2017年9月17日日曜日

圓生の「高瀬舟」を聴く 

六代目圓生「高瀬舟」、森鷗外原作
youtubeで六代目三遊亭圓生が語る「高瀬舟」を聞いた。なかなかの聴きものであった。
圓生は随分前に亡くなっている。圓生百席とかいう全集がCDであることは知っているが、このようなビデオになっているのを知ったのは偶然でこんどが初めてだ。27分余りの作品で形ばかりの出囃子と水の音や船が岸に当る音かドスンという音などが入っている。ギーィという艫の音が何度か聞こえて、夜のしじまの中を行く舟の情景がよく出ているのだが、これには疑問がある。
京都の高瀬川は水深が浅く、数十センチほどといわれる。森鷗外が自作の「高瀬舟」に続いて遺した「高瀬舟縁起」には「そこを通う舟は曳舟である」と明記してある。ビデオではあるが背景映像は一つっきりの静止画であるから物語の中の動きは音で演出するより仕方がない。
https://www.youtube.com/watch?v=3xXnw4ZmZ7k

復元された高瀬舟
http://www.ebookcafe-kyoto.com/news/003.html
苦肉の擬音というところかと思う。さらに、舟の形が違うように思える。川船だから舳先は波を切る必要のない形のはず、それにこの船頭は竿を使っているかに見える。真ん中の柱があるのも変だ。提灯を掛けてあるようにも見える。ま、贅沢は言うまい、肝心なのは語りの方だから。
youtubeを聴きながら眼はKindleで岩波文庫版の「高瀬舟」の文字を追った。圓生の語る内容は鷗外が「高瀬川縁起」に記したより少しばかり多く聞き手にサービスしている。高瀬川という運河について、鷗外はただ角倉了以が掘ったものだそうだとするだけだが、圓生は、慶長年間に秀吉が東山に大仏殿を造営したときに、材料を運ぶため角倉了以に命じて作らせた掘割であると語る。秀吉を持ち出したのは角倉よりも聴衆の気を引きやすいと考えた工夫だろうか。現在では宇治川に流れ込むまでの経路を見ることはできないが、要領よく説明してくれる。高瀬舟は罪人を送る舟に使われたと説明するくだりでも遠島になる罪人は凶悪犯だけでなく気の毒な身の上の可哀想な人間も多かったと本筋の話に前触れをつける。
また、護送する役目が奉行所の同心仲間で嫌われていた、という実情を同心夫婦の所帯じみた話のやり取りで表現する。これは朗読ではなく噺家の語りならではできない藝だ。こうして原作の構成をすこし入れ替えたあとに送りの場面に移っていく。
言葉に気を使うのは圓朝を思わせるが、心中を相対死(あいたいじに)と言ったとか江戸時代の用語もきちんと伝える。政柄を執ると鷗外が書き言葉で書けば、老中であったとしたりする。
圓生は落語もうまいが人情噺が聴かせる。噺家というのがふさわしい。いつの頃鷗外の「高瀬舟」を語ることに決めたのだろうか。「高瀬舟」もいい語り手を得たものだ。圓生の声調も、よどみなく運ぶ語り口も申し分なく、実にしんみりする絶品であった。
「高瀬舟」の昨今の扱いは安楽死か殺人かという問題を考える材料に採り上げられるようだ。医者としての鷗外も江戸期の随筆「翁草」に題材を取った興味もそこにあったかと思うが、圓生は問題をただ庄兵衛の心中の迷いを語ることで話を終えている。「…殺したのは罪に違いないが、それにしても……。庄兵衛はどうしてもその疑いを解くことができなかった。」
ちなみに鷗外は「高瀬舟縁起」でユウタナジイという外来語を使っていて、これは現代でいう安楽死である。しかしこの物語では、橋田壽賀子氏がわたしは安楽死で逝きたいという場合のとは違う。ユウタナジイには死ぬと殺すとの二通りの意味があるようだ。ここでは後者であって、安らかに死なせる意味となるが、さすがの鷗外も適訳がなかったとみえる。
久しぶりに圓生を聞かせてもらった。Youtubeの作者にお礼を申し上げる。(2017/9)