2021年4月4日日曜日

フランツ・カフカ『変身』池内 紀訳

『変身』初版表紙

カフカ『変身』を読む

むかし新潮社が全集を売り出した頃に読んだ。主人公が虫に変身したことのほかは何も覚えていなかった。池内紀さんの『記憶の海辺』を読んで、大学の勤めをやめたあとの仕事の中心にカフカ全集を全部ひとりで翻訳するとの課題を置いたと知った。池内さんの日本語は自然で読みやすいからすきだ。というわけでとりあえず白水社のカフカ・コレクションで『変身』を読むことにした。このコレクションは池内訳の全6巻を8冊に再編して多少手直しをしたもので、新書判の大きさ、巻末に訳者による解説がついている。

『変身』が最初に書かれたのは1912年で、3年後に小さな雑誌に発表された。その後薄っぺらな本になったがほとんど注目されなかった。世に知られだすのは死後かなりのことだそうだ。カフカは1924年、喉頭結核で亡くなった。41歳。

ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目をさますと、自分が虫に変わっていた。この事件だけで十分に有名な作品だから、『変身』についての感想や論文はたくさんある。自分が虫になるなんてことはあり得ないから、そのことを論じてもあまり収穫はなさそうに思える。それでもどんな虫になったのだろうとは誰もが考えそうだ。作家がのこしてくれた手がかりはある。甲羅のように固い背中、こげ茶色をした丸い腹はアーチ式の段になっている。からだにくらべるとなんともかぼそい無数の足がある。それらは勝手にワヤワヤと動く。以上が目覚めた時に知ったグレーゴル自身の知覚である。無数の脚と書かれては背中や腹の描写に適合する生物はいないのではと思う。全体が作者の想像と考えるほうがよさそうだ。

本文を気をつけて読んでも眼や耳の有無や形状については書いてない。変身して日数が経つとだんだん眼が効かなくなってくるような描写がある。暗闇で触覚があることに自分で気づく。筆者のにわか勉強によれば、例えばゴキブリは触覚が眼の代わりをする。音については空気の振動をどこで感知するか虫によって異なるから、この小説では不明だ。だが変身した後のグレーゴルは人間の言葉はすべて理解していることになっている。

口はどうなっているか、一般に咀嚼する昆虫は顎を左右に動かして咀嚼するというから、グレーゴルもこうやって腐りかけの野菜や固いチーズを食べたと考えておこう。顎は鍵穴に指したままの鍵を回すときに活躍している。ただし、この場面、描写してあるようにうまくいくものなのか、あまり信用できない。カフカ本人が実演したことがあるらしいが、途中でカフカがプッと吹き出してしまったと解説にある。

虫の大きさはどれほどなのか。ベッドから落ちたとき音がした。ドアの向こうで支配人が「なかで何か落ちましたぞ」と言う。だからそれなりに重量があるのだろう。そのため椅子を背中で押すことができた、とは言えそうだ。背丈は椅子の背もたれよりは高そうだ。からだを細い脚で支えるのは辛かっただろう。思わず倒れて腹ばったとき急にからだが楽になったと書いてある。はじめて自由に動き回れたとも。本来の虫なら立つという発想はない。ソファの下にもぐるとき、からだに幅があるので入れきれない。どんなソファかわからないが、この表現と椅子の背もたれから推定できる体型がおぼろげに知れる感じがする。さして大きくもない人型である。顔の形については、母親に向かって叫ぶ「母さん、母さん!」が、ただ顎をパクパクするだけだから母親は悲鳴を上げた。かなり怪異な顔相が想像できる。

ミルクの匂いに惹かれたが味は全く受けつけない。口にあう食いものは腐りかけの野菜や食卓の食べかすばかり。グレーゴルの話すことは音声もことばも家族に通じないが、家族の話すことはすべて理解できる。だが家族はそれを知らない。父親が言う。「こいつに言葉がわかるようだとな」、グレーゴルはもはや存在する人間とは言えない。

天井や壁をはいまわるとも書いてある。重い体はどうなったのだろう。壁にかけてある好きな絵が運び出されそうだと思えば、その上に張り付く。見つけた母親は壁のシミだと目をやった途端に驚愕して失神する。虫は大きいのか小さいのか。虫の形にこだわって文章をおっていると、読む方の想像力がついていけない。だがかなり怪奇なものであるとの雰囲気は十分である。

本になるとき出版社は表紙に虫男の絵を出したいと申し出てきたが、カフカは断っている。無名作家の作品がそれでは売れないと言うので妥協して、半開きの扉によって立っている男の姿が表紙になった。半開きの扉は本文中で虫がはじめて人々の前にお目見えする舞台装置である。

把手に頭をのせるとドアは大きく開いた。留め金がかかっている方のドアに身をもたせていた、支配人や父母のいる方からは、からだの半分と片側にかしげた顔だけが見えた。支配人に事情をよくわかってもらおうと、寄りかかっていた扉を離れ、開いたところから身を押し出すようにして支配人の方へ向かおうとした。グレーゴルは支えを失って脚を下にして倒れた。からだが実に楽になったような気がした。無数の脚はしっかり床についている。うれしいことに脚はちゃんと言うことをきく。行きたい方へすぐにもからだを運ぼうとする。

セールス行商人の社内における弱い立場、家庭の事情、訴えたいことがいっぱいある。言葉の通じないこと忘れて懸命に論じたてるが、相手は怯えるばかり。逃げ腰でいる支配人を説得しなくては。逃してはならじ、突進した。気配を感じた支配人は「ウワッ」と叫びをのこして姿を消した。

虫と人間、こんなにも通じ合えないものか。片や虫に変身しても人間であったときのままの精神状態なのだ。人間の方は虫にも道理があることなど想像もできない。怪奇さに怯えるばかり。

あるとき、父親は虫を部屋に追い込もうとリンゴをぶつけてきた。小粒のリンゴ、食堂の果物籠からとって制服のポケットに詰め込んだのを次々と投げる。一つが背中に当たって食い込んだ。痛い。こいつはついに最後まで取れずに虫の背中で腐っていった。

しだいに家計が苦しくなる。父親は銀行の守衛になった。喘息持ちの母親は賃仕事の縫い物をしている。親譲りの装身具を処分した。小娘の台所女中と時間ぎめの掃除女。いまの生計を維持するには家が広すぎると結論して、間借り人をおいた。3人。ユダヤ人のようだ。徹底したきれい好きで、家中の部屋を片付ける。グレーゴルの部屋は物置部屋になった。虫はホコリと自らの粘液にまみれて過ごす。

間借り人は食堂で食事をとる。家族は台所でとる。夕食時に妹がバイオリンを弾いた。全員が聴いているとき、たまたま開け放されてあったドアからグレーゴルも部屋から出てきた。汚らしい姿が間借り人に見つかった。間借りの契約が破棄され慰謝料も要求される。

両親と妹が相談する。あの虫はもうグレーゴルではない。自分たちに良い思い出さえ残っていれば、いなくなってもよい。

ひもじいままに痩せて干からびて平べったくなる虫、ほうきで掃きよせられるようにまでなる虫。小さくなったのかな。

虫は食物も摂らず衰弱して死んだ。掃除女が箒でつついてみて、「くたばってる!」

平和なときが戻った一家3人は春の一日、電車ででかけた。いい天気だ、夫妻は娘の明るい様子を眺めながら、そろそろ相手を見つけなくてはと思う。これが結論だ。めでたしめでたし。

ここには文のあとさきに関係なく、情景を読み取る要素を書き連ねた。書かれたことを忠実に考えればこうなる。グレーゴルが人間である限りは家族の一員でいられた。家族は、はじめのうちは虫の姿であってもグレーゴルだと思おうと努力したり、元の姿に戻る希望を持った。それらの努力や希望が諦めに変わったとき、虫のグレーゴルは虫でしかなかった。家族にとって無用の存在、さらには邪魔である。グレーゴルがどんなにつらい思いをしながらであっても、その経過は家族に一切伝わることなく、死とともにいなくなった。

筆者は素直に文章を読んで楽しんだ。同じ作家の他の作品と比べたり、原語で追求したりする人も多いようだ。面白い小説だった。

ハプスブルグ家のオーストリー・ハンガリー帝国のボヘミア王国であったチェコの首都プラハが物語の舞台である。永年にわたる官僚政治のもとでの社会の様子も少しうかがえて興味深い。無気力な老人生活から銀行の守衛づとめになった父親の制服へのこだわりぶりは、まさにハプスブルグ家の栄光を慕う姿にみえる。カフカ家はボヘミアのユダヤ人家系、登場する3人の間借り人もひげが象徴するユダヤ人らしい。カフカはドイツ語で書いたがプラハもドイツ語圏だった。ちなみに『変身』という表題は元のドイツ語でも同じ、グレーゴルが変身した「虫」の原語は「害虫」を意味するそうである。

読んだ本:『変身』カフカ 池内紀 訳 白水Uブックス 2006 白水社

(2021/4)