小説家柳広司氏の作品には世間周知の有名作家の名や題名を借りたものが多い。漱石の「坊っちゃん」、シートン「動物記」、小泉八雲「怪談」、コナン・ドイルの「ホームズ」などなど。表題でなくとも中身に名作を借りる場合もある。文学の用語でパスティーシュというらしい。いずれも作者が次に書くものを考案中に、好みの赴くままに到達した結果だろう。このたびは『象は忘れない』(2016)を読んだ。柳氏の作品以前に同名作品が非常に有名だった。いうまでもなくアガサ・クリスティのポワロものだ。原作は1972年。ついでなので両方読んでみた。ついでのついでながら、テレビドラマにつくられたこの作品には原作にないエピソードが付け足されている。
「象は忘れない」というのは英国のことわざだそうだ。起源とされている小話は、あるとき仕立屋が象に針を突き立てた。忘れていたが後々のあるとき、象に水を頭からぶっかけられた、というものだ。忘れない、覚えている、恨みを返す、執念深い、などの気質表現に応用される。
英語では、”An elephant never forgets” が本来のようだが、クリスティは “Elephants Can Remember”としている。古い事件の真相を探り出すために、当時の事実を覚えていそうな老人たちを訪ね歩くミセス・オリヴァは、思い出してくれる象たちを見つけ出す。ポワロが事実をつなぎ合わせて、なぁるほどという物語だ。構成の無理筋を突っつくことはしないでおこう。
柳氏はどうしたか。作品はフクシマの原発事故がもたらした理不尽な不幸を語る5つの短編である。中の一つに「象の足」が出てくる。爆発したチェルノブイリ原発現場に遺る燃料デブリにつけられたニックネーム。放出されている放射性物質中に含まれるプルトニウムの半減期は2万4千年だ。「象の足」はいつまでもいつまでも毒を放射し続ける。表題「象は忘れない」に添えられている英語は ”The Elephant Never Forgets” とある。
さてと、柳氏の『象は忘れない』に戻ろう。5つの物語につけられた題はそれぞれ「道成寺」、「黒塚」、「卒塔婆小町」、「善知鳥」、「俊寛」となっていて、これらはすべて能楽の演目だ。通底するのは3.11と通称される東北大震災で起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故によって被害を被った人々に起きた出来事である。あれから7年とかいって回顧したり変遷を伝えたりするメディアに日本の大衆は目を塞がれているのではないか。もっと目を凝らして見つめて、なにがいけなかったのか、どうしなくてはならないのか、よく考えようではないかと警告を送って啓発している作品なのだ。この作家らしく言葉はやさしく内容もわかりやすい。この人の人気の源泉みたいになっているミステリー小説を期待すると間違う。かつての『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』の広瀬隆氏や『日本の原発地帯』の鎌田慧氏たちを読んでいた世代の次の世代、つまりいまの人たちに向けて書かれた作品だ。ノンフィクションではない。
作品を読んでいるうちに物語とは別に苛立たしい気持ちが湧いてくる。いまに始まったことではない、フクシマの事故を考えるときはいつも同じだ。
地震と津波は自然災害だが、原発に起きた爆発事故は自然災害から護ることができなかった。これは人災なのだ。想定外の自然災害だから護れなかったのではない。世界でも類を見ない地震大国日本で原発を動かすのであれば、地震や津波、あるいは火山活動、巨大台風といったものは、当然予想すべき事態だろう。たとえ原因が自然災害だとしても、一度事故を起こせば当事国日本のみならず世界規模で甚大な被害が出る原発に関して、「予想を超えた」や「想定外」などという言葉は通用しない。これは著者の意見であり、筆者の意見でもある。
さて、能楽の演目で提供された物語を読む愉しみは、物語とは別に演目とのつながりをさぐる謎解きにもある。
「道成寺」の題で出されたのは原発現場の下請け作業員純平と、親しくなった奈美子のことだ。
地元育ちの純平は幼い時から電力会社による原発立地地域への便利供与サービスや安全意識教化を存分に享受してきた。何があっても壊れはしないという宣伝に対して信仰のような思い込みがあった。奈美子の方は事情があって他所から来て、やむなく飲み屋の手伝いをしている人間で、部屋を覗いても本がたくさんあるという人柄。ある時から原発や放射能の危険性にこだわりはじめて純平と話し合おうとする。純平にはそんな話は地元のタブーでもあったし、事実なんの心配もなく仕事ができていたから奈美子の心配がバカバカしく思える。うるさいっ、思わず手が出た。
奈美子が姿を消して2週間ほどして地震がやってきた。つづいて原子炉冷却装置が作動しなくなった。炉の圧力が高まり、ついに手作業による圧力排出弁開放という決死作業が求められる。純平にも順番が来て線量計が激しく鳴る中、現場に入ったがヘルメットの中で朦朧としてきた。頭の中で奈美子の声で三匹の子豚と狼のやり取りが聞こえてくる。なんとか作業を終えて脱出したときに3号炉が爆発して意識を失った。狼の息で子豚の家が吹き飛んだ、いや原発の壁は何があっても壊れないのだ。わからない。気がつけば入院させられていた。仲間に会いたい。「高い被曝量の人が近くにいると、互いに線量を高めあってしまうのです」。そうか、おれは被爆したんだ。壊れないはずの建屋が紙の家みたいに吹っ飛んだ。何がほんとか、どれが虚構か。唯一、外の情報はテレビだけだ。レベル7が宣言された。チェルノブイリ原発事故以来の高いレベルだ。陸も海も汚染されている。
さて、この話の中のどこに「道成寺」があるのだろうと考えた。恨みに思った女が火を噴く蛇身となって僧の隠れた鐘に巻き付いて鐘もろとも僧を焼き殺す。答えはこれしかなさそうだ。安珍と清姫という道成寺にまつわる伝説の二人にとらわれると間違える。原子炉が溶け落ちて塊になった「象の足」がここでも落ちた鐘が溶けることと通じるということだろう。
次は「黒塚」。能楽のあらすじ。山奥の一軒家に宿を求めた山伏の一行。主の老婆が薪を取りに出た隙に覗くなと言われた奥の間を覗く。死骸の山。驚いて逃げ出す一行を追いかけてきたのは鬼婆だった。
青年団の慶祐は海岸の瓦礫の方からタスケテという女の声を聞いた。辺りは暗闇。消防団のいる処に行って助けに行こうと誘うが夜明けまで待てという。その夜明けになると原発が爆発しそうだから10キロ圏内から避難せよと命令が出る。女をほうっておけないと主張するが、団長は全員を避難させるのが先だと命令する。やむなく慶祐は町のマイクロバスで隣町まで町民を運ぶ。その避難所からさらに二度目の避難をさせられた。30キロの距離にあった。自分の車で陽一郎が一緒だった。家が近所だっただけの腐れ縁の仲間だ。東京の大学院を中退して町に戻ってきた。
ある晩、車で寝ていた二人は白装束の男たちをみる。彼らの車の中を覗くと線量計があった。すかさずそれを持ち出して測りはじめた陽一郎は怖ろしい顔をして逃げようと言い出した。30キロ圏ではありえない線量だという。じゃみんなに知らせなきゃ。
そんな暇はない、俺達だけでも逃げようとしつこいから同意した。測りながら走ったが、どこまで行っても線量が下がらない。ようやく線量計の音が鳴り止んだ。50キロ圏に来ていた。
二ヶ月もたってからわかったことは、爆発で放出された放射性物質が風に乗って運ばれる方向に沿って移動してきたのだった。避難になっていないどころか、本来浴びなくてもよい放射線を浴びたはめになる。どこからも何の情報もなかった。
政府や、県や、警察は、原発が爆発する2時間前に、どの方向に放射性物質が流れるか知っていた。あのとき見た白装束はそれを知っていたから、自分たちは被爆しないようにあの格好で来ていたのだった。地元住民に一切知らされなかったのはパニックを起こされては困るからだったという。住民には知らせずにいてアメリカには知らせていたというから呆れる。こういう事実は役所からではなくてテレビの報道でわかったのだ。結果的にF町が避難指示区域に指定された。意味は住める町でなくなったということだ。
海岸近くの瓦礫の山の中から死体が発見されたという報道を耳にしたが慶祐は詳しい話はあえて聞かなかった。
あのタスケテの声が耳について離れない。生きていた。原発の爆発がなければ助けられたかもしれない命の声だ。「原発で死んだ人はいない」と言った国会議員にあの声を聞かせてやりたい。
謎解きにかかろう。白装束の人達を見た夜、慶祐は夢を見ていた。
開けるなと言われた扉を開けようとする。開けると二度と戻れなくなる。扉の向こうでタスケテと声がする。あの声だ!我を忘れて扉を開ける。ありとあらゆる生き物の死骸の山。その死骸の山からタスケテとかすかな声。恐ろしくなって逃げ出す。足音が追いかけてくる。死骸が次々と鬼女の姿になって追ってくる。
このあと謡曲の文句らしいのが連ねてあるが省略する。
初めと夢のくだりと結末を見れば、「黒塚」の物語を重ねていると分かるから謎にもならない。
要するにこれは追いかけられて逃げる話だ。
津波の被害者のうちには原発事故がなければ助かったかもしれないのに、実際には原発事故があったために助かる機会を失った不運な人もいた。
タスケテの声の主は逃げられなかった人だ。「黒塚」とどう結びつくのか筆者にはわからない。原発事故は非情であるとでもいえばいいのだろうか。
「卒塔婆小町」あらすじ。道ばたで朽木の卒塔婆に腰を下ろしている老婆に僧が仏を粗末にしないよう説教すると、逆に老婆が言葉を返して言い負かす。僧はこの老婆は只者でないと知り素性を訪ねると、小野小町の成れの果てだと答えるが、次第に様子が変わり、かつて小町を恋い慕いながら恋を成就できなかった深草少将の怨霊がのり移って狂乱状態になる。やがて狂乱が鎮まると小町は後世の成仏を願って悟りの道に入ろうと志す。
フクシマで家庭を築き順調だった靖子は、原発事故のあと漁獲が汚染されてしまって漁師の夫が荒れてしまう。ボランティア団体に支援されて夫の暴行を逃れて幼児を連れて東京に移った。原発と放射能の勉強会グループに入ってみたものの難しすぎるうえに、フクシマからの人ということで特別な視線を感じる。表面の親しげな様子と裏腹な疎外感に耐えられなくなっていたところに救いが現れる。公園でぼんやり座っているときにやさしく声をかけてくれた上品な婦人。周りにいる女性たちは仲間らしいが、みな普通の人たちにみえる。誘われるままに翌日のお散歩会に行くことにした。美しい日本を取り戻すのだそうだ。教えられるままにその集まりに顔を出す。靖子は知らなかったが、それはヘイトデモだった。そこは居心地が良かった。みんなと一緒になれるから。
この謎は簡単だ。公園で落ち込んだ様子で座り込んでいる靖子が小町だ。能楽の小町は救われるが、靖子小町は別種の泥沼にはまってしまう。幼子をもつ女性で放射能を避けて東京まで避難した人は少なからずいる。大なり小なり皆別種の被害に泣いているのが現実だ。そのうえフクシマで避難すれば受け取れる支援金などもない。水俣病でも見られた線引きという同種の不公平政策の被害者でもある。
「善知鳥(うとう)」。この演目は善知鳥という名の鳥が親子で異なる鳴き声をする特性を利用して子を捕獲する猟師の話。旅の僧が立山で猟師の亡霊に出逢って、故郷の陸奥国外ヶ浜の我が家に行って弔ってくれと頼む。言われたとおりに弔っていると地獄に堕ちた猟師が化鳥となった善知鳥に苛まれて苦しむ様子が見え、助けてくれと頼んで消える。
フクシマ事故では米海軍によるトモダチ作戦が実施された。作戦の中には極秘に行われた原発事故現場の海の調査が含まれていて、従事した兵の中からトラウマを受けて心身不調者が出ている。その一人が日本人カウンセラーによって原因を探り治療を受けようとしている。
この兵は駆け寄ってくる5歳の息子を突き飛ばした。子煩悩な父親が子どもに手を出したことに驚いた母親が軍に電話して相談した結果クリニックに来ることになった。医師と兵の会話から物語が進む。
トモダチ作戦の支援物資を手渡す作業でその兵は楽天イーグルズの帽子をかぶった10歳位の男の子に出逢う。一人ぽつんと膝を抱えて座っていた。通訳を通して話を聞いた。少年の父は原発作業員だった。地震の日以来帰ってこない。一緒に野球を見に行く約束があるという。だから探してほしいと言った。少年はアリガトウといって銀色のバッジをくれた。手の中のバッジが焼けるように熱かった。この兵は少年の父親を知っていたのだった。でも、少年に報いてやることができなかったのだ。
実は極秘作戦でその兵は海中に浮遊するたくさんの屍体を見た。その一つは楽天イーグルズの帽子をかぶっていて銀のバッジを付けていた。作戦では屍体を収容することはできなかった。それはゆっくり流れていった。
以来目を閉じると屍体が波間に浮かんでくる。屍体の目が動いて右手に掴んだ野球帽を差し出す。トモダチと言う。逃げようとしても逃げられない。今度は銀色のバッジを差し出す。アリガトウと言う。あの場所は地獄だ。そこで叫び声を上げて目が覚める。
この話には謎解きはいらない。生き別れた親子の運命だ。著者が最後に付け足したことは、カウンセラーの医師が、この患者の治療には薬は効かないから、非難すべき対象を見つけることを勧める。東京電力相手に賠償請求をすることだ。福島第一原発の運転管理において本来果たすべき責任を怠った。さらに事故直後、彼らが情報を故意に隠蔽することで被害が拡大したのだ。もし深刻な原発事故が起きず、通常の人的活動だけであれば、あなたはPTSDを発症することはなかったはず…と。上に述べた著者の意見がここで展開されているが重複を避ける。
最後は「俊寛」だ。能楽のあらすじ。僧都俊寛は平家打倒の陰謀を企てた罪により、藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島に流される。しばらく経ってのち都では清盛の娘、中宮徳子すなわち高倉天皇后の安産祈願のための大赦が行われ、都から迎えの船が来るが、俊寛だけが赦免にならず置いてゆかれる。
柳作品の「俊寛」では、俊寛(としひろ)、経成(つねなり)、康頼(やすより)という現代の青年三人の物語になっているのが可笑しい。小さい頃からの近所仲間。高校卒業後しばらくしてそれぞれ地元に戻っていた。ツネは自動車販売会社に勤め、ヤスはクリーニング業を開いた。トシは実家の農家を継いで有機栽培に挑戦している。2011年3月11日。住んでいる地区はたいてい避難区域に指定された。割り当てられた避難地域に建てられた仮設住まい。住民はばらばらになった。トシは昔から行われていた獅子舞を復活して住民の心をつなぎたいと思った。一人で走りまわってようやく目鼻がついてきた。稽古場にN市の公民館も借りることができたし、子どもたちを集めて笛や太鼓の練習をした。あちこちから稽古を見に来る住民たちも、ぎこちない獅子舞や笛や太鼓の音に喜んでいる。
それが、あるときからツネとヤスは来なくなった。避難地域の除染が進んで線量が小さくなったから自宅に戻らされたのだ。役所が来て帰ってくれといった。慰謝料も避難支援も打ち切り、仮設の家賃を払えないから帰るしかない。俊寛の家の場所は「居住制限区域」にある。ツネとヤスの家は「特定避難勧奨地点」だ。よくわからないが扱いが違う。制限解除する基準は規定線量が年間20ミリシーベルト以下だそうだ。復興を進めるために線量が下がった世帯は住み慣れた自宅に帰っていただいたいのだと。早期帰還住民には一人あたり90万円の賠償金が上乗せされるそうだ。
俊寛の家はヤスの家からせいぜい50メートル、ツネの家とは背中合わせで20メートルしか離れていない。お互い夕飯の献立が匂いでわかるくらいの距離だ。放射性物質は風や雨に乗って飛散する。三軒の家が線引きで区別される理由が理解できない。
20ミリシーベルトのことだってしっかりした根拠はない。国際基準は年間1ミリシーベルト以下だ。こうした線量による区別が住民の間に壁を作る。仮設住民の間にも諍いが多くなった。
ツネから仮設を引き揚げると連絡があったので、俊寛は引っ越しの手伝いに行った。ツネとヤスのいる仮設の近くに来て驚いた。引越し業者の大きなトラックが集まっている。全部業者がやってくれるのだという。費用も電力会社が持つそうだ。あっという間にツネの出発準備ができた。
「……じゃあな」クラクションが鳴った――象の鳴き声にも似た短い音だ。動き出した。俊寛は道端に立って呆然と見送っていた。すぐにトラックは見えなくなった。
「俊寛」には謎解きは全くいらない。俊寛と聞けばおいてけぼり、と日本人にはわかりきったことになっている。ここでも著者は国のやり方――施策などという立派な言葉に値しない――について事故発生時から時を経るにしたがってどんどん変わっていることをいくつも例示しながら批判している。はじめは住民の分断を避けるため線量に区分を設けないと言っていたのが、結局線量で区別した。除染なんていう作業は箒でゴミを掃くのと同じことで、放射能物質を移動させるに過ぎない。黒い袋に詰めて置いておくだけ。いつまでも片付かない。いやもうやめよう、きりがない。
はじめに書いたようにこの作品で著者は原発に対する為政者の姿勢をよおく見るように読者を啓発しているのだ。もっともっと広く読まれることを期待する。
*******
読んだ本:アガサ・クリスティー 『象は忘れない』中村能三訳 早川書房 2003年
柳 広司 『象は忘れない』 文藝春秋 2016年
(2018/5)