天皇陛下御在位30年記念金貨というのが発行されるそうだ。額面1万円、重量20グラム、売価13万8千円。金の純度はわからないが、現在の金相場ではグラムあたり4900円弱のようだから、24Kとして考えれば9万8千円見当になる。
通貨として使えば1万円にしかならないから、誰も使わないだろう。資産としてならば所有する値打ちはあると考える人もいるだろう。これが記念となる所以だ。記念金貨には貨幣の価値をどのように考えるかの問題が含まれている。折から黒船時代に日米間で交渉された通貨の交換価値にわたしの関心が向いていたところだったので、この機会にもう少し調べてみることにした。
在位30年記念金貨 |
1853年3月、来日中のペリー艦隊が神奈川(横浜)に滞在しているとき、一人のアメリカ人従軍牧師が制限区域を超えて歩きまわり、川を渡る寸前に捕まったが、途中、神奈川町で商店に入り込み、硬貨を見せてくれと強引に頼んだ。牧師は秤を出させて、「銀貨をいくつか取り出して一方の皿に載せ、もう一方の皿に日本の金貨と銀貨を一緒に積み重ねて計量し」たそうである。「遠征記」には、貨幣の交換は国法を犯す大罪だとあった。後にそれぞれ無事に返却されたので犠牲者を出さずにすんだ。交換されたのは、米貨3ドル50セントと日本貨で金貨6枚銀貨6枚銅貨6枚だったという。
この従軍牧師はコイン収集の趣味があったのかもしれない。自分の所有している貨幣を提供して交換するという発想は異国を経験していないと考えつかないと思う。秤で目方をはかって同じ重さの貨幣を交換しようとした意図がみえる。このとき交換されようとした貨幣の重量を考えてみよう。
米貨は当時発行のSeated Liberty(女神坐像)のデザインの1ドルと半ドルの2種4枚で111グラム強となる。邦貨は一分金と一分銀と、銅銭は寛永通宝を仮定すれば、全部でおおよそ100グラム近い値が得られる。 牧師士官殿は良心的であったといえよう。(26.73*3+12.5=111.1337gr.、 一分金4.5*6 + 一分銀8.62*6 +銅銭 3*6=96.7gr. )
慶長小判一両は4.75匁(約17.8グラム)、一分はその4分の1で4.45グラム。一分銀は天保一分銀で計算した。
アメリカ1ドル銀貨Seated Liberty |
具体的な条文がどこにも見当たらないのが不審であったが、その内容が日米修好通商条約(1858年7月29日調印)第5条に引き継がれて、同じく第12条に本条約にすべてが含まれる下田協約の約定は破棄すると明示されているので、条文が見当たらない疑問は解けた。
日米修好通商条約第5条に「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を通用すべし 金は金、銀は銀と量目を以比較するをいふ」との文言が記されている。
(出典:安政雑記第一冊、次のURLを参照した。
http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_harris2_main1.html )
ペリー艦隊は日本を去るにあたって、それまでに購入した物資の代金を清算した。そのため必要になった通貨交換比率を協議することと、石炭の価格についての調査を提督が指示し、その報告書が「遠征記」に記載されている。協議は日本側2名の委員と艦隊の主計官2名でおこなわれた。通貨に関しては、その時限りの暫定的な決定であることが提督の指示に明示されている。
通貨交換比率については日本側の1ドルあたり1600文とする主張に米国側は同意できないままに協議を終えて必要な精算を済ませているが、計算根拠については彼らなりに不当であると述べている。この報告書は非常に難解なうえに貨幣論を専門とする学者のなかにはアメリカ人たちの誤解もあるという。当時唯一の貿易市場であった長崎で用いられた通貨及び重量単位であるテール、マースなどが使われている。これらはそれぞれ、両と匁を指すと考えられるが、これの使い方にも誤解もあるようだ。彼らの思考を追うよりも、ここはまず幕府の定めた比率の根拠から探ることにしよう。
銀貨1ドルあたり1600文という比率の根拠は、艦隊から預かった金銀貨350ドルを江戸で分析した結果に基づいている。得られたデータが「受け取った1ドル銀貨(量目7.12匁)を分析し,品位(千分比)865,純銀量6.16匁)」であったことがわかっている。「遠征記」に残された記録には換算要素として「地金銀10匁の価額22.5匁」が使われていること、古文書に当時の幕府内文書で地金公定買上げ相場に二六双替(そうがえ)制度が使われていたこともみえていることがあるために、いくつかの試算ができる。どれが事実だったかわからないが、どれをとっても米通貨の1ドル1枚につき日本通貨x個で表す比率を求めるのには近似値が混じることもやむを得ない。日本貨幣が年々価値が低下したこと、論理的に一貫しない換算率の設定など、管理政策の不十分なことが混乱の元凶だと思う。したがって研究者も確言できない題材である。仮に一つの試算をするなら、次のような答えが出てくる。
1ドル銀貨の量目を7.12匁としているから、米ドルのようだ。洋銀は地金として取り扱う定めであり、銀地金10匁は秤量通用貨幣22.5匁とする公定率があるから、7.12*2.25=16.02匁の値が得られる。つまり洋銀1ドルは日本の通貨としては16匁すなわち1600文と同じ価値になる。1匁が100文に相当する、というのは、金1両は銀60匁、または銭6000文という換算があるからである。余計なことだが、「匁」は国字だそうで、もとは文目、「文」の略字に由来するとの説がある。
実際に流通する形での16匁の通貨はなく、近似の貨幣は15匁の一分銀である。一分銀4枚で金1両(銀60匁)となる。この場合の一分銀は天保一分銀が相当したはずで8.63グラム(2.3匁)であった。
結局、洋銀1ドル1枚は一分銀一枚と交換されることが条約以前の公定比率になった。米ドル26.73グラム、メキシコドル(8レアル銀貨)約27グラムと比べて3分の1の重さしかないのがハリスの主張する論拠になった。
ちなみに純銀量で比較すれば、アメリカ銀6.16匁、天保一分銀2.274匁で2.7倍。7.2匁のメキシコ銀では3倍強となる。東洋で流通していたのはメキシコ銀が最も多かったそうである。
天保一分銀 |
うえに述べたように、公定相場に2種類ある。銀を地金で政府が買い入れる価額は10匁につき22.5匁である(7.12*2.25=16.02匁)。しかしその一方で、地金銀を鋳造した流通貨幣に換算するときは銀10匁につき26匁と評価する26双替という公定相場もある(純銀6.16*2.6=16.016匁)。これも買い上げ相場だという。前者は品位にかかわらずの重量で計算し、後者は品位で検出された純銀重量で計算するということでいいだろうか。ここではそれぞれの論説にみられる表面からの解釈にすぎない。どちらの場合も端数付きの16匁だから切り上げて1ドル1枚が邦貨16匁とすることには変わりない。
検討する資料として次の諸作を主に参照した。
「ペリー提督日本遠征記」(翻訳は岩波文庫、角川ソフィア文庫とも誤記、誤訳があるので信頼性は弱い)。
東北学院大学の経済学論集第184号記載の論文、高橋秀悦氏、
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2015/pdf/no05_02.pdf
大阪経済大学の論考、山本有造京大名誉教授。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_110010006810.pdf?id=ART0010566662
「にちぎん」No.18 2009夏号
https://www.boj.or.jp/announcements/koho_nichigin/backnumber/data/nichigin18-7.pdf
幕末千夜一夜
http://onjweb.com/netbakumaz/essays/essays51.htm
黒船来航時の日本国内では、金貨幣は数量で計算する計量貨幣として流通し、両、分、朱を単位とする4進法を使用した。銀貨幣は地金とみなされて重さで価値を定める秤量貨幣としてあつかわれていた。単位に両はなく、匁が基本だった。大多数の人がいる庶民社会で通用する貨幣は文を単位とする銅銭であった。銀1貫は1000匁、銭1貫は1000文。
三貨制度 |
神奈川宿でコインを交換しそこなった従軍牧師は秤を持ち出した。ハリスもメキシコドルの重量にばらつきがあるために100枚を天秤にかけたという。
ギリシャの昔から秤は公正の象徴である。公正の女神は秤を手にしている。
ギリシャ神話法の女神テミス像 |
日米修好通商条約は同種同類の貨幣の比率で交換することを規定した。洋銀1ドルは一分銀3枚と交換されることになった。目端の利く人は日本に持ち込んだ銀貨を金小判に替えて外国に持ち出せばもとの銀貨が3倍に増える。そのため日本から金が大量に流れ出したという。結果的に徳川体制が破綻する原因の一つになった。
それまでの日本は武士階層が支配していた。彼らは金銭を厭うべきものと考えていたから、知識が不足していたのだろう。おかげさまでこちらは今頃彼らの不勉強を少しは埋め合わせるよう勉強しているが、どうしても西洋人にシテヤラレタとの気分が抜けない。
三倍儲かるカラクリ 1ドル銀貨4枚→一分銀12枚→1両小判3枚→1ドル銀貨12枚 |
(2018/11)