安倍晋三さんが撃たれたのは7月8日(金)だった。翌9日の朝日新聞朝刊22面にACジャパンの全面広告が載っている。大きな写真はノートパソコンを前にした若宮正子さん87歳。キャッチコピーは「とにかく バッターボックスに立ってみる。/ バットを振ったら、当たるかもしれないじゃないですか。」
若宮さんには予て関心をもっていたが、この日は遂に広告塔にまでなったかという驚きがあった。それとともにその広告は何を伝えようとしているのか不思議に思ったのだった。
広告主のACジャパンというのは一体何をする団体なのか、ロゴの上には「気づきを、うごきへ。」とのコピーが添えられてあるが、よくわからない。
ふだんはニュースの題目だけ程度しかテレビを見ないが、折も折とて銃撃事件の関係する報道が続くからいつもより長くテレビの前にいた。すると、見るともなく見ている画面にACジャパンのロゴがよく現れるのに気がついた。しかし、それは広告画面が終わったあとであるから広告自体は見ていない。はて、若宮さんを広告塔にした広告主は何者だろうとネットで調べてみた。
さまざまなメディアを通した公共広告により啓発活動をおこなっている公益社団法人だそうだ。住みよい市民社会の実現を目指す民間の団体とも書いてある。
そしてある日、Yahoo!ニュースに「民放各局で『AC広告』急増。安倍ショックがもたらした”不謹慎”以上のCM中止理由」ときた。
要するに日頃のお笑い芸人やタレントによるチャラチャラした広告は銃撃ショックの世間には流さないほうがよい、社会の沈痛な気持ちにたいして不謹慎だ、いやそれよりも広告主のイメージに疵がつく、マイナスイメージだ、という打算であるらしい。悲痛な気持ちどころか、ちゃっかりしているのだということがよく分かる現象なのだ。こういう事態の場合には、ACジャパンの広告イメージがいつもの広告をとりやめた穴をうめるのに最適との計算である。今週いっぱいはこの流れが続きそうだと、そのニュースは解説していた。
新聞の、あの若宮さんの広告はその後は出ない。ACジャパンのソロバンはどうなるか知らないが、密かに有卦に入っていることだろう。
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さて、思わぬことで折角の若宮広告塔もたちまち影が薄くなる運命になってしまったが、本来の広告目的はどこにあったのだろう。
81歳でプログラマー・デビューで世の中に突然のように登場して以来、あちこちで話題にされ、この日の広告には国連本部でスピーチしたり、87歳の今、政府デジタル官庁で社会構想会議に参加しているなどと説明がある。
若宮さんのお名前を知ったはじめのうちは、「もとはお荷物銀行員」というフレーズがついていた。これはお年寄りでもここまでできるのだよという啓蒙目的には効果があった。事実の経過とともにだんだん明らかになった経歴を見ると、この女性はもともと手先が器用ではなく、ソロバンは遅いし、お札を数えるのにも時間がかかった。やがて器械がお札を数える時代になって、本人も開発部門に配置されてから、能力が発揮されだした。私的生活では英語に関心があってラジオで独習したり、好んで海外一人旅をしたりしている。これだけ聞けば、ボォーッとおばあさんになったのでないことがよくわかる。そして、かつてのお荷物行員は社内試験を受けて管理職にもなったのだそうだ。
この年代の勤め人、大抵の会社ではコンピューターなど事務所になく、大きな会社ではたいてい大型のが御本社に鎮座している時代だった。若宮さんはやがて定年になるが、そのあとパソコンに興味をもったのだという。習いに行ったり、教わる人に出会ったりして技能と知識を増やしている。
こういう経過が次第に明らかになってみると、若宮さんは急にプログラマーになったわけではない。世界最高齢とうたわれたのは、アップルのエライさんの目に止まったのが幸いしたようだ。日本では世界で認められれば一流人だ。デジタル化に躍起の政府が見逃すわけもなく政府の一劃に席を得て、インタビューや著述にも忙しい日々を送っているらしい。そこで一人暮らしで87歳という状況がもてはやされる。ここで留意しておきたいのは若宮さんが開発して有名になったのはスマホアプリだということである。パソコンでないのは、まさに今の世の中、万事がスマホで、パソコンは普通の生活圏外に追いやられつつある。世代交代の現象だろう。一般に老人はキー操作が苦手、文字入力ができないなどといわれるが、若宮さんのアプリ、「ひなだん」にしろ「ななくさ」にしろ、キー操作は押すだけにしてある。そして間違えるとブーと音がなる仕掛けで、年寄にもわかりやすいという。開発したのが年寄りだからこその気配りだろう。
ナンバーカードで遅れを取った政府は、目下その普及促進に躍起である。しかし、若宮さんを担ぎ出したところで世の人たちがデジタル思考になるわけではない。毎日のニュース時間に「私はだまされない」とNHKが口を酸っぱくして警告しているのに、キャッシュカードを見知らぬ人に渡して詐欺被害に遭う年寄りが引きも切らない。
機械音痴という言葉もある。パソコン、スマホを問わずキーやボタンを押して目的を達せられる便利な機器が使えない人が多いのは年寄りとは限らない。数学者の藤原正彦氏もその一人、彼はえらい数学者は軒並み器械に弱いのだと弁護している。
新聞の投稿欄に年寄りが寄稿されたものは世代を同じくするだけに読んでいていろいろな感情が起伏する。
三食付きの施設に一人暮らしの元会社員で90歳の男性。居住者と会話も弾まず、することがなくて時間を持て余していたが、雑誌に目標をもてとあったのを見た。そのつもりはないが百歳まで生きるという目標を立てた。そのためにはまず食べることだ、ゆっくり噛んで食べると食物の味がわかってきた。目標が達成されたとき、体力が残っていてほしい。散歩するためにスニーカーを買った。こうしてこの方は自立生活をはじめられたらしい、その報告だった。
87歳の女性文筆家。熱海の施設で一人暮らし。新幹線の切符が自分で買えなくて困る。機械音痴だからパソコンは使えないので原稿すべて万年筆、いま書いている37冊目とかの本を最後にしようとある。アメリカに住む娘さんに郵便を出すのに、手書き宛名では出せなくなったと困っている。昨年施行された通関データ通信のためのstop actとやらのことを言ってるようだ。どこかに宛名作成サービスがあるらしいがご存知ない様子だ。怒っている。
こんな具合でどちらを向いても高齢者社会、助けてくれる人はめったにいない。銃撃された安倍さんを悼む献花には何日経ってもどこでも行列が後を絶たない。さて、どうすればいのだろう。難題だ。(2022/7)