もう一つエピソードとして阿川氏が公にしなかったことが「志賀直哉」に述べられていた。
「新しい仮名遣ひと漢字制限に、直哉は嫌悪感を示した。その最大原因は、新聞に寄稿すると内閣告示に従うという新聞社の社是の方が優先し、往々文章の風格を滅茶滅茶にされてしまうから」であり、特に昭和25年正月の朝日新聞の扱いに問題があった。問題になった点を抜書きする。
寅年の寅とトラ、虎もトラ、生まれ年のとしもその人の歳も年、書き癖の「矢張り」は「やっぱり」になおされてしまう。
「探幽の『水飲みの虎』といふのは剥落で眼つかちになってゐるが」は「探幽の『水飲みのトラ』というのははげて眼つかちになっているが」と改められ、「だうもう」と読んでもらうつもりで「獰猛な虎」と書いたのは「ねいもうなトラ」に、橋本雅邦の「龍虎図」をとりあげた「龍に怯えた牝虎の姿」は「リュウコ図」の、「リュウにおびえたオスのトラの姿」と牝牡まちがへてカタカナだらけにされた。紙幅の枠に収まらなくなって終わりの方63字削除されたので、「虎を踏まへて砂糖ない」という駄洒落の部分が何のことかわからなくなった。

こういうことで、原文のまま載せてくれない新聞社には寄稿しないことに決めた。全集編纂の阿川氏も直哉の著作物としてみなさないことに決めて全集には収録しなかったという。
最後のくだりの「虎を踏まへて砂糖ない」というのは「虎を踏まへて和藤内」の国性爺合戦の主人公の名をもじったものであるのは言うまでもない。この事件で朝日新聞はしばらくお呼びでない状況になったが、時日がたって和解したそうである。

しかし、こういう事態になれば予て不便だと感じていた文字遣いが、一層不便になった上に漢字制限の行き過ぎでしかない様子に変わったのでは直哉ならでも怒るのは当然と言える。国語審議会というのはおかしな集団であった。やがて常用漢字表が発表されて多少は改良されたかに見えるが、漢字制限の効果は着実に作用して新しい教育を受けた人たちは漢字が読めなくなってきた。そうして世の中のメディアは新聞とラジオからテレビになる。それは漢字を読む、書くという作業が要らなくなることでもあった。さらにワープロだ。耳で聞いた言葉はキーを打てば漢字かな交じりに機械が変えてくれるのでは、頭は不要になったわけである。
国語問題というのは直哉の提案はささやかな波紋しか起こさなかったが、深い深い国民的な問題なのである。

直哉は阿川氏に尋ねたそうである。「品川は『しながは』かい」。「はい、川は『かは』ですから」、「ああいふことは煩いね」。
(2015/10)