2019年7月22日月曜日

『古事記』序文が曲者だった

三浦佑之『「古事記」のひみつ』2007年を読んだ。記紀についての研究は新しい発見や見解が次々に発表されているので、筆者のような素人が書物で得る知識は、すでにかなり古くなったものだろうと思う。当方は学問追求ではなく知識を楽しむために読むのであるからそれでも一向に構わない。
少し前に長部日出雄『「古事記」の真実』(2008年)を読んだが、この著書の基本は、天武天皇が修史事業を始めたが、出来てくるものはすべて文字資料による史実だけで、口頭伝承が含まれないことに気づき、その欠陥を埋める作業の必要を感じたとする。口承による過去を再現できるのは宮廷巫女たちであったから才能豊かな稗田阿礼に口承による故事収集を命じたというのである。当然に阿礼女性説を採ることになるが、このことは専門の歴史学者の間に男性説と女性説の両論があることで、女性説が誤りとして排除されることはない。
長部氏の考える基本には、天武天皇が、公式編纂の『日本書記』とは別に、口頭伝承を集めた『古事記』を個人的に編纂することを計画したに違いないとする。結果として『日本書記』は漢文体で記述され、『古事記』は和漢混交体の漢字文になった。太安万侶は文字のない社会で話されていた言語を漢字に写す作業に苦心したと序文に書いている。難事業にもかかわらず、わずか4ヶ月で完成した。短期間で完成という不思議を解く鍵は、天武天皇と稗田阿礼との共同作業によって「原古事記」とでも言うべき形が作られていたことだと長部氏は想定する。
天武天皇は非常に和歌に長じた人物であったので、歌謡を多く含む伝承の語りを朗々と読み上げる技にもすぐれていたとする。そういう天皇が読み上げるのを阿礼が誦習した。25年後に元明天皇の命によリ、かつて天武天皇の読み上げたとおりに阿礼が読み上げ、音声聞きわけに長じていた安万侶が漢字を選んで書き写した。こうして古事記が出来上がったというのである。
筆者は25年という時の経過が気になっている。阿礼がそれまで元気に生きていただろうか、53歳のはずである。また、記憶力はどうか、各地から集めた伝承を天皇がすべて一人で朗唱できたものでもあるまいなど、なにか便宜的な結論であるようにも感じられる。だから一つの愉しみとして読んだ。
長部氏が本居宣長に導かれるように、文字のない頃に伝えられていた日本語による伝承ということに視点をおいたことには賛同する。日本語の音韻を主題とする「上代特殊仮名遣」学説を完成した有坂英世を紹介し、その「古事記におけるモの仮名の用法について」の学説、つまり漢字で日本語の音を表記するに当たって、「モ」を「毛」と「母」の二通りのほかは使われていないのが『古事記』の特徴とした。古事記が後世の偽書ではなく、非常に早い時代の作であることを証する材料である。8年後に完成したとされる『日本書記』では、もはや漢字による和語音韻表記は乱れていると言われる。

三浦佑之氏は『図書』に「風土記博物誌」を連載されているのでお名前は存じ上げている。誌上では古代文学研究者となっている。歴史学者のお仲間に入れて考えてはいけないのかよくわからないが、文章は親しみやすい。で、氏の考えに沿って『古事記』を考えてみることにした。
長部説にいうように天武天皇が同時に二つの歴史書を企図したなどとは、とても考えられない。『古事記』と『日本書紀』の二つの存在に惑わされるのに比べて、三浦氏の主張は『古事記』に別の存在場所を与えようとする。後世の我々を惑わす曲者が「序」であるとみなし、本文にそれなりの位置づけを与え、「序」がつけられたのは後世の偽装であるとする。その「序」が「臣安萬呂言(しんやすまろまをす)」で始まるのは上表文の形式だそうだが、本来上表文は一枚物の用紙が単独に添えられるもので、「古事記序」のように本文に先立つ文としてあるものではない。三浦氏はこの上表文の形式が時代が下がるにしたがい崩れたと考える。「古事記序」は上表文の形式が忘れられてしまった時代に書かれたと考える。古事記本文は漢字を日本語に当てた「上代特殊仮名遣」の研究によって7世紀半ばから後半の成果と考えられている。これは現在の学界が等しく認めている。
『日本書記』には『古事記』序のように自らの成立を述べた箇所はない。弘仁4年(813)に行われた日本書紀講筵の記録、いわゆる「弘仁私記」の序には天武天皇第五皇子の一本舎人親王が太安万侶等と勅を奉じて撰したとある。続けて、これに先立って天武天皇は稗田阿礼に帝王本記及先代舊事を習わせた。先代舊事とは推古天皇28年に、聖徳太子や蘇我馬子たちが共同で議録した天皇記・国記ほか天地開闢より推古天皇までの古い出来事をいうと文中にある。未完に終わって時代が移った。元明天皇の年、天皇は安万侶に詔して阿礼の読むところを編纂させた。和銅五年正月廿八日のことで、古事記三巻であると記されている。
この講義をしたのが安万侶の子孫の多朝臣人長である。講義の機会を利用して、『古事記』が『日本書記』の先駆をなすものとうたいあげて権威付けしたと考えられる。しかも安万侶は『日本書記』の撰にも携わっている。三浦氏は権威付けとされるが、それは『古事記』が顧みられなくなっていたからだ。
この時代には「氏文(うじぶみ)」とよばれる諸氏の家々の由来と系統の記録が盛んに作られた。天皇家や藤原氏との軋轢などが原因で、律令体制確立の段階で古来の自家の伝統が黙殺されたり、強圧されたりして、止むなく暫時雌伏していたことへの反動かとも考えられる。特に祭祀に関係する氏に氏文作成が多かったという。『古事記』の内容は真偽を問わない神代の物語であるから、祭祀関係というのはうなづける。
この「弘仁私記」が『古事記』の名が世に出た最初であると知った。筆者は『古事記』がどうやって世に知られたのか知りたいと思っていたので、これには単純にびっくりした。100年もの間、知られることがなかった、ここに秘密があるように感じる。
「弘仁私記」序文に、「書紀」の撰に関係した安万侶のことを「王子-神八井耳命之後也」と書いてある。これは神武天皇の皇子の末裔を指しているが、結局は多氏の系譜を示していることになる。三浦氏の見解のように、律令制度に適応しがたい記事は載せないのが『日本書紀』であるとすれば、『古事記』は伏せなければならない書物だった。三浦論では「記」と「紀」に描かれるヤマトタケルの人物像を比較例として引いている。『古事記』は多氏に伝わる物語の書物であったのだろう。諸家の氏文が種々あらわれるような時世になったので、多朝臣人長は日本紀講筵の博士をつとめる機会を得て、ここで自家に伝承される「フルコトブミ」に陽の目を見せようと決心をした。もっとも三浦氏はここまで明確に断じているわけではない。律令制度という枠を『日本書記』にはめて考える三浦氏の思考を筆者が延長したまでである。この本『「古事記」のひみつ』には著者の結論を出してはいない。古代日本にはわからないことが多すぎる。
筆者はよくブログを参考にしている。春野一人の名で「太安万侶、古事記を作った人の秘密」という題の連載がある。一人の名でのグループ研究らしい。小説仕立てで書いているが、資料探索の範囲が広くて当方の知識も増えてありがたい。長い話の末に、多氏は渡来系であって、その過去が筑紫に根を張る倭国(ヤマト)、百済も含める領域で出雲国も関わっている。そんな家の歴史は飛鳥・平城の大和朝廷の歴史の邪魔になるから禁書にされた。『日本書記』は朝廷の都合に合わせて書かれた史書であって、安万侶の漢字知識が発揮されて、密かに内緒のことが織り込まれる。よく調べてある。
というわけで、今回の結論は、古事記序文が偽造であって、『古事記』自体は立派な国民資産。愉しめばよろしいということにしておこう。
読んだ本:長部日出雄『「古事記」の真実』文藝春秋(2008)
     三浦佑之『「古事記」のひみつ』吉川弘文館(2007)(2019/7)