信者でなければ人間ではない、獣と同じというのが基本にある。スペイン人は南米まで出かけて先住民を入信させようとした。入信しないものは人間ではないから殺してもよいとして、殺戮し、彼らの土地を奪い、土着の高い文化を絶滅させた。この時代、ヨーロッパ人の宗教帝国主義が米大陸全般に及んだ。
ダンテの『神曲』では、ソクラテス・プラトン・アリストテレス以下のキリスト教以前の哲人たちが地獄に入れられている。サビエルはあたらしくキリシタンになった日本人たちに「お前たちの両親や先祖はキリスト教のゴッドを知らなかったから、永遠に地獄で焼かれる」といった。そしてその理由を説明して、「それも当然である。ゴッドの道は天然自然の法であって、人間は正しく考えればかならずそこに達すべきものである。それをしなかった思考怠慢のために、罰をうけるのである」と説き、日本人が泣くのを見て、サビエルも心をいためた。
ピサロやコルテスならともかく、ダンテやサビエルがどうしてこのような無理無法なことを考えたのかと、われわれは怪しむ。
われわれというのは、著者竹山道雄(1903-1984)がいうのだ。わたしはいま同氏の「聖書とガス室」という論考を読んでいる。1963年の文章である。書かれている事実についてわたしの知らないことがほとんどである。だからここに書くことは受け売りである。
竹山は続ける。しかしこれも、ダンテやサビエルの側からいえば、十分の理由があることである。ロマ書の1の18以下につぎのようにある。「それ神の怒は、不義をもて真理(まこと)を阻む人のもろもろの不虔と不義に対(むか)ひて、天より顕る。…(以下略)」
読んだだけではわからないし、竹山も説明していない。調べて大雑把につかめた意味は、すべての人は神の前では罪人である。ロマ書またの名、ローマ人への手紙でパウロが福音を説明している文章の第1章18。その文は最初に神の怒りがあることを宣言する。神を敬わない不敬虔と不正を行うことに対しての怒りであって、信仰することにより怒りから救われると説明する。(竹山はゴッドを神と訳すのは誤解をうむのでゴッドのままで使うが、引用文にある神は神とするとことわっている)
かくて、キリスト以前に生きていた者も、かつてその教えを聞いたことがなかった者も、ゴッドの怒りにふれて地獄で焼かれる。
われわれは神意にしたがって異教徒を改宗させる。キリスト教に改宗させることがすなわち救済することである。救済するためには力をもってしても改宗させるべきだ。――こういう信念が他人にとって迷惑であるということは知らなかった。
歴史を読むと、まことにそのとおりだったように思う。帝国主義時代の布教インペリアリズム(これは竹山語)だった。両次大戦後やんだという。
次ぎにユダヤ人のことについて聖書はただならぬ存在だったことが述べられている。
なんじらユダヤ人たちよ! なんじらは悪魔の子であり、悪魔の欲望を遂行しようとしている。 なんじらの父ははじめから人殺しである。いかなる真実をももっていない。つねに自発的に嘘をいう。彼は虚偽者であり、虚偽者の父である!これはヒットラーの『わが闘争』からの引用ではない、と竹山はことわっているが、新約聖書ヨハネ伝8に記された、イエスの説教だそうだ。竹山は文章をセリフに変えているが、あとに元の文ものこしている。ヨハネ伝は紀元1世紀末ごろ、ユダヤ人とキリスト教徒とがはげしく対立していた時代に書かれた。ユダヤ人はキリスト教の敵として蛇蝎のごとくに考えられた。ヨハネ伝はその相手を永遠に棄てられた不信仰者とするために、キリスト教会成立後の思想をイエスの口を通じていわしめたものだそうであると解説してある。
このようなユダヤ人に対する悪口が聖書にはいたるところにたくさん書かれていて、なかでもイエスを殺した罪が強調されている。
マタイ伝27章、裁判の場面。ピラトは群衆に問う。「この人の血につきて我は罪なし、汝等みづから当れ」民みな答へて言ふ「その血は、我らと我らの子孫とに帰すべし」
つまりユダヤ人の群衆はその人の血は自分たちの子や孫の代までも引き受けると答えたので、ゴッドの子の血はユダヤ人の子々孫々にまで帰することになった。
まことに聖書の物語はむずかしいが、わかったつもりになっておく。要はユダヤ人は永遠に救われなくなったということだ。竹山は「中世はもとより、近世にいたるまで、ユダヤ人があれほどにも憎まれ、迫害され差別されたのはこのためかと、聖書を読んで案外に簡単に分った気がした、と書く。著者竹山氏にしてからこういうことだから、わたしにわからなくてもまあ許されようか。
聖書に記された一語一句すべてゴッドや聖者の言葉であり、批判をゆるさぬ権威として、千幾百年も教育してきたのだから、それが人々の心の底に集合的無意識的な沈殿をのこしたのはあたりまえだ。根の深い土俗的感情として定着した。ユダヤ人は、悪魔の子であって、つねに陰謀を企て害を加えようとねらっている。罪の塊、人間の皮を着た獣であって、人間ではなかった。キリスト教国で反ユダヤ感情のないところはないし、歴史上に凄惨な迫害の記憶のないところはない。この潜在した感情が危機にあたって爆発的に表に出ることとなった。
竹山はヨーロッパ人のユダヤ人観と聖書の關係をこのようにとらえる。
最後の「爆発的に表に出ることになった」というのはナチスの絶滅作戦発動を指すのかもしれないが、1938年11月の反ユダヤ暴動「水晶の夜」事件ではないかとわたしは推察する。後者について竹山はふれていないが、ナチ政権とポーランドによる理不尽なユダヤ抑圧であった。ドイツもポーランドもユダヤ人が存在することを嫌っていた。パスポートを無効にするポーランドの法改正をきっかけにドイツ在留のポーランド系ユダヤ人がポーランドに向けて流れ出し、ナチ政権も便乗してポーランド系1万7千人を一挙に送り返そうとした。この措置に対してポーランドもまた正当な理由なく入国拒否したためにユダヤ人たちが中間の無人地帯で宿無しになった。困窮した家族の一人がパリ在住の息子に事情を伝えたところ、怒りに燃えた息子はドイツ大使館に行って応接の書記官を射殺した。この事件でドイツのナチ政権が動き出し、非公式に突撃隊を使って各地のユダヤ人街を破壊した。街路に散らばったキラキラするガラスの破片から水晶の夜の名がついた。
ヒットラーの演説や遺言、またヒムラーその他無数の反ユダヤ主義は、かれらにとっては自明のことだった.聞いていた聴衆も、子供の頃から教えられたこと、また中世近世の祖先の感情の復帰から、これが当たり前と疑わず、熱狂して喝采したのであったろう。
ナチスにとって、ユダヤ人は戦争の敵ではなかった。このことはユダヤ人絶滅事件について判断する際に明記さるべきである。ドイツ周辺の国々に住んでいるユダヤ人はドイツに対して何の害をもしたことはなかった。数代前から静穏な市民生活をしていた人々を、ただユダヤ人という類概念に属するからといって駆りだして、裸にしてガス室に詰め込んだ。それは全く戦争と關係のないことであり、戦力増強には役立たず、マイナスでさえあった。宗教に起因する土俗的感情からだったというほかない、と思う。竹山はこう書くが、わたしも同感だ。
歴史的にふかく感情に無意識的に染み込んだ感覚が蘇った結果だと思う。まさにDNAが覚えていたような感じである。
ナチスははじめからガスによる絶滅収容所を計画したのではなかった。まだ平和な1939年にナチ政府はゲルマン民族の若さと健康を維持するため不治の病人や精神病者を安楽死させる政策をとった。41年までに5万人ほどがガスか注射で処置されたという。いくつかある国内の施設で続けられた政策はやがて非難がはげしくなって中止された。おりしも対ソ戦が開始されるとガス施設はポーランドの占領地に移された。安楽死対象者の「病的・劣等」という属性はユダヤ人にも当てはまることから組織的な大量殺人に変貌した。
健全で優秀な北方ゲルマン民族の社会でおこなわれた消毒事業だから、本質的には戦争と關係のないことである。
ユダヤ人には人間としての存在価値を認めないということは、聖書からはじまっていた。ヒットラーはキリスト教の愛の教えには背いたが、その呪詛には忠実だった。
わたしはヒットラーの『わが闘争』を読んだことはないが、そこにあらわれた人種説は通俗的なもので竹山氏は噴飯物と書いている。けれどもヒットラーの強い信念と巧妙な人心操縦術が彼に政権をもたらし、戦争を起こし、結果は第三帝国が灰燼に帰した。その経過の中でユダヤ人種の生物的絶滅事業が遂行されて600万人ものユダヤ人が殺された。途中経過を探れば戦果の拡大によって占領地が増えて、対象となるユダヤ人の数も増える。対仏蘭西に勝利した一時期、計画されたマダガスカル島に送り込む案も対ソ戦で、めどが立たなくなって破綻するなど齟齬が多くなった。直接戦闘とは無関係の人種政策のために政権は随分と忙しかっただろうと思えば滑稽でさえある。
竹山氏は焚殺という表現をとるが、どうしてこのようなことが行われてしまったのだろうとの疑問解明に取り組んだ。その考察が「妄想とその犠牲」「聖書とガス室」にまとめられている。わたしは氏が土俗的とよぶ一般大衆の社会心理や生命のDNAが維持する記憶の神秘性などに関心が強い。ドイツにはハーメルン伝説やグリム童話など、キリスト教に覆われてしまったゲルマンの古い信仰や伝説が多いことに惹かれる。ナチの犯罪としてのユダヤ人絶滅収容所の実態は時とともに明らかにされ、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』は広く読まれているようだ。竹山氏はパリでこの映画を見たそうで、内容を「妄想とその犠牲」の中に綴っている。現場としてはダハウの収容所を訪れた記録も残された。わたしは「夜と霧」の本も映画も見ていないが、あらかたそこで何が行われたか知ったつもりになって、もう見る気もしない。しかし、今回竹山氏の筆になる諸記録を読んでみて、そのあっけらかんとした残虐さもさることながら今や世界中に広まったキリスト教、そして法王の功罪についてなども勉強させてもらった。自分が住んでいる実社会が何やら架空か仮想の世界に思えてきた。何がホントなのか、すべてを疑って過ごさなければならない気になっている。
今回読んでいるのは『竹山道雄セレクション Ⅱ 西洋一神教の世界』平川祐弘編 藤原書店 2017年刊である。(2017/10)