2017年3月4日土曜日

玉虫佐太夫に惹かれて

上田秀人『竜は動かず 上・下』(講談社2016年12月)を読む。
この著者については知らなかったが、1959年大阪府生まれ、大阪歯科大学卒、97年小説クラブ新人賞佳作入選と巻末にあった。時代物で売れているらしい。本作は地方新聞各紙に2014年から380回連載した原作に手を入れたとある。副題の「奥羽越列藩同盟顛末」が内容を示している。
朝日新聞書評(2月19日)に「人気時代小説家が、幕末の動乱の中で非業の死を遂げた仙台藩士玉虫左太夫に光を当てた」とあったのが筆者の気を惹いた。「玉虫佐太夫」、この名前に覚えがあった。この侍がハワイの街なかを探訪して住民と話を交わす情景が書かれた本を読んだことがある。書棚を探すと出てきた。『日本人のオセアニア発見』平凡社1992年、著者は石川栄吉、京大のオセアニア民族学の先生である。その後何かでこの人物が切腹させられたことを知り、あたら開明的な人が、と残念に思ったことも覚えている。書評を見て即座に図書館に予約したが先約1名あり、同好の士かもしれない。
上巻は玉虫佐太夫が日米修好通商条約批准のためワシントンに向かう新見豊前守の従者としてポウハタン号に乗り組んでから、世界一周する航路をとって帰国するまでの見聞と思考の叙述に大半が費やされる。何しろ初めて国外に出る主人公は見るもの聞くものすべてが驚きの連続、話題には事欠かない。著者は軽い文章で佐太夫の目となり耳となって読者の気をそらさない。売れる作者だけのことはあると感心した。
貧しい武家に婿入りした学問好きが運命の導きによって儒家林復斎に拾われた幸運が外国奉行の従者にしてくれた。日本人初めての世界一周をこまめに記録した佐太夫は師の勧めに従って見聞を「航米日録」にまとめて、もとの出自の仙台藩の藩主伊達慶邦に献上した。おかげでわれわれもその『航米日録』をいま目にすることができる。
ここ20年ほどの間に、この種の見聞録や日記は原本の漢字かたかな混じりの難しい文章が有志有徳の諸氏によって現代文に訳されている。だからといって、この著者も多分そういう恩恵にあずかっていると考えるのは失礼かもしれない。ちなみに原文は岩波書店『日本思想体系66』「西洋見聞集」に収録されている。
参照図書は挙げられていないが、小説ながらドキュメンタリー・ノンフィクションでもある。日録に述べられた見聞から左太夫の考えたこと、感じたことには著者の思いも重なっているはず。唯一体験した異国のアメリカは人も国もその様子はまだ若々しい。何もかも珍しく、文明の差に驚愕した。読者も思わず想像を膨らませて引き込まれる。今の我々だから想像できるが、当時の日本人にはまさに想像のつかないことばかりなのだ。
フィクションらしい個所はホテルにアメリカ人大学生の女性が訪れてきて、片言の英語と絵を描いたりして会話をする場面。若い女性が堂々と発言する様子や学問をしていることに驚き、政治制度を教わって平等と共同の理念などを聞き取る。奴隷や植民地というものも知った。この体験が佐太夫の一生を決めることにつながる。
余談になるが、ニューヨーク近くで一時滞船中の3月20日に艦長が持ってきた新聞によって、井伊大老が3月3日に襲われて死亡したことを知る場面がある。一同驚愕して大騒ぎになったように描写している。筆者は当時のニュースの伝達速度などを知りたいと思って、ネットで見つけた「航米日録」現代語訳文にあたってみたが、閏3月20日の記事には「この場所で新聞紙の記事で3月3日の事項を知る」とだけあり、さらに岩波版の校注として「米国飛脚船により駐日米国公使ハリスの病死を知る」とあった。となればこの部分は著者の想像による脚色という可能性が大きい。小説だからそれでもいいわけではあるが、それだけでなく筆者が気になることがある。
著者が描く3月20日の情景は持ち込まれた新聞にハリスの顔写真が大きく載っていることが述べられているが、そのことについては説明がなく、話題は大老襲撃に移っている。4月23日フィラデルフィア滞在二日目として、村垣淡路守のもとに通詞が新聞をもって慌てて飛び込んでくる。そこには大老の死亡の顛末が載っていた、というくだりがある。「航米日録」にはそんなことは書いていない。
筆者が想像するに連載途中の手違いではなかろうか(であれば、単行本化する際に修正されるはずではあるが)。アメリカの新聞だからハリスの死亡が先に大きく報道され、井伊大老の桜田門事件は日本だけが係る事件だから顛末の全貌を事後に報道された。これが事実かもしれないと思うが確かめる術を持たない。筆者の習性で実際はどうであったかを知りたく思うだけである。しかし、作品としては3月20日の部分の叙述が中途半端だと思う。
(参照した「航米日録」現代語訳http://www7b.biglobe.ne.jp/~ryori-nocty/koubeinichiroku.htm)
10か月を経て横浜に入港するときにもたらされた話に、先に戻っていた咸臨丸を待っていたのは捕り方だったというのがある。3月3日に井伊大老を襲った不逞の輩の詮議をするから神妙にしろと奉行所が来たのだという。そのころ海の彼方にあった我らに不逞の輩がいるわけがないだろう、と勝海舟が怒鳴りつけたらしいが、奉行所の愚かさに一同あきれたとある。一事が万事で、帰国談をせがまれて話してもなかなか信じてもらえないことが多く、最後に佐太夫を迎える悲劇も一つはこういう頑迷固陋な人々に原因がある。
江戸屋敷、京屋敷、大阪屋敷とそれぞれ留守居役を置いている仙台藩であるが、ひとり藩主に情勢理解力があっても出先からもたらされる情報は、まことの実情を伝えるものではなく、それぞれ発信者のフィルターを経ている。わずかにただ一人アメリカを見てきた佐太夫の見識と分析力が頼りにされた。藩主は二度にわたって騒がしい京や西国の情勢を見てくるようにと佐太夫を派遣するが、藩内部の周囲は僻目嫉みばかりでまともに考えようする人は少なかった。何よりも幕府が倒れるなどということはないという盲信に邪魔される。
勅許を得ずに条約締結に踏み切った大老が殺されたことに始まる徳川幕府の終焉へのほぼ10年間の目まぐるしい変転を下巻一冊に収めてしまう著者の荒業は、読者を次から次へと事件を追って面白さで引っ張るが、所詮は紙芝居のように終わってしまう。佐太夫が恩返しをと誓った藩主も最後はいつの間にか病に伏していて、代わって藩の実権を預かるのが知識で負ける佐太夫を目の敵にする人物だったのが不幸の元凶で、どさくさに紛れて牢に落とされ、切腹させられてしまう。読者はああ可哀そうにと一旦は主人公に憐憫の情を催すが、それだけである。
というわけでこの作品、後半は完全に娯楽小説になった。世界周航はそれなりに読者も一緒に知識を吸収できるが、下巻に描かれる西国各藩の動静に左右される時代の動きはいかにもあわただしい。蒸気機関車に曳かれる列車の窓からの景色が速すぎて見えないという佐太夫の心持ちみたいだ。全体を通しての筆者の印象は近頃はやりのアニメ動画を文字でつづった作品、あるいは映画を作る時の絵コンテか。
10年間をこれだけにつづめた力量の裏にはおそらく資料の山が築かれているだろう。この作者にはしっかり数で稼いだ後は、じっくりと歴史小説に取り組んでほしいと思う。『竜は動かず』という表題の「竜」は仙台藩または伊達家を意味するようだ。どこにも説明はない。独眼竜の呼び名をもつた伊達政宗にちなんでいると解する。大藩といわれながら内実は周囲の小藩を集めてできていた戊辰戦争当時の仙台藩は、寄り合い所帯の構造が邪魔して一致団結した行動がとれずに列藩同盟の盟主でありながら自壊したのであった。(2017/3)