作者は日頃多摩川の土手や河原の路を散歩する。多摩川べりを歩いているという感覚ではなく、幼児から体験したいくつかの川が脳裏に明滅する。4、5歳の頃、女給さんのいるカフェーでハヤシライスを食べた江戸川沿い、連れてくれた中学生に口止めされた。母と途中で別れて一人で家に向かったとき、市川の真間川は不気味な淵に見えた。関西の旅で淀川が目に入ると、一時大阪に住んだと語る母の話を思い出す。途端に無意識のうちに高知の母の実家の前を流れる鏡川が目に浮かぶ。城の外堀の役割を持った川の左岸の一部は築屋敷という名の屋敷地となっている。気分はいま、築屋敷の土手を歩いている。母の実家の前の河川敷は一面桑畑だ。座敷に座ったままで、桑の葉ごしにチカチカ光る鏡川の流れが見える。
川の対岸に柳の木が一本あって、水面に枝を垂らしていたのを、私はかすかに覚えている。そして私は、そこに、
一軒の茶見世の柳老いにけり
という蕪村の句をあらためて憶い描いてみる。ここから作家は与謝蕪村の「春風馬堤曲」の叙景とともに蕪村の心を写しだす。これは蕪村の生家あたりの風景なのだ。摂津国毛馬村。藪入りで母のもとに急ぐ娘とのしばしの道行きを織り込んで18首の句と漢詩でつづった稀代の名作。シメククリには次のようにある。
君見ずや故人太祇が句
藪入りの寝るやひとりの親の側作家は多摩川の河川敷の一劃に、暮れ残ったすすきの原に揺れる白い穂先の波をながめて、ふと白髪の頭髪を乱した母の姿を思い出す。
蕪村は父母の氏名も出自も不明、育った場所や地名も不確定で、転々として掴み難く、天涯孤独を偲ばせる。
「丸山主水(応挙)が黒き犬を描きて賛せよと言ひければ」という前書きがあって、したためられた一句、「おのが身の闇より吠えて夜半の秋」、この句がいかにも蕪村らしいという。ただし、この絵をまだ見たことがない。応挙はきっとおびえた痩せ犬を出したろうが、蕪村が自分で描けば野太い声で闇夜に吠える剛直な黒い尨犬(むくいぬ)にちがいないと勝手に思い込んでいる。
ところが、文中にそれらしい図の写真が載せられている。読者から送られたから収めることにしたという。
己が身の闇より吼て夜半の秋 蕪村 |
住まいを転々と変わる暮らしを重ねてきたところから、作家は二葉亭四迷が評したロシア小説の主人公の性格「本領が浮薄で、万事浮足で、踏みごたえ足溜りがない」気質を母親から自分が受け継いでいるように思っている。作品全部を読み終えてあらためて考えると、登場人物のうちの西山麓に思い当たり、そこに作家自身の気質の一部がみえるように思える。黒犬の図はその表象ではないのだろうか。仮に蕪村が描いたならば黒い犬には「おのが身の闇よリ吠えて」反発する剛直さがなければならないと作家は見るからである。
冒頭に系図がある。そのうち小説に登場するのは15、6人ほどだ。世間に知られている事績や資料のほかに私蔵されていた書簡や文書があったはずだ。作家はこれを古文書解読の専門家北小路健氏(故人)の助力を得て、パズルを解くようにして人々の動きを探った。
西山麓という人物、高知では知られているはずの人であるが、才能ある漢詩人として、または奇人としてである。詩の才能は独学だそうだが、名の通っている漢詩人横山黄木がその才を保証している。小鷹の号をもつ。小説には、はじめ「葬式の旗持ち」として落ちぶれた人の代名詞で出てくる。日常的に家の中ではなんにもしない。寝転んでいるだけという怠け者である。ただし他人が見ればのことで、芯に密かに勁いものがあるように書かれている。上に述べた黒犬の図の登場は、この人を意識した作家の作為ではないかとも思われる。
丸岡莞爾という冒険ロマンのような実話をもつ人がいる。脱藩して長崎商会の帆船に乗ってカムチャッカへ行ったり、五稜郭で戦ったり、宮内庁に勤めたり、沖縄県知事をしたりしている。麓の母親は莞爾の妹千賀である。莞爾自身は和歌を得意としていて、沖縄は尚氏の一族とよく歌会を催した。政治詩の多い当時の漢詩界にあって花鳥を詠み込む作詞が多いのは麓の特色であったから、県庁職員にしてもらって文化交流では役立っていたのであろう。夫に先立たれた千賀と麓を莞爾が援助していた。莞爾の死後、未亡人は一年祭をすませると早々に東京に引揚げてしまったから、母子家庭が遺された。千賀は宮中で湯殿の下働きを勤めたらしく、天皇の使い捨ての浴衣を大量に頂戴して戻った。暮らしのたずきになっていたことは、作家も母親から聞いている。50歳過ぎの千賀が母子の行く末を案じながら山路を墓に詣でる途次、耳の奥に謡曲『角田川』を聴く。莞爾が一時住んだ敷舞台のある家で稽古に招いた師範の声だ。謡曲『角田川』は子を思う母の物狂いが主題だ。謡の中の子の年が12歳。父に死に別れた西山麓も12歳。片親で育つことの容易ならぬ苦労をいまさらながら感じ入ったうえでの作家の幻聴だ。苦労する麓よりも、いつもそばでハラハラしながら眺めていた千賀のほうが辛さが多かったであろうという思いやりである。母千賀は明治34、5年頃亡くなっている。
独り身の麓は50歳半ばから、夜は養老院一燈園で泊まるようになっていたらしい。昼間は友人の家に上がり込んで蝿帳の残りものを食したり漢詩を詠んだり見たり、そうでなければ寝転んでいる。逸話はいろいろ記されている。最後は独り、養老院一燈園で亡くなる。安政6年ー昭和3年 享年70。
何しろ系図を追って15人ほどの人物を書き分けるには、縦に年代をみて、横の関係も必要になる。縦は親子、横は夫婦の関係、子の年長順は右から左へ。途中の空隙にポンと養子が現れる。それぞれの生きた間に起きた事柄、世の中のこともあれば、個人的なこともある。系図全般をにらんで見渡せば、映画のフィルムの回転と走馬灯の絵柄を同時に眺める気分である。頭の中でこの作業をすると遠景を眺めるような心持ち、しかしこれを平面に書き写すとなると言葉の一回性のせいで、行ったり来たりすることになる。その間に人物が交代したり再来したりということになって、ページを追うにしたがって記憶が怪しくなる。で、感想が切れ切れになって霧散しそうな気分である。
安岡氏の母上、恒は日本橋区瀬戸物町11番地、日本生命保険会社の扣家(ひかえや)で生まれた。明治28年。扣家は予備の家屋のことらしい。「こう見えたって、わたしはレッキとした江戸っ子だからね」といばっていたのを作家は憶えている。「にんべん」の隣家である由、と注記してあるのが庶民の耳にはうれしい。
恒は入交千別(いりまじりちわき)の三女である。千別は明治9、10年頃、郷士の生活と縁を切り、同志数人と印刷所を始めた。経営資金が不足し民権団体立志社の援助を仰いだ結果、当然のことながら民権派の機関紙になってしまった。土陽新聞といったが、社長は片岡健吉、これが立志社の社長でもある。周知のように幕末から維新にかけて土佐藩は動乱の只中にあったが、維新後も廃藩置県、議会開設、衆議院選挙、各地騒擾事件が続く。このようなことはこの作品にはほとんど触れられていない。
入交千別は明治23年第一回国会が開設されたのを見物するために上京して新聞社を退社した。話の順が変だ、退社して上京ではないのかと疑っても事情はわからない。上京した折に日本生命社の副社長の職にあった義弟の片岡直温(なおはる)に就職の斡旋を依頼したふしがある。すぐには叶えられなかったようだが、翌年12月中旬、東京支店長に月額30円ほかに賞与つきという好条件で諾否打診の書状が築屋敷宛に来ている。千別は即答せず推移は不明に終わったが、明治36年春に家族帯同での東京転入が寄留届で判明して、東京支店長におさまったと知れた。新聞社退職から保険会社入社までの2年半ほどの間に何が起こったのか、安岡探偵の古い書状発掘探索では、同姓の人物、年号なしの書状数通に惑わされて明確な解決は見られなかった。この間に何が起きていたかがその後に語られる。第2回衆議員選挙で大荒れの高知県では死亡者10名負傷者66名の動乱状態にあったのである。こういうなかで、はじめ片岡直温が当選、片岡健吉が落選であったが、逆転の結果となった。直温は揉みくちゃにされて、千別の就職問題どころでなかったのだというのが結論。端折って言うが、新聞社の会計担当者で月給5円だった千別が、30円の月給に飛びついたわけでもなく、そのうえ、わざわざ大阪まで出かけて、さる人に保険事業に無知な自分でいいのだろうかとまで念押しした。そうまでした入社も、事情は不明だが10年ほどで辞職して、あとは建て直した築屋敷で悠々自適の無職生活を楽しんでいた。
辞職後の48歳の時、第5女、久が生まれたことが当時冷やかされながら祝福されたと書いてある。しかし、その結果とでもいうか、妻の竹が肺結核で亡くなった。大正4年55歳。問題はその後、50日祭がすむかすまないかのうちに千別が再婚を宣言する。まだ21歳だった恒が猛反対したが、結局千別の意志が通った。そうなると恒が後妻と同じ屋根の下に住まうことは、三者の間に四六時中険悪な空気が張り詰めることになった。解決策は駒場の農学部に進んだ章に嫁がせることになったという。これとても、はじめは養子の必要のない入交の家に章を婿に迎える話がまず進められたというから、昔の家のしきたりには理解できないことがあるものである。
まだ寺田寅彦に関係することなど作家が提供する話題は尽きないが、実は繰り返して読むほどに新しい発見が見つかるような気がして、読み収める気分にはなかなかなれないでいる。縦横に入り組んだ事柄を実にうまく読者を惹きつけるように書き得たものと、当然のことながら感心する。名品である。歴史は人間が作るということが身にしみるように理解できる。いまは家の制度が変わり、大家族が減り、人間の質が急速に変わってゆく。少子化が云々されたかと思う間もなく高齢化が追い打ちをかけてくる。介護保険が出来てはいるが高齢者用施設も増えている。それでいて役場には孤独死した人の骨壷が大量に埋葬を待っている時代である。安岡章太郎氏は2013年に92歳で亡くなられた。それでよかったというのは、おかしく響くが、もっと生きておられたなら哀しい思いをされたかもしれない。氏は個人的には大変なご苦労をされたが、ユーモアを忘れず人をあたたかく包み込むようなお人柄である。この歴史があってこの人があるという、言い表しがたい感銘が残る名品である。その反対にこの人だからこの作品が残せたと言えるだろう。
読んだ本:安岡章太郎『鏡川』2000年 新潮社、新潮文庫2004年 (2019/7)