文芸評論の磯田光一氏の著書に『思想としての東京』がある。氏はこの中で江戸の地図の方角を話題として取り上げている。
『思想としての東京―近代文学史論ノート』(国文社1978年、私が読んだのは新装版1989年)、江戸から東京へ日本の近代をなぞっての著作。著者の磯田光一氏(1931-1987)は英文学者であるとともに日本近代の文学を時代性でとらえる評論を続けていた。
巻頭に著者が苦心して集めた江戸、明治、大正各時代の関東の地図がグラビアで紹介されている。寛政9年の江戸の地図では西が上になっている。そして、「御城」(葵の紋所が描いてある)は逆さまに、大名屋敷や人家の表記は「御城」を向いているが,神社仏閣は別だ。つまり神社以外は権威が所在する方向を向いている。神社仏閣はその権威に従う必要はない。これが著者の見方だ。
磯田氏によれば、「江戸時代には、すでに北を上方とする西洋的な地図作法が入っていたにもかかわらず、大半の江戸地図では西が上で東が下になっている」。
この作図法には二つの問題がある。建物をあらわす文字の向きと方角の定め方だ。文字のことは上に述べたのがひとつの見方だが、「御城」が逆さまになっていて下方を向いているのは西に向かって聳え立つためと解釈できる。西に京都があって天皇がいるから、権力を象徴するにはこうなると説く。「御城」の表記が時代が下がって「皇城」「皇居」と変わっても西を上にすることは明治になってもなかなか改まらなかったらしい。原版を江戸地図においたまま改訂版ですませたためもあるとも考えられるが、著者は詳しく拾ってはいない。著者の論ずべき筋が別のところにあったせいだろう。なお、筆者がネットで探った結果では、大名屋敷の向きについては、著者の言い分が当てはまるとは限らないように見受けられた。テレビの回答のほうが当たり前のようで、広くあてはまる。
この本では地図を読むにも作図法の根底に潜む「神話」要素を掘り出して、特定の住居地域がステイタスシンボル的に考えられてゆくことや、区域で話される言葉が地方語、方言、東京語、標準語などの違いによって人間の格差づけがうながされ、さらにこういう要素から東京が日本の中で憧憬の地になってゆく様子を文芸史上に探っている。
江戸地図の方角基準については克明に調べれば磯田氏の見解の通りになっていないこともあろうかとは思うが、ひとつの「神話」として面白い見方であると思う。
話は違うが、「みんなの党」が解党する動きとなった際に党の使途不明金が問題になった。渡辺喜美代表の口をついて出てきたのが「お酉様の熊手」に40万円支払ったとかいうことで話題になった。あの時、私は磯田氏の著書を思い出した。
著書『思想としての東京』に大正14年の『東京都市計画地域図』が載っている。関東大震災によってやり直しを強いられた都市計画の図面で、著者はこの図に「昭和の東京の運命を決定した地図」と下記している。「東京の西半分が薄緑色にぬられて、「住居地域」と定められ、現在の千代田区、中央区のあたりが「商業地区」として赤くぬられ、いわゆる下町と川崎は「工業地区」としてブルーにぬられて」いる。ピンクの商業地区とブルーの工業地区との境界線が隅田川だった。
昭和の東京は新上京者として日本近代化の指導層になった地方人が、主として世田谷、杉並方面に居を構え、森茉莉『気違いマリア』のいう「浅草族」を工業地区のうちに封じこめることによって近代化を達成したのだと著者の論考は進む。
「浅草族」つまり、そこに住み着いた人びとは住居地区の標準語族の力の前に滅んでゆく。磯田氏は谷崎の『痴人の愛』から浅草千束町を引き合いに出すが、樋口一葉の『たけくらべ』の舞台でもある。
かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形(なり)に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂(でんがく)みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當ことごとしく、一家内これにかゝりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉(とり)の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ、正月門松とりすつるよりかゝりて、一年うち通しの夫れは誠の商賣人、片手わざにも夏より手足を色どりて、新年着(はるぎ)の支度もこれをば當てぞかし、南無や大鳥大明神、買ふ人にさへ大福をあたへ給へば製造もとの我等萬倍の利益をと人ごとに言ふめれど、さりとは思ひのほかなるもの、此あたりに大長者のうわさも聞かざりき、……(青空文庫『たけくらべ』より)お酉様の熊手などを作り出すのは際物屋という商売だそうだが、その季節にたまたま店の主人を取材したのをNHKテレビで見たことがある。材料こそ変わったようだが、相変わらずの手作りで、しかも工場すなわち住まいは一葉の描く時代と同じ地域であったのに驚いたのであった。いうなれば『一銭五厘たちの横丁』(児玉隆也)の現場である。一葉の皮肉な口調を思い出して気の毒なような感じもするが、同じ商売、似たような境遇の職業がひとところに相集まって生計を立てるのは洋の東西を問わず共通した必要性に基づくことでもあるかと思った。それにしても、100年以上も昔のころから、同じ地域が同じ職種を営む人々を呼んでいるとはどういうことであろうか。浅草の場合は鷲神社あっての商売だから、神社の足元に張り付いているらしい。「浅草 よし田」という宝船熊手専門店の場合がわかった。お酉様には150もの熊手の店が出るそうだが、生産地はわからない。多少は地元にもあるとは思うが。
「日本職人名工会」と「浅草よし田」のサイトが参照できる。
http://www.meikoukai.com/contents/town/04/4_9/
http://info.linkclub.or.jp/nl/2007_11/yoshida.pdf
関連:5月15日『一銭五厘たちの横丁』参照。
(2014/9)