2018年10月11日木曜日

雑感 世代は移り変わる

「百年河清を俟つ」という言葉がある。気長に物事の移りゆくままに待つ、という意味だと思っていた。もとになった故事は、政策を決める際の判断についての教えの言葉だそうだ。「俟河之清、人壽幾何。兆云詢多、職競作羅。(『春秋左氏伝』 襄公八年)」。河が澄むのをまつも、人の命はいくらもない。占いに問うても提案が競い合って判断がつかない、というような意味だ。要は、決断は自分で決めろという教訓だった。百年という言葉は原典にはないようだ。
黄河 Wikipediaより

じつは100という年数や年齢にかこつけて何か書こうとしたのだったが、もともと100が関係しないのでは話にならない。出典を知っただけで良しとしよう。河は黄河のことであるのは言うまでもない。
故事をいう言い回しに、いつどこで「百年」が付いたのかわからないが、遠い将来を指すときに使われたように見える。いまの世は100歳時代と呼ばれるように変わってきた。期待を含んだ100が現実の齢の表現になってしまった。「俺の目の玉の黒いうちは…」という言い草を常とする人物がいたとすると、100歳を意識しているのかもしれない。
こういう類の人の人生は昔通りせいぜい50年程度であってほしいと思う。

インターネットであれこれ記事を楽しんでいると、南方熊楠さんを知っていますか、という文があった。知っていますかって、何を言ってるんだ、という思いをしながら読んでみると無理もない。昔こんな風変わりだけど偉い人がいたんだぜ、という人物紹介記事だ。こっちは同郷のよしみもあって大人たちが話すエピソードを子供の頃から聞いている。世の中みんなが知っているという感覚でいた。それが「知っていますか」という質問が堂々と出てきた。これはいまや熊楠さんを知らない新しい人間が世の中にいっぱいいる証拠だ。昔は三世代が一つの家に住む、というのはたくさんあったけど、年寄りなしの世帯が増えた。母子家庭とか、おひとりさまとかもあって、とにかく単位あたりの人数が減った。こうなると昔からの言い伝えだとか、語り草だとかが世代を超えて伝わることがなくなってしまう。昔話というのもそうだ。図書館に行くと「〇〇県の昔話」などという本が並んでいる。ああゆう本にはおばあさんから聞いたというような、地方訛りで方言が交じる話は入っていない。昔話は本来語られるものだから口語だ。口語は本になると消える。訛りは文字で表せない。だから本になった昔話はあまり面白くない。物語は耳から聞くにまさることはないから、新しく生まれた世代は気の毒だと思う。いま達者でいる年寄りでさえも既に知らないことが、本を見ればあるというのがせめてもの救いだろう。

6月に大阪地方で地震があって、高槻市の4年生の女の子がブロック塀の下敷きになってなくなった。ブロック塀は地震に弱いから危ない、と大騒ぎになった。そんなことはとっくに知っていたから、どうして世の人々は知らなかったのかと不思議だった。1980年に造成地に家を建てたとき、町内の申し合わせにブロック塀は危ないからやめましょうとなった。当時はそれより古い頃の地震の経験から、そういう申し合わせが住民の間でできたのだった。その時建った団地の家々で生まれた子供はブロック塀が危ないことを知っただろうか。いま思えば大きな疑問である。口頭による申し伝えはいつかは消える。文書で残す、それが法律だろう。しかし法律は必ずしも災害防止とか安全とかが考えられるとは限らない。これからつくる塀には適用されても既存のものはお構いなしということもある。既存不適格という問題だ。事故が起きた高槻市では壊す費用に補助金が出ることになった。こういう事が全国的に行われたかどうか知らない。ブロック塀だけでなく、ほかにも危険をもたらすものは千差万別いたるところにあるだろう。大風が吹けばあれはアブナイヨ、と誰もが考えていても、実際に倒れるまでなんにもしないのはよくあることだ。大岩が落ちてきそうな崖下に「頭上注意」の看板というのは全国にある。どう注意すればいいのか、不思議に思いながらその下を通り抜ける。あれもお役所仕事の典型である。
高槻市の現場 news.gooより
寺田寅彦さん(知っていますか?)は災害に対する考え方を早くから書いていた。あちこちによく書いているのは、小学校の教科書に書いておけという意見だ。子供に危険の知識を早くに入れておけという。少し時代が進んで、戦前、昭和12(1937)年、「稲むらの火」が国定教科書に入った。戦後については、2011年の「道徳」副教材に載っているという(愛知大学「『稲むらの火』の教材化をめぐる考察」2011年)。また、同年2月14日にはNHKスタジオパークが「教科書に復活した稲むらの火」で2011年度小学5年生の国語教科書を紹介している。これは震災学者の河田恵昭氏作「百年後のふるさとを守る」であり、実在の濱口儀兵衛(濱口梧陵)の伝記に「稲むらの火」の一部が引用されているそうだ。梧陵は災害後の窮民対策を兼ねて自費で長大な堤防を作った。現存する広村堤防だ。実際に後世の三度の津波に役立ったが、将来想定される津波にはいまの5メートルの高さでは不十分と指摘されている。東日本大震災の直後に教科書に入ったのは偶然だったが、2015年には本文が修正されたそうだ。http://web.archive.org/20110616031242/http://www.nhk.or.jp/Kaisetsu-blog/200/72609.html
河田氏は、地震や津波は時が来れば必ずやってくると書いているし、寺田寅彦氏は「科学の方則とは畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである」という(昭和8年5月『鉄塔』 青空文庫『津波と人間』)。両氏ともに人間はあてにならないとの諦観に似たものがあるが、これも真実だ。https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html
ヒロ村の堤防、右は波除石垣
昭和10年代の写真 気象庁
「稲むらの火」はラフカディオ・ハーンの『生き神様』(原文は英語、"A Living God")を、学校教師の中井常蔵氏が翻訳編纂したのが懸賞に入選して国語教科書に採択された。題材にとられた津波は1854年の安政南海大地震だ。安政東海大地震と連続した大災害で、12月に日米和親条約の批准書を持ち帰ったアダムス中佐が下田でその惨状を目にしている。ハーンは津波襲来の様子を明治29年の三陸津波を参考にした模様で、広村での実際の状況とは違うらしい。元来この小説は日本の神について書こうとしたものだから、読者が汲み取るべきは濱口梧陵の精神と偉業であって、津波の様子の真偽ではない。それでも津波という自然現象についての知識普及には役立った。2005年にインド洋大地震があったとき、シンガポール首相に、日本では小学校で津波対策を教えているらしいがと問われて、戦後派の小泉首相は知らなかったことがニュースになった。文科省の役人も知らなかったという尾ひれが付いた。寺田寅彦は「児童教育より前にやはりおとなであるところの教育者ならびに教育の事をつかさどる為政者を教育するのが肝要かもしれない」と書いた(『柿の種』岩波文庫)。その甲斐があったのか、東日本大震災をうけて「津波防災の日」がきまり、それが2015年には国連決議による「世界津波の日」に出世した。日本が唱導したと外務省が鼻高々と公式サイトに謳い上げた。「SDGs(持続可能な開発目標)の2030年までに達成すべき17の目標」もあげられて標語の好きな国のお祭り騒ぎになった。忘れっぽい国民がいつまで覚えていることか密かに心配している。早い話が「世界津波の日」って何月何日だったかな、既にしてすぐには思い出せない。それにしても「TSUNAMI」は世界語になったけれども「ブロック塀」はどうなったのか。「喉元すぎれば・・・」もかなり年季の入った俚諺であるが。
世界津波の日 ロゴ
読んだ本:寺田寅彦『柿の種』岩波文庫。『津波と人間』青空文庫。   (2018/10)