2017年9月5日火曜日

アメリカの教科書がつくるアメリカ人像

毎日のようにニュースを賑わせているトランプさんの発言に、白人主義、人種差別など批判が強い。大統領一人だけで大多数の国民はそうでないのだという声もあるけれど、わたしはもともとアメリカ白人の心の底にある心情が表面に出てきたのだと考えている。このことはこの頃アメリカの歴史教科書について読んだりしているので一層そういう風に思えるようになった。

『アメリカの歴史教科書問題 先生が教えた嘘』(2003年明石書店)という書物が8月中ずっとおんぶお化けになっていた。別に教科書問題を研究するつもりなどなかったが、本書の副題を書名とする原書のペーパーバックが本棚にあったのを何気なく読み出したのが始まりだった。
Lies My Teacher Told Me(1995)、著者はジェームズ W ローウェン、1942年生まれの社会学者、歴史学者で人種差別問題などを専門とする。

さて辞書を頼りに読み始めたはいいが、細かいことで用語や知識不足のために引っかかる箇所が出てきたので訳本に頼ることにした。ところが、こちらは日本語の文章がこなれていないので非常に読みにくい。結局、著者の意のあるところは原書にたよるという読み方で、いっこうに系統立って頭に残らなくて困った。

12章それぞれのトピックは当方にしてみれば聞いたことはあるが、そんなこととは知らなかったという、池上彰さんじゃないけれど、そうだったのか!ということばかりで面白い。
結局、学者ばりのまわりくどい言い方に引きずられないように、単刀直入、面白いと感じることだけを読み取るように努めた。

ネットで調べると、ベストセラーズになって版を重ねた原著は2008年に装丁も新しく再販になった。内容も書き直したところもあるらしいが、何よりも911同時テロに言及しているというから気をそそられる。
旧版は全米の高校教科書のうち12種を取り上げて検討した研究に基づいているが新版は6種追加されたうえでの研究だそうだ。

朝日新聞に編集委員の曽我豪さんが下町の中学校の先生の話を紹介していた
93日「日曜に想う」)。
生徒は授業の中身より先生自身の生活に即した経験談に何よりも聞き入るということだった。ローウェンも全く同じことを言っているので、なるほどと納得した。

さて、第1章はアメリカ人の英雄とされる人間が、教科書によってどのようにつくられるか事例研究の話だ。この作業を教科書による英雄化と呼んでいる。ヘレン・ケラーの例とウイルソン大統領の場合があげられている。

ヘレン・ケラーについて学生たちは三重苦をのりこえて大学さえ卒業したことを知ってはいても、その後の人生については人道主義者などと簡単に片付けられて、何をしたか、どういう生涯であったかは知らないのだそうだ。
ローウェンが指摘するのはヘレン・ケラーが急進的な社会主義者だったことが、教科書では抜け落ちていることが問題だという。

1909年にマサチューセッツ州の社会党に入党し、1917年のロシア革命に賛同した。社会党左派になり、ウイルソン大統領が迫害していた急進的な世界産業労働者組合(IWW)のメンバーになった。こういう経歴は彼女が身体障害と社会階級の関連に気付いたことに由来する。
後半生の大半を視覚障害者財団の募金活動に捧げ、他方で自由な言論のために戦うため黒人解放運動組織を支持し100ドルを寄付した。それは1920年代のアラバマ出身の白人としては急進的な行動だった。女性運動にも熱心だったし、晩年にはマッカシーの赤狩り時代の犠牲者で、惨めな刑務所生活を送っていた共産党指導者エリザベス・フリンに誕生祝いに激励の手紙を書いたりもした。ヘレン・ケラーという人の本質はこういう一面にあったのだ。

このような彼女の活動は、たとえ同意できない人がいたにしても、今となっては素朴である。一般的に賞賛されてきた彼女の存在しか知らない人は当惑するかもしれない。けれどもヘレン・ケラーはもともと急進的だったのであって、家庭教師アン・サリバンとの美しい物語の中だけの人ではなかったのだ。教科書が事実を書かなかったからアメリカ人が知らなかっただけのことだ。

ここで、筆者のわたしが思うのは、教科書がヘレン・ケラー像の一部を欠落させているためにアメリカ人一般が真実を知り損なっているとローウェンが批判する意味はわかったが、なぜ教科書が書かなかったか、腑に落ちないのである。もう昔のことなのに。

もう一人の事例はウッドロー・ウイルソン大統領だ。こちらは国際連盟創設に尽力したが根は人種主義者だ。日本人には人種差別撤廃を国連憲章にうたうことを提唱したが否決された思い出がある。この人物はアメリカ大統領として問題がありすぎるが、教科書は英雄として扱っている。

アメリカが日本と同時期にシベリア出兵をしたことを堀田善衞の「夜の森」で知ったが、時の大統領がウイルソンだったのだ。帝政ロシアを応援したために、ロシアはいまだにこの事を根に持っていると聞く。米露関係がうまくいかないはずだ。これは単なる個人的な思い。ウイルソンについてローウェンに付き合うのは長くなりすぎるので書ききれない。
教科書が真実を避けることへの疑問に移る。

結論を言えば教科書は社会通念にしたがうのだ。国民的英雄の人物について人々はわかりやすいことを望む。議論はしたがらない。
ヘレンキラーは自分の努力でなんでも出来るようになったと思ったが、人生半ばで自叙伝に、私の成功は恵まれた生まれと環境のおかげであることを知ったと書いている。ローウェンによれば、教科書はこの思想に触れたがらない。
アメリカでは機会は不平等であるとか、誰もが「世間で成功する力」を持っているわけでないという考え方は教科書執筆者や教師に嫌われているのだそうだ。そこで教科書はケラーの生活から当たり障りのないことだけを取り出して、彼女に出来ることは君にも出来るというふうにする。このために彼女の成人後の生活は省かれてしまう。貧者のための情熱的な闘士は消されてしまうのだ。
この他に教科書制作側にはさまざまな社会的圧力があることを本書は説明している。

これでは勇気のある教師が出ない限り学生が関心を持つ歴史の授業はできないだろうと思う。ローウェンをはじめ、かなりそういう教師がいるらしいが、教科書自体を改良する道は遠そうに思える。日本と違って学習指導要領などはないだろうから、IT時代の歴史授業は面白く出来るとも思える。
ちなみに教科書出版業というのは全米各州各自治体すべての顔色を見て編纂するから、盛りだくさんの内容になって教科書は平均900頁近く、重さ2キログラムにもなるという。


2章以下にはなぜコロンブス・デーという祝日があるのか、ピルグリムズが建国神話になっていること、先住インディアンたちの運命、最初の定住者はスペイン人に連れてこられた黒人だということ、奴隷制と人種差別、そして「風と共に去りぬ」のことなど興味は尽きない。

学校教育とは関係なくこれらの話柄を考えるのは、なかなか魅力がある。
堅苦しい書名と読みにくい文章が難であるが、読んで損はない。

向こうの教科書が代表しているアメリカの社会通念がアメリカの国やアメリカ人の姿を歪めていることがわかった。長年にわたって流れ込んできた多くのメディアやニュースによって形成された日本人が抱くアメリカ像も正像とは限らない。せっかくローウェンが真実のアメリカの姿を教えてくれるのだから、日本人にはありがたいことだ。おおいに利用してアメリカ理解の一助にしようではないか。(2017/9