2014年9月17日水曜日

読書随想 『ラデツキー行進曲』 ヨーゼフ・ロート 1932年

筑摩世界文学大系 63(昭和53年)、柏原兵三訳で読んだ。8ポ活字、3段組で200ページほどある長い小説だ。今般、新しく出版された岩波文庫は上下二巻で740ページほどだ。

作者ヨーゼフ・ロートJoseph Roth 1894-1939はオーストリア人の父とユダヤ人の母との間に生まれた。作品はドイツ語で書いた。この作品は1932年に出版されて高く評価されたが翌年ヒットラー政権が誕生して亡命生活に入った。放浪の後、パリで亡くなる。
フランツ・ヨーゼフ一世

この作品の背景はすでに凋落しつつあるハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー二重帝国、皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の世の中、68年間在位して86歳で没する1916年まで。
物語の始まりは戦場である。舞台は1859年、北イタリアはソルフェリーノの戦いである。

両軍が対峙する最前線に立った若き皇帝が双眼鏡を目に当てようとしたのを見つけたトロッタ歩兵少尉は、飛び出して皇帝の肩を押さえつけた。皇帝はたちまち転倒した。瞬間、敵弾が少尉の左肩を撃ち抜いた。少尉は倒れ、皇帝は救われた。「ソルフェリーノの英雄」の誕生である。
やがて健康を取り戻した少尉は、大尉に昇進し、最高の勲章であるマリア・テレージア勲章を授けられ、貴族に列せられた。そのとき以来、陸軍大尉ヨーゼフ・トロッタ・フォン・ジポーリエと呼ばれることになった。

物語は「ソルフェリーノの英雄」と称えられた祖父と息子、そして孫の三代にわたる。命の恩人に対する皇帝の謝意はトロッタ家への恩寵となり、息子も孫も恩恵を賜る。
この恩恵の賜り方は、ときに滑稽であり、逸楽の結果の借金から逃れることなど、今の世ならば非難囂々かもしれないが、著者はそれも蚕食されてゆく宮廷政治の一部と承知のうえで親子の情に君臣の情を重ねて事を運ばせる。

この著者はオーストリアが好きなのだ。だから、ウィーンが好きで、皇帝が好きなのだ。何よりも著者は、物語が語る静かに明け暮れていた日々の暮らしと時代に愛着が強いので、三代の話を紡ぐことによって、この時代をいとおしみながら作品を世に送り出したのだと思う。

作品の題名「ラデツキー行進曲」はいうまでもなく、ヨハン・シュトラウス一世の作曲、1848年、北イタリア独立運動の鎮圧に向かうラデツキー元帥を称えたものとされる。現在では恒例のウィーン・フィル、ニュー・イヤー・コンサートでアンコール曲の定番になっているほど人びとに愛されている。オーストリアは軍隊の國であるから、もともと軍楽隊の演奏であったろうと思う。ソルフェリーノの英雄の孫、カール・トロッタ少尉は毎日曜日、郡長の屋敷のバルコニーの下で演奏されるこの曲が大好きだった。聴いているうちに自分がハプスブルグ家の親戚であるかのような気がして、皇帝のために死ぬことを想像し、この曲を聴きながらなら、死ぬのはたやすいものだなどと夢想していた。

一方、ソルフェリーノの戦いはイタリア北部、サルデーニア王國とナポレオンのフランスの連合軍を相手にした戦い、双方合計30万に及ぼうという大軍の衝突だったが、オーストリア軍が大敗してイタリアでの勢力が大きく損なわれた。総指揮官フランツ・ヨーゼフ皇帝にとっては忘れられない一戦であったろう。
となれば、ラデツキー行進曲は意気盛んに出征した当時の曲であり、誇り高いオーストリアが失われてしまった今も、それがいまだに人気があって演奏されるというのは、やはりよき時代への郷愁ではないだろうか。この物語の表題としてよくできていると思う。

ソルフェリーノの戦いで皇帝がヨーゼフ・トロッタ少尉に救われたという挿話は事実であるかどうか知らない。物語ではそのようになっているのであるが、ヨーゼフがボヘミヤの資産家の娘と結婚して息子が一人でき、小さな守備隊での生活に安住していたころのある日、教科書の読本を見たことから事件が起きる。
「ソルフェリーノの戦いにおけるフランツ・ヨーゼフ一世」と題した読み物に、敵軍の騎兵隊に皇帝が囲まれてしまったとき、栗毛の馬にまたがった少尉が突っ込んできて敵を切り倒し、皇帝を救出したとあるのだ。これは嘘だ。それにおれは騎兵ではないぞ。嘘と卑怯を憎む頑固者はただちに抗議して取り消しを求めた。だが、官僚の壁は厚かった。皇帝に直訴した。「偽りだらけだのぅ」皇帝は彼の主張を認め、善処しようと約束してくれた。守備隊に戻って辞表を出した。
彼は少佐に進級して退職させられた。舅の領地に移住した。数週間後、皇帝は彼の恩人にその嗣子の学資としてお手元金から5千グルデンを下賜されたとの通知と共に男爵への昇格がもたらされたのであった。やがて折に触れての皇帝の希望で問題の読み物も教科書から姿を消した。
トロッタという名前は連隊の匿名の年代記にだけ残った。

祖父の代まではまだ小さな村の百姓だった、父親は南の国境の憲兵曹長だったが、戦闘で右目を失ってからは廃兵としてラクサンブルクで庭園の庭番をしていた。男爵になったトロッタも田舎の小百姓のような暮らしが気持ちよかった。プロシア戦役は彼なしで行なわれて敗れてしまった。彼は憤った。
廃兵の父は81歳で死んだ。時を経ずして舅が逝き、やがて妻も死んだ。息子を寄宿学校に入れた。決して職業軍人になってはならぬと厳命した。夏の休暇に帰郷した息子は絵を描く友人を連れてきた。父親の肖像画を描いておいていった。男爵は大層喜んだ。初めて自分の顔を知って、ときどき無言の対話を交わした。同時に老いてゆく自分も知った。やがて息子は行政官になり群警部になった。教科書から消えたけれどもトロッタという名前は上層の政治当局の秘密書類には残されている。皇帝のみ恵みはずっと見守ってくれるのだ。昇進は早かった。郡長になる二年前に父少佐は死んだ。

ウィーンの軍楽隊、歩兵一個中隊、軍や官の代表者たち、そして礼砲。人びとは簡素な軍人らしい墓石を置き、名前と地位、連隊名に並んで誇らかな通称を刻み込んだ。「ソルフェリーノの英雄」。
皇帝からは弔慰の手紙が来た。その中には今は亡き故人の永遠に「忘れられることのない功績」について二度も触れられてあった。故人に関するものはこの墓石と忘れられた名声と肖像が残された。

ここまでが第一章で、このあとはフォン・トロッタ郡長とその息子カール・トロッタ少尉の生涯と折々の暮らしぶりが第二〇章及びエピローグまで語られる。
郡長は時代の進み方に遅れをとっていることも知らずに過ごしていたが、息子の駐屯地を訪れて親しくされた民間人のホイニツキイ伯爵が教えてくれた。

君主国は生きながら崩壊しているのです。鼻風邪のたびに危険にさらされ,死に捧げられた老人が,古い帝位を守っているのです。あとどれくらいもつでしょうか。時はわれわれに利あらずです。現代はまず独立した民族国家を生み出そうとしています。人びとはもはや神を信じていない。新しい宗教はナショナリズムです。諸民族はもはや教会へ行きません。彼らは民族結社へ行くのです。君主国は,われわれの君主国は、敬神を、神がしかじかの数のキリスト教を信じる民族を統治するようにハプスブルグ家を選びたもうたのだという信仰を基礎としています。われわれの皇帝と法王とはこの世に於ける兄弟なのです。皇帝はオーストリア・ハンガリーの陛下なのです。彼以外の何人も,神の使徒ではありません。ヨーロッパのどの帝王も,彼ほど,神の恩寵と、諸民族の神の恩寵への信仰に依存してはいないのです。ドイツの皇帝は、神に見捨てられても,依然として統治します。場合によっては国民の加護によって。オーストリア・ハンガリーの皇帝は神に見捨てられてはならないのです。今しかし神は彼を見捨てられたもうたのです。
伯爵の主張は,彼がここ何週間かの間、特に老ジャックの死以来感じていたすべての混乱をいちどきに解明してくれるように思えた。 (引用者注 :ジャックは気心の通じ合っていた召使い)
老男爵は世の中が少しわかったと思ったころに皇帝の臨終を知り、シェーンブルン離宮の庭に詰めて弔葬の鐘を聞いた。数日後、皇帝の埋葬の日に自分も死を迎えた。スロベニアの百姓であったトロッタ家はソルフェリーノの英雄の功績で貴族に列せられたのだ。フォン・トロッタは自分の故郷はシェーンブルンの陛下の居城と定めた。息子に言い聞かせた。「わしたちはオーストリア人でいよう」。彼の葬列も軍楽隊が行進曲を演奏し礼砲が放たれた。

作品は終始優しい言葉遣いで語られる。翻訳がじょうずなのだと思う。同時に、哲学も日常用語で語られ得るというドイツ語の性質も考えた。語りの内容は細かく緻密、それでいて人物の心情が細やかに読み手に伝わる。飛ばし読み、流し読みは出来ない、大切な要点が抜ける。
この物語は歴史であり、社会史でもある。人びとの生活と時代の様子がかなり分かる。
フランスの歴史学者フェルナン・ブローデルが言っている。「本来の歴史は逸話的構成によってしか語れない」と。だから文章は細部の記述の連続になる。この作品もそうだ。

広大な領土を統治する偉大な、しかし老いさらばえた皇帝の真情が切々と綴られる部分もある。
騎兵幼年学校を終えたカール・トロッタ少尉はメーレンにある連隊に配属された。はて、メーレンとは。モラヴィアのドイツ語だそうだ。チェコ東部の町。ところが兵隊たちはチェコ人ではなくて、ウクライナ人とルーマニア人で構成されていた。トロッタにはまったく理解できない言葉が話されている。彼は話せないが、父親は五年前まではスロベニア語だった。今は軍人式のスラブ人のドイツ語で話す。家政婦の老嬢はドイツ暮らしが長かったので標準語だ。

夏祭りの最中に皇太子がセルビアで撃たれた知らせが飛び込んでくる。「ブラヴォー!」、ハンガリー人たちの間では今まで話していたドイツ語を切り替えてハンガリー語が溢れかえった。セルヴィア人とクロアチア人は腹を立てて、ドイツ語で話せとわめく。「なら、ドイツ語で言いましょう。豚野郎はくたばれと言うことですよ。」この国の分裂が始まっている。

カール・トロッタは将校だ。槍騎兵少尉だが本当は馬などどうでもいい。先祖は百姓で、騎士ではない。ときどき彼は、馬鍬を持って土を耕して種をまいて、自然の恵みをいただく生活に憧れた。彼のDNA、著者の時代にそんなものはまだないから書いていないが、そう思える。生きる目的を見失って軍隊を辞めたが、第一次大戦が始まったので復帰した。行軍中に百姓たちの兵隊の身を守ろうと彼らに代わって危険な水汲みに赴いてコザック騎兵に狙撃されて死んだ。百姓の兵隊たちに囲まれて死んだから、先祖伝来のもとの身の上に戻れて満足だったかもしれない。倒れた時、ウクライナ人の百姓の兵士たちがいっせいに叫んだ。「イエス・キリストに頌えあれ!」。「とこしえに、アーメン!」と彼は言いたかった。それが彼のしゃべることのできた唯一のルテニア語だったのだ。ルテニア語、この場合はウクライナの方言ととっておこう。

軍隊は、端的に言えば将校は貴族、兵は農民、商人などの民間人だった。オーストリアはユダヤ人に寛大な政策をとっていたらしい、いわゆる東方ユダヤ人がよく登場する。しかし将校たちの間では、ヒソヒソ話の対象になり、疎外される身の上だ。ドクトル・デーマントは優秀な医者だが連隊付医官という身分でしかない。ガレシア地方のユダヤ人だからだ。ある時酒保でユダヤ人を侮蔑する言葉を投げられたため決闘することになった。軍人なるが故に避けられない決闘、馬鹿馬鹿しいと言いながら「名誉」のために死んだ。相打ちだったのがせめてもの慰めか。

軍の学校で養成された若い将校たちは戦争を待っている。戦争がなければ訓練、演習に明け暮れる日々。死ぬ機会を待っている身ではほかにすることがない。ウィンナ・ワルツに「酒・女・唄」というのがあったと思うが、トロッタの兵営内の生活もそれだ。東の国境守備隊で親しんだ酒は「九十度」というとおり名だった。彼は少し酒で脳がやられていた様子が見える。ウィーンには有閑夫人が多い。若い将校は誘惑される。トロッタも楽しんだクチだ。金がかかる。戦争になる少し前に守備隊のいる町のホテルに賭博場が開かれた。鬱屈している連中にはルーレットの偶然が幸福をもたらしてくれるように思えた。みんながすった。借金が増える。ユダヤ商人のつけいる機会も増える。自殺者も出た。トロッタの借金問題が老皇帝の恩寵で片付けられたついでに賭博場も閉鎖された。賭博場については近頃の日本の政治家の思惑を連想して「他山の石」という言葉を思い出した。
その他もろもろ、たくさんのことを知ることができた。題材は講談か浪曲みたいだが、語り口がうまいからやはり文学になっている。本音のことが書いてある。評判が高かった所以だろう。
ジポーリエなどという地名は今の地図ではどこにあったのやらもう分からないが、現存する地名やハプスブルグ家の各地の城や庭園などはネットが利用できるから観光気分で写真も楽しめる。読み返しながらのネット・サーフィンも楽しいことであった。
(2014/9)