2020年11月6日金曜日

読後感想 『昭和史への一証言』松本重治

 買い置きの本の中に『昭和史への一証言』毎日新聞社昭和61年刊、というのがある。著者は松本重治となっているが、國弘正雄氏による聞き書きである。


『週刊エコノミスト』1985年4月2日号から12月10日号までの35回連載をまとめてある。松本氏には有名な『上海時代』という著書があるが、入手できなくて代わりに買い込んだのがこの本、末尾のページ隅に鉛筆で ’87-3-4と小さく書き付けてある。それを見るまではまったく初めて読むような気持ちで読んでいた。毎度のことながら記憶は頼りにならないものである。この本の中身は文章ではなく口頭による「はなし」であるから読みやすく、わかり易く、そして話題が広くて興味深い。

重治氏は祖父松本重太郎を終生敬愛している。丹後の間人(たいざ)村出身、十代で奉公に出て、若くして独立、関西財界で重きをなすに至った人物。南海電鉄の前身の阪堺鉄道は私鉄の創始であった。紡績業界の不況により百三十銀行が破綻したために身代限りで引退した。財界を応援するため、大阪朝日新聞に対抗する大阪毎日新聞に肩入れしたことで終生相談役であったのが、この対談につながっている。『週刊エコノミスト』は毎日新聞の雑誌である。本著の編集は同誌の記者河合達雄が担当し、末尾に一文を寄せている。

通信社『同盟』の上海支局長であった松本重治は蒋介石・汪兆銘・毛沢東の間の内戦と日中戦争の競合によって難渋する中国の国民を救うために日中の和平工作を画策する。何度も挫折を繰り返した挙げ句、ようやく蒋介石の気持ちを和平交渉に向けるまでいくが、日本軍部は和平案に「撤退」を盛り込むことを拒否し、交渉の前準備の停戦をすることにさえ応じなかったがために相手に信用されなかった。大本営の内部からも和平協力者が出ているのにこのざまなのだ。世によく言われる関東軍の横暴というのは、我が事だけにかまけて周囲の事情を判断する知能に欠けていたためであった。また、撤兵を説く人を暗殺しようとする右翼の隠然たる存在も無視できない。

日本敗戦の戦後になって占領軍GHQは松本を公職から追放した。本人は一切弁明をしなかったが、高木八尺教授など内実をよく知る周囲はGHQの判断は誤りとして追放解除を運動した。そのことを編集者の河合は特筆している。高木がマッカーサーに直接事情を説いた4ヶ月後に追放解除されたと書く。

中国国内の一致を図って国共合作で抗日戦を優先しようとして、国共戦優先を唱える蒋介石を張学良が西安で監禁した西安事件は松本の世界的スクープとしていまに有名であるが、この当時の全体状況はいかにもわかりにくい。南京政府の主席となった汪兆銘は日本の傀儡とされるのが定説になったが、それほど単純な話でないことが本書の談話でよく理解できる。どんどん逃げて奥地へ日本軍を誘いこむ冷徹な蒋介石の作戦に引きずられた結果の南京事件も、入城式で「お前たちは何ということをしてくれたのだ、皇軍の恥だ」と松井石根司令官が叱責しても、後の祭りでどうしようもなく日本軍の汚名が世界中に轟いた。当時の現地を知る松本の実見では、いわゆる虐殺の被害者数は3万人ほどだそうだ。

松本は戦前米欧に留学しているが、帰国後1929年に京都で開かれた太平洋問題調査会(IPR)の太平洋会議に参加したことが、松本の民間国際交流の原体験であると河合は書いている。国際会議での交流の表裏を間近に体験して驚いたのは後々に役に立った。余談だが、このIPRは後にマッカーシズムの嵐に遭い、エジプトで自死したカナダの外交官、A・H・ノーマンも深く関係していたのを思い出した。

戦後の松本の国内における最大の功績は国際文化会館の設立とその運営であり、その結果の及ぶところはおそらく世界的に裨益したことだろう。政界官界など多方面からの誘いには乗らず一民間人として徹底した生き方はその功績とともに見上げるべきものだと思う。

国際文化会館ができた翌年1956年に歴史家のアーノルド・トインビーを招聘した。前の年に松本がロンドンに行って直接招待した。このときトインビーは、大著『ア・スタディ・オブ・ヒストリー』の改訂版を考えているとの話があったそうだ。この著書は日本では『歴史の研究』とされたが、原題には不定冠詞の「A」がついているから『歴史の一研究』が本当だ、非常に控えめなタイトルでいて、内容は非常に豊富、つまり著者の謙虚さがここによく出ているので松本は日本式の書名を残念がっている。なおこの招聘した時の講演集は松本監訳で『歴史の教訓』(岩波書店 1957)であるが、いまでは古書になった。

現在は国際ジャーナリストとの肩書がもっぱらの松本は、大学を出るまで進路を特には定めていなかったというが、弁護士、新聞記者、大学講師などの自由職業を漠然と考えていたらしい。それがエール大学に行ってチャールズ・ビーアド教授に出会い、多くの人に紹介され、各所で講演したり雑誌に寄稿する経験をしたことでジャーナリズムへの興味が深まったという。そういうことを可能にしたのが英語力だろうが、そのことを、一高の畔柳芥舟先生に「英語を本当に習った」と表現している。畔柳先生は英語を叩き込むという流儀で、リーダーにディ・クインシーの『オピアム・イーター』を使って、一学期に3ページぐらいしか進まない授業をした。出てくる言葉の意味はどんな小さな言葉でも、全部知らなくてはいけないから予習には大きな辞書を使わなくてはならず図書館ではウエブスターの取り合いだったという。文脈が変わると言葉の意味も変わるということを徹底的に仕込まれた。このような授業方式ではクラス編成は小人数にならざるを得ないからクラスは二つに分けられた。学期末に1、2番と、びりっけの名前が発表され、二つのクラスの一番がそれぞれ松本氏と憲法学の宮沢俊義氏だったそうだ。『阿片吸引者の告白』は、調べてみると初出が 『ロンドン・マガジン』 (1821)だからなんとも古めかしい。さて、初めてアメリカに行って、最初に英語を使って、あぁ通じたなと思ったのは、グランド・キャニオンに着いた朝、ホテルの食堂でウエートレスに「ハム・アンド・エッグス・プリーズ」というと、「オーライ」と静かに応えてくれた。わかってくれたと本当に嬉しかったと書いてある。それからまもなくニューヨークで多くの人と交歓し、講演までして原稿を書き、読者と交流したなどと聞けば、舌はそれほど滑らかではなかったかもしれないが、立派なものだと感銘する。英語でも自分の考えを表現できるようになって書いた最初の原稿が『ザ・ネーション』に載ると、いろいろな人から熱心な手紙が来た。そのとき、ジャーナリストになりたい気持ちが胸にこびりついたそうだ。その同じ1925年3月25日号にビーアド教授の論文が載っていた。その要旨は、日米戦争が起こるなら、それは中国市場の取り合いからである。戦争の原因になるのは、結局中国の問題である、というものだった。その時以来日米関係は日中関係であると考えるようになった。それと前後して滅多にこない父親からの手紙が来て、それには中国人留学生と友人になるように努めよとあった。当時中国人留学生は義和団事件への清国の賠償金(団匪賠償金)でおおぜい送られてきていてエール大学だけで7、80人もいた、そのうち十数人と友人になったという。なかでも教授の気配りで東洋人同士だからと世話をしてくれた何廉(ホーリェン=1897-1975、財政学者)とは50年以上の交友が続いた。留学当時は、1915年に日本政府が出した「対華二十一か条要求」への中国人の反感が強く1919年には5・4運動が起きていた。松本が、アメリカ人より中国人と話すほうがボキャブラリーやスラングが少なくて聞きやすかったので、生地のままの自分を率直にぶつけていくと、中国人留学生はふだん日本留学生とは付き合わないのに自分には例外的に付き合ってくれたそうだ。リベラリズムが生地であったわけだろう。本書では、松本の主著『上海時代』の内容ははずすようにしたと國弘は説明しているから、中国問題はそちらに多く記述されているはずだ。筆者は未読である。

話題は豊富で、國弘氏がふる話題にこたえての談話は妙味が尽きない。一説には、上海時代の松本について、『同盟』が国策会社であるため経費の多くを国に負うていた、そのためキレイ事ばかりではないと伝える書物もあると聞くが、私はこの本が気にいっている。もちろん、『上海時代』も、開米潤著『松本重治伝』(2009年)も参照しなくてはと考えている。(2020/11)