2021年7月10日土曜日

寺田寅彦の随筆

漱石の『猫』に登場する明治の物理学者、水島寒月さんこと寺田寅彦の実生活は実験物理学の学者であるが、日常目にする自然の現象をとらまえて物理の深奥を極める才人であった。寺田は熊本の高校で田丸卓郎という物理教師の教えに惹かれて初志の造船工学から転向したのが生涯を決定した。英語教師にはロンドン帰りの漱石がいた。試験にしくじった学友を救うため委員に選ばれた学生が担当教師のもとに請願に行く風習があったらしい。漱石宅でその役目の請願を終えた後、寺田は俳句とはどんなものかと質問した。このことを契機に寺田は子規、漱石流の俳句を生涯続けることになった。田丸と漱石、二人の教師についてそれぞれ追憶が随筆に残っている。寺田が東京大学に入り、漱石はロンドン留学を経て東京に来て、二人の親密な交際が続く。

寺田が古いフィロソフィカル・マガジンで「首つりの力学」を見つけたので漱石に報告したら見せろというので、借りてきて用立てた。それが「猫」の寒月くんの講演になって現れている。高等学校時代に数学の得意であった先生は。こういうものをちゃんと理解するだけの素養をもっていた。文学者には異例であろうと思うと随筆に書いている。

中谷宇吉郎は寺田寅彦の直弟子である。同氏の、恩師を語る『寺田寅彦』(講談社学術文庫)にはマクロのレベルでの話題が豊富である。寺田は自然が好きだったし、植物愛好者でもあった。中谷は漱石の句「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」を思い出しながら寺田の研究姿勢について話を展開している。

寺田寅彦の随筆「思い出草」の中に熊本から帰郷する途次、門司の宿で友人とこの句について一晩論じあったことが記されている。どんなことを論じあったか覚えていないとしてあるが、つづいて「ところがこの二三年前」と前置きして、椿の花は落ち始めにうつ向いていても、空中で回転して仰向けになろとする傾向があるらしいことに気がついて、実験の結果そのことが確かめられた云々と述べている。前置きの「二三年前」は「思い出草」を記している時点からの二三年前である。このことは、この文が昭和9年1月『東炎』記載であること、および、後述するように椿の花の落下運動の論文は昭和8年に発表されていることからわかる。すなわち、1933年理化学研究所彙報『空気中を落下する特異な物体の運動――椿の花』がそれである。椿の花の落ちざまを2年がかりで観察することになったきっかけは、ある知人から椿の花が仰向けに落ちるのはどうしてかと質問されたことにあったらしい。想像するに前記友人との議論の的は「虻を伏せたる椿」にあったのではなかろうか。うつ伏せと仰向け、正反対の様子が人々に受け止められている、漱石の句は実景だろうか、空想かもしれないなどと。

ロンドン留学中の門弟の藤岡由夫に珍研究を始めたと書き送った手紙がある。

「この間、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわけを、誰か研究した人があるか、 と聞いてみたが、多分ないだろうということであった。花が木にくっついている間は植物学の問題に なるが、木を離れた瞬間から以後の事項は問題にならぬそうである。学問というものはどうも窮屈なものである。」(1931年2月14日付)

ここで寺田のいう窮屈という言葉の使い方は面白いと思う。簡単に言えば将来性のあるネタが潜んでいるかもしれないものをもったいないことをする、発展性がない、とかいう意味をもっていると感じられる。その珍研究の英文論文に書き込みがあるタイプ原稿が高知県立文学館に所蔵されていると教えてくれるのは松尾宗次さんという冶金学者で工学博士、鉄屋さんのOBの方である。この方は寺田寅彦という稀代の学者をもっと世に知らしめたいとの思いを沢山の文章にこめて発表されている。ここに書いた件ほか多数が、同人のホームページや寺田寅彦記念館友の会会報『槲(かしわ)』に寄せられている。便宜のためURLを書き留めておく。oykot30はどうやら東大理一昭和30年卒業という意味らしいと見当をつけた。であれば筆者と同年の方々の集まりである。頭の構造が違う人達だ。

http://oykot30.web.fc2.com/bunshu/40matsuo/teradatorazoku_0002.pdf

http://oykot30.web.fc2.com/mokuji.htm

松尾氏は文理両面にわたる知の領域をお持ちのようで、寅彦の父利正が幕末の土佐藩に起きた井口刃傷事件で詰め腹を切らされた宇賀喜久馬の介錯をした人物であることから、寅彦が明かさなかった心の裡を推し量っている。その面から寅彦と漱石の繫がりをさぐり作品に現れる椿の花にも関心を向けている。かくして物理の話題であったはずのものが、こと文芸におよび『それから』を開いてみた筆者も冒頭の枕許の椿の場面にぎょっとさせられたのである。

椿の花の研究に話題を戻すと、寺田は花びらが受ける空気抵抗の観察を単純化するために円錐形の紙模型を考案して円錐の開き角度を色々変えて試している。その半世紀以上も経た1994年に「一枚の紙の落下挙動」という論文が権威ある専門誌に掲載される。複雑系研究の金子邦彦氏の実験結果である。寺田の円錐の角度を180度にすれば同じ現象が捕まえられるわけであるから、寺田は金子の半世紀先を行っていたことになる。寺田の物理学を趣味的として軽んじる向きが多かったといわれるが、本人は常にその先にあるものを追求していたことが理解されなかったのである。有馬朗人東大総長が寺田は生まれるのが50年早すぎたと嘆いた所以である。金平糖の角(つの)の出来具合とか線香花火の観察、ガラスのひび割れの研究、そして墨流しの研究、それぞれに奥が深く単なる日常的現象の探求に終わるものではない。3・11の地震と福島原発事故は古の災害につながっていた。地震予知などはほぼ不可能なぐらい自然の営みは奥深いことを寺田は喝破していた。味わい深い随筆集を繙きながら再び頻発する昔と同じ震源域の揺れを感じているこの頃である。中央大学松下貢教授のコラムが参考になる。

https://www.phys.chuo-u.ac.jp/labs/matusita/doc/zuisou5.htm

ここには寅彦が当時の要素還元思考的な物理学一辺倒の中にあって、50年先に周囲が気がつくようになった複雑系の物理学の方法を随筆の中に示していたと記されている。

(2021/7)