阿川弘之「軍艦長門の生涯」は全集で二巻、千二百頁あまりにわたる長い作品である。読後の感想を物しようとしてもメモも取らずに読んでいたからあとになって詳しくは辿れない。前回同様頭に残ったことの一部だけ適当に書いておくことで読了の記念にしておこう。
第8巻は昭和11年末からの記事である。この作品には目次はなくて章立てはすべて数字であるので、何処に何が書いてあったかあとから探すのに骨が折れる。いずれにしろこの巻の戦はすべて敗け戦、つまり帝国海軍の終焉である。腹立たしいことが多い。敗けたことが腹立たしいのではなく、敗けることがわかっていて戦を始めたことが腹立たしいのだ。生産力、物量、技術などの比較だけでなく、そもそもの国民の知識水準、生活水準がアメリカほども高くなかった。能力の有無ではない、能力が開発されていなかったと。生活の水準が、例えば電話をかけたことがない、自動車を運転したことがない、タイプライターを使えないなどのことが兵隊の技能水準の差になって戦力の差を生むのである。さらに言えば指導層の思考の不思議さがある。物量に対抗するに精神力をもってするという信念の不思議である。ここまで考えると話が複雑になり阿川さんも立ち入ることはしていないから別の機会に考えることにしよう。
1942年6月のミッドウエー海戦以後日本の聯合艦隊は負け続け、日本の防衛線は後退につぐ後退でサイパンも落ち、最後のフィリピン、レイテ沖海戦(44年10月)で大敗北に終わった。作戦の是非はともかく、基本的には航空機による攻撃という戦法の変化についてゆけなかったという理由の他に、落としても落としても出てくる米軍飛行機という物量にも負けた。開戦前からわかっていた情勢による自明の結論だった。自明の論理を理解して主張しながらも、職務上自説に反する姿勢を続けなくてはならなかった司令長官山本五十六は43年4月にブーゲンビルで戦死した。
著者は書く。
昭和19年は、明治38年より数へて足かけ40年になる。日本海海戦の完勝から40年目に、帝国海軍は、世界戦史に例のないほどの一方的敗北を喫した。対馬沖の敗将ロジェストウェンスキー提督は、母国へ帰って軍法会議の法定に立たされた(判決は無罪)が、この敗戦の責を負ふ豊田聯合艦隊司令長官、栗田第一遊撃部隊指揮官ほか、軍法会議にかけられたり位階を剥奪されたりした提督は一人も無かった。(第8巻504頁)10月28日夜半にブルネイに帰投した翌朝、長門の甲板上でキナバル山をのぞみながら、若い軍医大尉が「人の命はほんたうに紙一重だ。自分はまた生きのびた。戦争とは一体何だろう?」と思う。明治生まれの老主計少佐がかたわらに寄ってきてに語りかける。「人間はかうしてあくせくやってるけれど、自然は何千年も何万年も、少しも変わらずに存在してゐるネ。えらいいくさを戦ったもんだ。我が我がの闘争心のもたらした悲劇ですよ。智恵を持ったものの不幸ではないですかね」(同505頁)
11月15日内地回航の命令が出て最後の燃料補給を受けて長門はブルネイを出航した。途中僚艦が敵潜で沈没したりする中、無事に横須賀に帰り着き小海岸壁に繋留された。もはや補給を受ける重油は一滴もないらしかった。港に浮かべておくだけで、1日50トンの油を食うんだといわれて、生きながらえて母港に帰り着いた長門は、完全な厄介者扱いだ。同じ港内に完成したばかりの世界一といわれる6万2千噸の航空母艦信濃がいた。11月28日出航して呉に向かった。翌日未明、潮岬沖で潜水艦に襲撃されてあえなく沈没、乗員1500名の生死不明の報告があった。壮大な無駄。
昭和20年2月10日付で長門は横須賀鎮守府の警備艦となった。もう動かなくてよろしいとの引導を渡されたかたちになったと著者は書いている。3月10日東京空襲、19日は呉に空襲があり在泊艦艇のほとんどは戦闘能力を失った。4月1日米軍が沖縄上陸、生き残っていた大和は航空特攻に呼応する水上特攻として片道燃料で出撃したが7日に徳之島沖で最期を遂げた。長門には水上特攻の命令はこなかった。ただつながれているだけで日が過ぎていった。
大艦巨砲主義というのは帝国海軍の海戦に対する考え方で、長門の40サンチ主砲というのもその産物であった。レイテ沖海戦で偶然航空機相手でない艦船相手の戦闘機会に一度だけ遭遇した。まさに千載一遇、というのもこの海戦で就役24年目にして初めて40サンチ主砲徹甲弾を発射したのだ。
結果はあまり芳しいものではなかったようだが、最後の戦闘を終えた長門の主砲弾丸消費量は、水上艦艇に向けた一式徹甲弾が45発で残量が675発あったと記録され、6パーセントしか使わなかったことになる。同じく主砲の通常弾は対空戦闘に136発消費したと書いてあるが残量は不明である。小海岸壁に繋留されるようになってからも最後のご奉公をさせようと相模湾に上陸する米軍に砲撃するため艦を空襲から守り、江ノ島に弾着観測所を設ける作業が終戦まで続けられた。
その空襲があったのは7月28日午後、艦載機250機の編隊で横須賀が本格的に爆撃された。長門は艦橋が吹っ飛び、艦長以下35名が戦死した。迷彩を施したり覆いをかぶせたりしてあったものの上空から見ればひと目で戦艦と見破られるはずだ。前日の27日少数で飛来した敵機のうち一機が長門のマストをかすめるようにして飛び去った。これを見て「あ、長門が見つけられた」と叫んだのは田中富雄上等水兵、すぐ近くに繋留されて艤装作業中の第七富久川丸の乗組員だった。田中上水とは戦後の人気作家源氏鶏太氏である。34歳の応召兵、二人の同郷者とともに先月着任した。第七富久川丸は特設駆潜艇とされているが焼玉エンジン、270噸、最高速力7ノットの元石炭運搬船で、艤装ができたら船腹に膏薬を貼ったような格好で津軽海峡を回って富山の伏木港に回航することになっていた。源氏鶏太氏は短編「水兵さん」(昭和37年)に当時の経験をそのまま書いていると阿川さんは紹介している。B29の撒いた機雷原を突破して無事伏木までたどりつけるとは到底思えず絶望的な気持ちだったが、資材不足で作業が進まず一向に出港命令が出なかったのが幸いしてその後も1ヶ月船内で暮らしたとある。貧弱すぎて敵機の目に触れなかったのか、空襲では全く損傷を蒙らなかったそうだ。
最後の長門艦長は杉野修一大佐、日露戦争で旅順口閉塞隊員として戦死した杉野孫七兵曹長の長男だ。転勤命令を受けた時は旅順で第二期予備生徒の教育隊長を務めていた。家族と共にソ連の参戦でごったがえしている北朝鮮をどうにか通過し、釜山までたどり着いたところで、8月15日の放送を聞いた。着任したのは終戦から5日ばかりあとであった。間もなく長門は沖出しを命じられ、9ヶ月ぶりに小海の岸壁を離れて港内1番ブイに繋留された。米軍に引き渡す準備だった。艦長は副長の権平中佐とともに準備に大わらわであった。
米機動部隊の艦上機は25日から各航空隊の動静、艦船の運航を監視するため、日本上空の日施飛行を開始した。これが敗者に異様な威圧感を与える。
長門の古参兵の中には、処刑のデマに怯えて奴らと刺し違えるだの暴言を吐いたり酔っ払うのも出たりした。デマのせいである。「アメさんが一番恐ろしがっているのは、筋金入りの下士官だそうだ。将校なんて問題じゃない。志願兵上がりの海軍の下士官が如何に強いかは、奴らも知ってるんだ。進駐後これが最初に銃殺される」そういう噂が広まっていた。
下士官による水兵いじめの暴力沙汰は全巻のあちらこちらに出てくるが、著者は決してそういう場面を主役にしていない。下士官が処刑されると恐れるのは身に覚えがあるからか、兵隊は恨みを晴らしてもらえる期待からか、噂は加害者、被害者双方の想像の産物だ。刺し違えるなどとは幕末の攘夷志士のようだ。アメリカ人を直接見たこともないのは当時の日本人の大多数だったろう。閑話休題。
前回の当ブログで菊の御紋章がついていない写真を見たことを書いておいたが、御紋章が消えた経緯を著者はきちんと記録してくれてあった。ここにも阿川さんの筆の行き届きぶりがあった。
権平中佐の頭にはかつて江田島に飾ってあった露国戦艦「アリヨール」の艦載艇の姿がしみついていた。長門の記念物が持ち去られてアナポリスの兵学校あたりで永く辱めを受けるのは耐えがたい気がした。そこで艦長と相談の上せめて艦首の御紋章だけでも、というのでこれを取りはずして燃してしまうことにした。円材に十六花弁を刻んで金箔をかぶせた菊の紋章は直径1メートル20、欅かチークかの材質は非常に固く、外舷に腰板を吊るして作業員が少しずつ掻きとって、ようやく後甲板に持ち込み、一日がかりで灰にした。
菊の御紋章で思い出したが、阿川さんは昭和天皇の園遊会で南方熊楠のことが天皇との話題になったと何かに書いてあったように記憶するが、思えば昭和4年の白浜行幸の御召艦はこの長門であった。となれば、熊楠が長門艦上で古びたフロックコートでキャラメルの箱に入った菌類を献上して進講したことが第7巻にあったはずであるが失念した。
8月の終わりには軍人軍属三浦半島立ち退きの命令が出た。長門引渡し要員は再度艦上に戻り、接収の宣告を受けた。宣告の前に米兵の手で軍艦旗が降ろされ、星条旗が掲げられた。あとで新聞記者たちが軍艦旗を広げて記念撮影などしていたと書いてあるが、その軍艦旗の行方には触れていない。
長門が原爆実験の標的艦となってアメリカ人の操艦で最後の航海に出たのは昭和21年3月18日であった。ビキニ環礁の実験に使われた艦艇は70余隻、大部分がアメリカのフネで戦艦、空母、巡洋艦ほか、旧敵国のフネは長門、巡洋艦酒匂、ドイツの重巡「プリンツ・オイゲン」の3隻であった。実験は2回おこなわれ、その詳細も著者は書いているがここでは触れない。ただ、長門は1回目の空中爆発では沈まず、2回目の水中実験の5日後に誰にも見とられずに姿を消したと伝えられている。
ビキニは日本の委任統治時代聯合艦隊の泊地に使用されたことはなかったが、昭和15年の春、水上機母艦千歳が沖合で演習したことがあった。この演習で川竹、大久保二人の下士官が搭乗した水偵が墜落して殉職している。事故のあと乗組員の手で、ビキニ本島の浜辺に名を刻んだ「千歳航空殉職二勇士之碑」というものが建てられた。このいしぶみは二度の原爆実験にも倒れなかった。
『十字路作戦』に参加した日本人記者は一人もゐなかったし、長門の最期に実験に立ち会はせてもらった日本海軍の軍人もむろんゐなかったが、実験の全期間を通じて、川竹大久保両兵曹の碑だけはここに立ってゐた。碑は、その後度々の原水爆実験にもこはされずに、今もビキニの島に残ってゐる。
「軍艦長門の生涯」はこの文で終わっている。誕生から予想外の終焉まで26年の間、数多の人々が関わった戦艦の生涯を描きながら、著者はその数多の人々について及ぶ限りの挿話と逸事を拾って克明に記述した。出版社は小説に分類したが記述された事実はフィクションではない。著者の思想に左右されない歴史である。中には著者の意に反するような事柄も、批判したい人物もあったはずだが、そういう場合にはたいてい言外に語っているようにみえる。読者はそれを汲み取ればいいのだ。読みながら私は大岡昇平氏の「レイテ戦記」と大佛次郎氏「天皇の世紀」を連想していた。島崎藤村「夜明け前」もそうだ。どれもが人間の行動を描いて歴史を物語っている。この大部の長門の物語を図書館で借りると期限は2週間しかない。続けて借りてもいずれ返さねばならない。本当はゆったりした気分で読んでみたかった。(2015/9)