ことしの初めに亡くなった半藤一利さんの置き土産『歴史探偵 忘れ残りの記』のなか、第一章 昭和史おぼえがきは「おかしな言葉」としてテニヲハの遣いかたへの疑念をあげている。「食べれる」「着れる」などと、おかしな日本語として槍玉にあげられるのは、いまの若者の言葉遣いだけではなく、われらロートルが親しんでいる昭和史を飾る言葉にだって、首を傾げたくなるのがあるが、不思議に誰もおかしいとは思わない。と、このように書いていくつかの例を出したあげくに、畏れ多くも終戦の詔書にもあると。「堪ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キヲ忍ビ」。いうまでもなく「終戦の詔書」の一節である。当時の雑音だらけのラジオ放送はよく聴き取れなかったけれど、この言葉だけは多くの人口に膾炙している。半藤センセイいわく、「忍ぶ」とちがって「堪える」は自動詞であるから「何々に堪える」と「を」ではなく「に」でなければならいのではあるまいか。したがって、「堪え難きに堪ヘ」が正しい。ああそれなのに……、とこの短文を結んでいる。ここで筆者は思わずニヤリとした。ああそれなのに、に反応したのである。
「ああそれなのに それなのに。ネェ、おこるの~は、おこるの~は、あったりまえでしょう」がリフレインになっている昭和の流行歌だ。なんと、このごろはユーチューブでも聞けるから驚きである。曲名「ああそれなのに」、古賀政男作曲・星野貞志作詞、歌・美ち奴、テイチクレコード、昭和12年、 日活映画「うちの女房にゃ髭がある」主題歌。作詞の星野貞志とはサトウハチローの変名だそうだ。
半藤さんは昭和5年生まれ、当方は昭和8年だ。一世を風靡した流行歌だもの、チビどももみな覚えたのだろうと思う。筆者の記憶にもいつの間にやら忍び込んでいた。歌詞の出だしは「空にゃきょうもアドバルーン」であったが、当時は広告宣伝のアドバルーンがどこの街でもデパートの屋上から上げられていたものである。坂の街、小樽の高台にあった我が家からも今井百貨店に「フルヤのキャラメル」と大書したアドバルーンが上がっていたのを見た記憶がある。稲穂小学校に上がって翌年はキゲンハ ニセンロッピャクネンとなるが、それまでの昭和の世間は大正の続き、戦塵は遠く、まだまだ明るかったのである。
そこでまた古い話を思い出した。斎藤茂吉がこの唄を歌に詠んだという話。同じ歌でもこちらは短歌、しかも茂吉さん編集の歌誌『アララギ』の昭和12年4月号に発表した。発表までのいきさつについて、斎藤茂吉著『童馬山房夜話、第二』「152自作一首」という記事にある。(八雲書店 昭和19年 アララギ叢書;第百一一六号 所収)国会図書館で読める。冒頭の一節を引用する。
私がアララギ四月号に発表した歌の中に、『鼠の巣片づけながらいふこゑは 「あゝそれなのにそれなのにねえ」』といふのがある。これは私のところに働いて居る為事師が、天井裏にもぐって鼠の巣を取除けながらあの唄をうたっているのが妙に私の心をそそったので、歌にしようと思っていろいろと試みたすゑに、辛うじてあんなものが出来たのであった。 無論果敢ないもので、どうのかうのと云ふべき性質のものではないが、作るとき少しく難儀したので、やはり捨てずにとっておきたいともおもったのである。ただアララギに公表しようかしまいかと迷ったが、友人のすすめに任せてとうとう公表したものである。
これに続けて「不覚な美少年強盗」という表題の新聞記事を紹介。少年強盗が押し入った家で明け方まで寝込む場面があって、寝る前に便所に行きながら、「あゝそれなのに……と流行歌を声高らかにやる朗らかさ」という記事で、私にはおもしろいと書いている。
また5月になって石見国の山中で蕗を取りに来た十歳から十二歳ぐらいの女の子たちがあの唄を歌うのに出逢ったとの話が続く。当時の流行ぶりがわかる。
歌壇からいろいろ批評してもらったが、公表した上は俎上の魚、じたばたしても仕方がない。そして、その程度の歌が私の精一杯の力量だと書く。これが片手間の巫山戯歌だなどと思うものがあったら、それは私を買い被っているものだという。そのうえで佐藤佐太郎氏がそれらの批評を丹念に集めてくれたから、記念としてこの夜話に添えることとする、として多くの評を載せている。それらにもまた楽しいのもあり、辛辣なのもあってなかなか興趣が尽きない。大方が好意的な批評で、本格調の歌ではなくとも軽みをもつのも茂吉流とする褒め方もあるのは当然だろうし、他の人ではなかなかこのように堂々と発表できまいというのも頷かせる。一つひとつを腰を据えて読んでみると当時の歌壇が沈滞気味で心ある人達の嘆きも聞こえてくるかのように感じられる真面目な文章もあるので、これらをどんな気持ちで読んだであろうかと茂吉の心中を想像する。ここにすべての評言を紹介することはできないが、一つおいて次の節に「154 二たび『あゝそれなのに』」として米国歌壇から寄せられた評と茂吉の反発が載っている。「童馬山房夜話」は『アララギ』に連載した茂吉の随筆である。筆者はこの米国からの批判に応じる文章に斎藤茂吉の剛柔備わった勁い人柄を感じ得た気がする。痛快でもあるので簡単に紹介する。
昭和13年1月5日、北米にいる歌人高山泥舟氏から雑誌『とつくに』昭和12年12月11日号が贈られてきて評論文「歌の構へ」の中に拙歌『あゝそれなのに』の一首に言及されていた。高山氏は年来茂吉氏の声に傾倒し憬仰してきた一人であったと告白し、その信仰が一夕にして動揺を余儀なくされて一種の疑念が煙幕の如く拡がりつつある。何に起因する乎?と前置きして、それは歌誌アララギの巻頭に例の歌が作者斎藤茂吉の名に於いて公表せられた為であるという。この歌を一読した高山氏の驚きは到底口には現し得ないものだった。萬葉以来の国歌の大道も、ヤレヤレここまで来たのかと悲しかったのだそうだ。一雑誌の誌面の埋草として投げ出したチャランポコの口説とするなればアララギの殿堂に糞土を塗るもの……何の顔(かんばせ)あって地下の赤彦に白し得よう乎?とあった。
この非難に対して茂吉は「憬仰」はありがたいけれども、この歌一首によって動揺してしまうようでは自分に対する「憬仰」の度が足りない。自分のような末世の一人間に仏像かなんぞのように憬仰されたりすると變でならない。どうしても憬仰してやまないというならば、もっと骨髄に徹するような憬仰をしてもらうほうが気持ちがいいというものだ、と開き直るのである。そして云う、高山氏はミレエを尊敬してやまないと言っている。ミレエの素描集一巻を所持し、鑑賞して『生活以上のまこと』を貴しとしているということだ。ミレエの素描は現存する油絵の素地をなしたものだから、真面目な敬虔なものばかりである。これをもってミレエを憬仰してやまぬことは認めることができる。 然るにミレエの素描に、Souvenir de Franchard と題した1871年にかいたものがある。此は嵐のために一婦人が倒されて臀部がまる出しになったところである。これはいつもミレエが取扱ふやうな態度でかいたものでなく、寧ろポンチ繪的にかいたもので、1836年ごろのミレエの畫風の地金が出たもののやうである。ここで、高山氏が、ミレエの初期の畫、或はこのフランシャルの回想のやうなものを見て、忽ちその憬仰尊敬の念が失せてしまふだらうかどうであらうか。この例は私に引きつけて解釋すると少しく不遜になるけれども、云って見れば先ずそんなものである。(後略)
一読してこれでケリが付いたかと思ったがさにあらず、このミレエの話をしている時さらに高山氏の一件同様の議論が他誌に出ていることが聞こえてきて、非難の声が果てしなく続くかのような当時の歌壇の情景が見えるようである。ここで茂吉は、「この一首は、私の歌全體から見れば、『無論果敢ないもので、どうのかうのと言ふべき性質のものでない』が、現今歌壇では誰一人、『あゝそれなのに』の流行唄を取上げてゐない。それを私は一種の感動を以て取上げただけである。私があの一首を公表してから、あんな歌は誰でも作り得るが、下等だから作らないのみであると空嘯くのは餘りおもしろくない。世に、コロンブスの卵といふ譬があるが、物事はやってみたうへでの詮議でなければつまらぬ。」と述べて信念を穏やかに披瀝している。
さらに、折しも始まった支那事變を詠んだ歌についても評価のあるべき姿を問うている。その骨子は、「作った歌に縦ひ一首でも物になるものがあらば、作らずにその方が高級だ高尚だと云ってゐるよりもどのくらゐましだか知れない」とある。
いつだったか読んだ臼井吉見氏の戦時中の俳壇の議論とあわせて歌壇も大変だった様子がわかる。最近のSNSとやらの口論合戦に似ていなくもない。世間はうるさいものである。
『童馬山房夜話』は以下のURLで読める。
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141874
(2021/4)