2018年11月27日火曜日

渋沢栄一と幕末の農村ブルジョアジーの世界

山本七平著『近代の創造』(1987年 PHP研究所)。「渋沢栄一の思想と行動」という副題がついている。先般来読んできた黒船関係の事柄のうち、日米通貨交換比率の問題を通じて徳川幕府の金銭感覚に疑問を感じた。この本には社会史のように日本の農村経済の秘密が書かれている部分がある。ただし、自分が知らなかったというだけの秘密だが。
渋沢栄一の伝記ではなく、前半生の銀行を設立する頃まで、当人と影響を受けた人たちの暮らしと時代を描く。著者の意図は明治時代を生んだ前時代に胚胎されていた「何か」を探ろうとしたという。筆者はこの著者になんとなく親しみを感じているので七平氏と呼ぶことにする。
初出は雑誌『Voice』、昭和59(1984)年1月号から昭和61(1986)年3月号(但し、昭和60年4月号は除く)に連載された。章立ては雑誌の号を追って立てられているようで26章ある。ここには筆者の関心に沿ってはじめの二章から話題を拾って記すことにする。山本七平氏はこの本を上梓して4年ののちに膵臓がんで亡くなっている。69歳だった。小さな出版社を趣味のように営みながら読書と執筆を重ねていた。生前、大評判になった『日本人とユダヤ人』をはじめとして、かなりの量の著作が上梓されているが、書評や著者評に本書が取り上げられていることは殆どない。これはどういうわけだろうか。しかし、話題が各方面にわたって、それぞれに面白く、本好きの著者だけに一様でない分野からの引用も楽しめる。
尾高藍香と生家(埼玉県深谷市)

 渋沢栄一の若き日に薫陶を受けた尾高藍香という人物が登場する。藍香は世界遺産に登録された富岡製糸場の建設から携わった初代場長尾高惇忠である(以下藍香でとおす)。学問によく通じていた藍香の経済哲学は独学であるが、その貨幣論は栄一が民部省(大蔵省)に出仕したときに参照した米国の経済学者ケリーの貨幣原論とよく似ているので驚いたという。藍香が幕府の崩壊を予想した「伝馬制度」と「貨幣制度」が紹介されている。金銭に関する話題では領主から命じられる御用金の用立てが本書第一章の逸話にある。


栄一が17歳のとき領主陣屋から呼び出しがあり、父の代理で出向くと代官に御用金を命じられ、宗助には千両、栄一の家には500両が割当てられた。すでに2千両あまり調達している、つまり貸しがある上でのことだ。栄一は父の代理で出頭しているため、御用の趣を持ち帰り、父に申し聞かせた上であらためてお受けに罷り出ますと答えたところ、17歳にもなっていながら、わからないやつだ。その方の身代で300両や500両は何でもなかろう。この場で直ちにお受けせいと迫られたという。散々叱られ愚弄されたが、ともかくもそのまま戻って父に話すと、それがすなわち泣く子と地頭で仕方ないから、受けてくるがよろしいと言われた。『雨夜譚』*からの話である。
 *岩波文庫『雨夜譚』のカバーには「あまよがたり」と振り仮名がある。七平氏は「うやものがたり」とルビを付けている(20ページ)。

ここに登場する宗助は藍香の父であり、下手計(しもてばか)村の名主、一番の物持ちと言われていた。次が栄一の父市郎右衛門である。栄一は19歳で妻を迎えているから、この時代の17歳はもう子供ではない。それでも100両といえば大金だ。この逸話に合わせて七平氏は明治の政治家星亨の父親の左官屋が娘を女郎屋に売った値が1両2分だったという文書が遺っていることを引き合いに出している。そもそも庶民の暮らしは銅銭であって、文の単位だ。両というお金の重みは庶民、百姓にとっては大変なことだった。それが300両、500両は何でもなかろうという言いぐさである。ずいぶん勝手なものだが、それが泣く子と地頭の俚諺である。ときの領主、岡部藩主は安部(あんべ)摂津守といい、所領は武州と參州にあった。武州分は5千2百石だったとある。調べてみると、安部家は関ヶ原の勲功で所領を安堵され、所替えなどのことは末代までなかったというから、悪い藩主ではなさそうだ。それでもこの幕末には例に漏れず窮乏していたのであろう。御用金とはていのいいタカリであって、領地に居る代官が言いつければ御用達を受け持っている名主が届けてくる仕組みで年貢とは別である。

いっぽう領民の方はどうだったか。栄一の村、血洗島(ちあらいじま)の当時は戸数約50、石高346石2斗9升5合の小村だったから、五公五民として、半分を税金に取られれば173石1斗5升弱の収入となる。これで50軒が生活するとなれば、とうてい足りるはずがない。それでも暴動もなく平穏であったのだろうか。
血洗島村や下手計村は地図で見てもわかるように利根川に近い。昔は堤防がないから増水すると辺り一面が水浸しになる。いわゆる低湿地帯だ。いつの頃からかわからないが、この近辺では藍を栽培することと桑を植えて養蚕をしていた。生活の知恵がそのようにさせたのであって、米作はしても少なかったはずだ。水が出るのはいわゆる「二百十日」前後つまり台風時期が一番危険である。米が稔るのはこの時期である。藍は収穫が7月だそうだから洪水は関係ない。桑の木は少しくらいの水かさには耐えられるし、蚕は天井裏で飼う。現代の洪水のように急激に襲ってくる水ではないから、防ぐ方も大層な工事にならない。藍玉の小工場は土盛りをして石垣があれば大丈夫であった。従って、産物は米でなく、藍と養蚕、麦、菜種等だった。七平氏は書いていないが、網野善彦氏によれば、この地方の年貢は米でなく、布や絹の産物で納めたようである。利根川の水運は藍の肥料にする銚子からの干鰯搬入に有利だった。産物でわかるように農業製品でありながら商業資材である。百姓であっても商人の働きが要る。尾高や渋沢は経営型農民(郷土史家 吉岡重三氏の分類命名)であって、経営に失敗すれば倒産する。どちらの家も先々代のときに倒産しそうになっている。藍の葉を熟成発酵させてつくる藍玉は染料である。片や養蚕は絹糸つくりだ。彼らの業種は繊維・染料メーカーである。藍玉は買い集めた藍に発酵技術で高い付加価値をつけて染屋に売る。買い集めには栽培技術や施肥の良否を見極める鑑識眼と経験が必要である。藍の仕入れは現金で、収穫期に集中する。藍玉を売った紺屋から代金を回収するまでの期間が長い。つまり一時に大量の資金が入用になり、時機を外すと仕入れ機会を逃すというやや投機的な要素が濃い。従ってこの仕事には運転資金の保有運用に細心の留意をしなくてはならない。頭脳明晰で人をそらさない才気と信用が要るこの商売は教養がないと難しい。彼らの学問は読み書き算盤に加えて実学である。体験から得る学問が要る。栄一の父の市郎右衛門は分家の尾高元助が渋沢本家に養子に入った人であるが、その父親の尾高宗助(宗久)がこの仕事の経営の名人であった。こういう次第で尾高、渋沢両家ともに高い手腕を持った経営型農家であったため、村の特産である藍と絹を外部の消費者に売って村を富ませてくれる位置にいた。これが乏しい石高でも無事に過ごせていた理由であった。御用金にも応じられたわけである。もちろんはじめは貧しかったであろうが、作物に知恵をはたらかせて営々と農作を営む傍ら、肥料や油を売る雑貨商(昔は百貨店といった)的なこともするし、余裕ができれば質屋を営む。このような手法は室町時代にもあったことは、角倉の事業を調べたときにも土倉と酒屋ができていたことでわかった。すべて百姓の知恵である。

栄一は6歳のときから父の手ほどきで読み書きを習い始めた。『雨夜譚』に、「最初は父に句読を授けられて、大学から中庸を読み…」とあるが、何もはじめからいきなり難しいものにかかったわけではない。露伴によれば、「それは古状揃・消息往来の類であった。いづれも当時の寺子屋、即ち、小学校で用いられた教科書であって、無論暗誦的にてんひつするのであった」となっている。これは七平氏の幸田露伴著『渋沢栄一傳』からの引用である。漢字から意味がわかると言いたいところだが「てんひつ」
はパソコンに文字がない。引用にはルビがないが、岩波書店がルビを付けてくれている。でも、意味を載せた大きな辞書が手元にない。多分、ブツブツと小声でつぶやくように言いながら暗誦したということだろう。閑話休題。


栄一が7、8歳のときに父は藍香に教育を任せた。藍香の教え方は独特で、四書五経など読みたければ読んだらいいが、それよりも好きなもの何でも読んでみよ、というやり方だった。「一字一句を初学の中に暗記させるよりは、寧ろ数多の書物を通読させて、自然と働きを付け、ここはかくいう意味、ここはこういう義理と、自身に考えが生ずるに任せるという風」であったという。おかげでずいぶん読めるようになって、通俗三国志とか里見八犬伝など面白さに惹かれて読んだそうだ。年をとって世の中の事物に応じる上で初めて難しい漢書の読みの働きが生きる、とは後年の栄一の理解である。読書に働きをつけるには読みやすいものから入るが一番よろしいと教わったという。なるほどいい先生だ。

用立て金の命を受けて領主の陣屋からの帰り道にいろいろ考えた。幕府の政治が良くない。人それぞれ財産はめいめい自身で守るべきはもちろんの事、人の世に交際するうえでは「智愚賢不肖によりて、尊卑の差別も生ずべきはず」である。いまの領主は年貢をとったそのうえに返済もせぬ金を、用金とか称して取り立てて、おまけに人を軽蔑したように愚弄し、貸したものでも取り返すように命令する、この道理はどういうところから生じたことなのか。あの代官は物の言い方からして教養ある人のようにも思われない。一体すべて「官を世々する」という徳川政治からこうなったので、もはや弊政の極度に陥ったのである。これでは先々百姓をしていると、彼らのような虫けら同然の知恵分別のない者たちに軽蔑されねばならない。なんとしてもバカバカしい。早晩百姓はやめたほうが良い。こんなことが心に浮かんだけれども父には言わなかった。

文久3(1863)年、藍香たちは徳川の世に反対して武装蜂起を計画するが、そのときに書いた「趣意書」には、封建の弊だとか世官の害だとか、上に述べた栄一の想いに似たような言葉が見られる。藍香は栄一の10歳年長のいとこであり、気心が通じて仲も良かった間柄である。ともに学問をするうちに世の中批判の精神が同じように生まれてきた。書物を読む働きから現実に対応して考える力が備わってきたともいえる。「趣意書」はまだ7,8年近く先のことであるが、この二人にはすでに徳川の世が変わり始めていることが感得されたということだろう。こういうわだかまりが発酵して封建制打倒の気運へと向かう。「趣意書」には「公平の制度を立て、公明の政治をしきて、民と共にこの国を守らむには、郡県の国体ならざるべからず…」とあって、いまの封建制を改めて郡県制度の国民国家にしなくてはならないと主張する。漫然と代々同じ仕事を継いでゆく制度がよくないというのが世官の害であり、これを打破して能力次第に人を用いる制度も必要という。このように単なる権力転覆などでない改革の思想を藍香はどこから得たかについて七平氏は藍香の蔵書を克明に点検して論じている。難しくて煩わしいからここには書く余裕がない。とにかく藍香という人は我が家に遍歴学者の菊池菊城という人を呼んできて塾を開いていたという学問熱心な人であり、その思想の動きはこの地方が水戸に近いということから、いわゆる水戸学に影響されやすいこともあった。ただし、水戸学に傾倒したわけではなく極めて合理的に判断していたようだ。

さて、「趣意書」をものして決起しようとした武装蜂起であるが、結末を言えば直前になって中止した。原案は高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜に繰り出して外国商館を焼き討ちしようとしたのであった。総勢36名、指揮官は藍香だった。折からの京都における長州藩の勢威に合わせたつもりの一策で、事前に様子を探りに出した親戚の長七郎が、一夜のうちに長州が逆賊になって、錦旗を奉じるはずの天誅組が大和で崩壊した事実を聞き込み、形勢不利と判断して大急ぎで戻ってきた。報告して中止を訴えたがすでに明日にでも打って出ようとしていた者共は聞かず、紛糾したのを藍香が冷静な判断でことを収めて、みなが無事に散ることが出来た。栄一ももちろん一味であって、後日一橋家に仕官がかなってから、役所から疑いがかかって問い合わせが来たが、用人の平岡に救われた一事がある。七平氏によれば、このときの藍香は、むしろ開港派であって、幕府体制のままでは屈辱開港が免れまいから、国民国家が樹立できてから開港すべしとの意見だったそうだ(『新藍香傳』)。

尾高藍香という人は早くから貨幣の価値が下がってきて物価に影響していることを見抜いていたと渋沢栄一はその見識に感心している。徳川の貨幣は慶長の頃が一番良質であった。以後改鋳によって大きさが変えられたり、品位が下げられたりの改悪が重ねられた。権力によって通貨の価値を保つ方式である。これでは政権が崩壊すると藍香は早くから話していたが周囲の人々は、はじめのうちはなかなかこのことが理解できなかったらしい。このことを説明するのに御伝馬の賃銭を引き合いに出したそうだ。御伝馬は五街道に用意された宿駅ごとに人や馬を準備して次の宿駅まで運送する制度である。人足や馬は近隣の農村から提供される。これは徴発と言ったほうがいいかもしれない。運送にかかる賃銭はおそらく慶長の頃に定められた、御定め賃銭、公定相場である。貨幣にだんだん変化が生じて、実質が粗悪になったために、運送の賦役に出る農村の人たちは大いに迷惑した。初期の頃は御伝馬の賦役は喜ばれた。農作業よりも馬を曳いたり駕籠を舁いたりの方が幾分か割が良かったのが、次第に迷惑がられるようになった。お定めの賃銭では引き合わなくなったからだ。渋沢の『新藍香論』から七平氏は引いている。

「慶長の当時では、小判1両が永楽銭で1貫文、京銭(鐚(びた)銭ともいう)では4貫文、銀で50匁替えと、このような相場であったと見える。右の伝馬の賃銭は両に4貫の鐚銭で、江戸日本橋から品川までが26文。同じく板橋までが30文であった。慶長16年制度のままである。慶長の1両が4貫文。それから割り出した26文、30文である。その額は改定されないで肝要な目標である慶長小判は1両が5両にも7両にも昇ってしまった。逆に言えば、当時の小判1両の購買力は慶長小判1両に比して5分の1、又は7分の1となってしまう。その上、両に4貫の銭が、6貫文と相場が下がると、これもまた5割の購買力下落で、昔30文を得た所へは、210文か240文を貰わねば、以前と同じ勘定にはならぬのに、御定め相場と称して、容易に改正されない。300年前と同じく26文、30文であるから宿駅は、甚だしく難儀をし、村方も大迷惑を感じてきた。」

引用が長くなるから少し端折るが、こうなると、御傳馬の通知が来ると、私共の馬も人も減らしてくれ、農事が務まらない、と苦情が続々でてくる。宿駅で足りないときはその周りの村、それでも足りないとその奥の村というように、助郷とか加助郷という制度にしたが、誰が遠く離れた里からこんな賃銭目当てに来るものか、といった具合で、論争やら竹槍、むしろ旗の乱闘さえ出る始末。渋沢がいうには、藍香はこの伝馬制度をいつも批難して、貨幣制度を誤った弊害が実にここに至ったのだと痛嘆していたそうだ。
それにしても、300年もの間、御伝馬賃銭を同じ金額のまま変えずにいたという神経には呆れる。変化のない世の中とはこういうことなのか、どうもわからない。

しかし、七平氏はさらに指摘する。伝馬制で苦しんだ農民はインフレ被害者だったが、このことだけを喧伝すれば典型的な「戦後史観的な徳川時代論」になって、すべての人が悲惨のどん底にいたような結論になってしまうと。一方でインフレ利得者もインフレ便乗利得者もいた。それが皮肉なことにその中に渋沢・尾高という農民もあったことを栄一は淡々と記しているとして、更に『新藍香論』を引用している。

「ところが村方では一面に田畑の税が永楽銭で定められて居ったから、畑一反について、永楽銭250文、即ち年に金一分(1両の4分の1)位であった。御伝馬助郷の賃銭が10分の1に価値が減ったと同時に、取られる方も10分の1程度で済むように相成った。田畑については知らず知らずの間に、税が10分の1に減じたと言うわけになる。減税はよいとは言いながら、上下とも当然取るべきもの、買べきものを、受けず与えずという会計の紊乱に陥ったのも、貨幣制度の乱れが原因で、この紊乱は、政治上の大欠陥だと藍香翁が唱え始めたのは、まだ安政に至らぬ前で、天保の末か弘化頃のことで、維新になるまで常に慨嘆しておられたようです。とにかく徳川幕府の滅亡は、他にもいろいろ原因がありますが、財政の紊乱、貨幣製の不整理が確かに一つの根本で、翁の先見の明が不幸にして的中したと申すより外ありません」

七平氏が解説している。「畑1反について永楽銭250文」は所得税というより固定資産税のようなものだ。「五公五民」は元来は所得税のはずだったが、幕府は、吉宗のときに、豊凶に関係なく、一定の税を田畑に課す定免税に切りかえた。これではその畑で粟や稗を作ろうと、付加価値の高い藍を作ろうと、税金は同じ250文ということになる。さきの伝馬の例で人足代から、渋沢家や尾高家が払っている税金がどのくらいの負担になるものか計算してみると、250文は鐚銭に直せば1千文である。人足代をインフレ考慮して
実質賃金を慶長時代と同じくらいに上げようとすれば、240文。つまり畑1反1年分の税金が4人分の日当相当ということになる。これは非常に安い。徳川幕府は妙な善政を施していたわけで、インフレ利得者としての渋沢・尾高両家が見えてくる。「五公五民」であればこうはならなかったはずだが、彼らは何も便乗したわけでも脱税しようとしたわけではなかった。幕府の無為無能のおかげだった。無為無能政策が農村ブルジョア階級を生み出していたということになる。
けれども彼らが安い税金を恩典と感じ得るのは利益が上がったときだけである。普段は布木綿を着て雑穀を食えと幕府に干渉されていた農民の生活であるから浪費はしない。それどころか経営者として極めて勤勉だったのである。その上ここに書く余裕はないが、自分が得た新知識や技術は独り占めにせず、広く皆に広めて全体が富むように仕向けた辺りにこの人たちの賢さがある。渋沢栄一の生涯の真実は論語にあったようで道徳の伴う経営理念が真髄であったし、西洋流でない資本主義精神に七平氏が見たのもこういう一面だったろうと思う。

ここまで渋沢栄一が傾倒した尾高藍香の一面を紹介しながら、と書きかけて気がついたが、傾倒したのは七平氏も同じだということである。藍香の蔵書は震災で消失したと言われるが、わずかにどこかに残っていて、その中に『蠶桑輯要』という書物がある。清人沈秉成著とあるからには著者は清国の人だ。桑を植えて蚕をそだてるについての教本のような書で漢文である。行間や余白に朱で藍香が賛否の意見や注釈を入れてあるという。書き込みのある本の画像が80ページに載せてある。この他にも政治に関する書物もいくつか見つかっていて、そういう書物を探し出して読んでいる七平氏は同好の士を見出した心境でなかったろうか。

まったくの余談である。渋沢栄一の一生には農民から武士になって一橋家に仕官する期間がある。徳川慶喜の用人平岡円四郎に見込まれたのであったが、その平岡が京都で水戸の人間に暗殺される。後任の用人で栄一の面倒を見てくれたのが黒川嘉兵衛という人だった。さきにペリーの「日本遠征記」を読んだとき日本側の応接役人に下田奉行所の組頭、黒川嘉兵衛がいたことを思い出した。同姓同名なのでもしやと思って調べたら、まさにそれ でペリー艦隊の応接をした人物だった。偶然の再会のような気分で愉快だった。この人にはアメリカ人が写した銀板写真が日本人を撮影した現存最古の写真として残されている。重要文化財に指定されているそうだ。角川ソフィア文庫でも見ることができる。
Wikipediaでは生没年不詳、生まれもどこかさっぱりわからない。下田奉行所のあと安政の大獄で免職になり、5年ほど後に一橋家に取り立てられて慶喜に仕え、鳥羽伏見の戦に破れた慶喜の助命嘆願に上洛したとある。栄一が一橋家の手兵を募集するため関西へ行った折には地方代官が、黒川のような下賤の者が…、などと言ったことなど書かれてあるから、素性のわからぬ流れ者の見方をされていたらしいことがわかる。不遇なサラリーマンの悲哀が感じられて気の毒に思えるだけに、なんとかもう少し人となりなど知りたいと思う。

正味510ページはかなり読みでがある。繰り返し読むのも、後戻りして読み返してまた前に進むのも大変だ。あれこれ書くのはこの辺でやめておこう。何かの折に題材として使える材料も多い。
(2018/11)