2014年11月29日土曜日

「サラサーテの盤」 内田百閒

「サラサーテの盤」といえば、内田百閒(1889- 1971)の短編小説の表題を指すのが普通の考えのように思います。

サラサーテはスペインの作曲家でヴァイオリン奏者でもあるパブロ・デ・サラサーテ(1844-1908)のこと。バスク人だという。盤はこの小説ではレコードのこと、つまり音盤です。当時はレコードのレーベルの色によってビクターの赤盤とか黒番とか言っていました。(写真はHMV社による再プレス版です) 
私が最近「サラサーテの盤」という言葉に出会ったのは偶然で、エフエム東京の放送番組、パナソニック・メロディアス・ライブラリーのホームページの「今週の一冊」に出ていた本の表題です。作家小川洋子さんがパーソナリティをつとめているそうです。URLを書いておこう。 http://www.tfm.co.jp/ml/today/index_20111204.html 
indexから後ろの部分を省いて入力すれば最新の記事が見つかる。 このサイト、もう一人アシスタントとして藤丸由華さんという方がToday’s Topicという記事を担当しています。「サラサーテの盤」については、なかなかうまいことを書いていて感心した。書かれた発想に行きつくまでには相当に苦労されたのではないかと想像します。しかも面白おかしくこの短編のムードが表現されていることが私の感心のもとです。小川さんは2011年の放送中のベスト1に「サラサーテの盤」をあげていますが、評は放送の中だけ、後日、本にまとめられています。 

この短編は昭和23年11月、『新潮』に発表されました。 河盛好蔵氏は「内田百閒集 解説」で「一種の怪異談であるが、怪異などという言葉では片付けることのできない、人間の業の深さや人生苦が、彫りの深い筆致で、読者をおびやかすほどの強さで描かれている。名作である」と書いている。(筑摩書房刊『現代日本文学全集75』昭和31年所収) 

この短編の主題は表題のとおりレコードがもたらした情景です。サラサーテが自作の「ツィゴネルワイゼン」を演奏するレコードを再生すると、ある個所で録音の手違いか何かで入ってしまったサラサーテの話し声が聞こえるのだそうです。こういういわば欠陥レコードが実在したらしいのですが、真偽のほどは知りません。欠陥品が評判を呼んだりしたので百閒が小説の種にしたとも考えられます。 小説の要点は亡くなった友人に借りていたレコードを返した時に未亡人が蓄音機にかけて一緒に聴く場面で、ちょっとした曲の切れ目にサラサーテの声が聞こえてきます。その瞬間…、未亡人の挙動が描写されて物語が終わります。 

話の筋として、生前の友人との交流、二人で旅行した先で知り合った芸妓が友人と同郷であったこと、友人が結婚して間もなくスペイン風邪にかかって乳飲み子を遺して死ぬ、偶然の縁から芸妓が後妻となった、何年かして友人も病死する、というように決して明るくはない友人の家族の人生が説明されます。友人が死んでひと月もたたないころ、未亡人が六つになる女の子を連れて日の暮れに訪ねてくるようになります。用件はいつも、友人が貸した本やら辞書やらを返してほしいということなのですが、友人との間では、いろいろ貸し借りはあったものの、いちいち記録するような男でもなかったのに、これこれがこちらに来ているはずとはっきり言うのが不思議です。そうしてレコードの一件に話が進むのですが、物語は時を追うのではなく、あちらこちらに場面を設けて作者は上手に読者をいざないます。その間に読者は知らずしらずに妖しげな雰囲気を感じさせられるようにも思います。 繰り返し読み直し、読み解く努力を重ねてみて、あらためて作者が一見淡々として文章に語らせている内容が伝わってくる感じがします。 クライマックスで幕が下りた後、観客は茫然とします。怖くもなんともないのですが…。何かがおかしい。言い表す言葉が見つかりません。ま、こんな小説です。暗いです。 

それにしても本来なら聞こえるはずのない声が聞こえるということだけでも結構気味が悪いことに思えます。手違いで録音に残されていると知っていても、それが聞こえる瞬間、もしくはその直前の聞き手の心理としては緊張を伴います。私は自分の性分からこういうのは気が張り詰めるから嫌です。おそらく百閒先生も私と同じような心理構造をお持ちのように思います。狐に化かされる話や、誰か知らない人が一緒に琴を合わせて弾いてくれたあと、座敷が泥だらけだったと驚く話とか、こういうことを書いてくれる百閒先生が私は好きなのです。 


余談になりますが、内田百閒は中学時代に「吾輩は猫である」を読んで漱石に傾倒、帝大独文科在学中から漱石の原稿の校正をつとめています。そういう仕事の常として作家の用語、用字や文法などについて質疑をかわしますが、長らく続けるうちに漱石も百閒の異常なほどの凝り性に迫られて用字の選択を明らかにしたり、時には判断を任せたりしたそうです。漱石死後の第一回全集編纂の時、主として校正の任に当たった百閒は『漱石校正文法』を体系化して、漱石の用語法・かなおくり法などに一つの法則を導いたとのことです。こういう次第は百閒自身の文章に何かと反映されることでしょうから百閒の作品に漱石の影を指摘する研究者も多いようです。
私はそれとは別に百閒の用字・用語に興味を持っていますので、作品を読む場合最近の文庫版のように現代の読者に読みやすいように新字体や常用漢字とかに変えられてしまうと面白みが減って困ります。「胡蘿葡(こらふ)」という漢字に出会ったことがありますが、ニンジンの漢名で後ろの二字だけならダイコンだそうで、わかるまで苦労したのを思い出します。これも楽しみです。
 今回の「サラサーテの盤」は『内田百閒 1889-1971』ちくま日本文学(筑摩書房2007)という文庫本で読みました。字が大きくてフリガナも多いのでたいへん楽でしたけど。 (2014/11)