堀田善衛さんに「聖者の行進」という作品がある。『文芸』1971年4月号に初出という。16世紀のブラジル北東部乾燥地帯での物語である。
劈頭、教区顧問アントニオ師が、骸骨のように干からびた体に、もとは綿製の僧服であった襤褸をまとい、巡礼杖に身を託して跛をひきながらぎくしゃくと歩いている。ひたすら歩く。ときに幾日も食することなく歩き続ける。人影を認めるとき、「われに、続け!」と叫ぶのみ、あとはひとこともなく、ことばをもたぬかに見える。古代基督教の、荒野に飢えて祈る聖者を思わせた、とある。
ここは砂漠の一歩手前まで乾燥しきった砂礫の荒野である。植物さえ水分を求めて地中深くに幹や枝をはる。地上には動物に食われないよう棘だらけの葉を残すのみ。
師の背後には師に劣らぬ襤褸をまとい、また師に劣らず飢えと乾きに痩せさらばえた人々が続いている。
ときに師をとり囲んで拝するとき、師の発することばは怖るべき予言だった。それは黙示であり、世の終焉を告げるものだった。
水は血となり、光は消え失せるであろう。世は闇となり、やがて地には帽子のみ多く残り、生ある頭はごく少なくなるであろう、と。また人は、東方に大凶の箒星を見るであろう、と。そしてカニュドスに来たれと叫ぶ。
カニュドスとは、見捨てられた村落のあと、乾きで荒廃し果てた奥地(セルタン)の廃墟である。そこに会堂を築いて最後の聖地をつくるべく師と人々が衰えた歩みを続ける。行列は数十人、数百人となり、たちまち千人を超えた。人々の通ったあとには行き倒れの屍の列ができ、カニュドスまで間違いなく辿り着ける道標となった。
出来上がった会堂では祈りの集会が頻繁にもたれ、一切の財物が師に献じられ、そこに支配するのは師に対する仰慕のみであった。祈りだけが唯一の救いであり、唯一の現実であった。祈りならざるものは、悪徳も、殺人も、乱婬も、一切が許されていた。教区顧問アントニオ師の顔を見上げて、この大乾燥地帯のうちにあって己の眼に一滴の涙さえ浮かべ得られれば一切が許されていた。
このようにして人々は師ただ一人の栄光のために、俗世の法を否定し、殺し、婬し、盗み、そして祈った。カニュドスを根拠地として人々は四方に散り、村々を襲って食糧や武器を奪い、人を殺し、かつ徴集した。
こうしてカニュドスは当局者によって反逆者集団と認められる次第となった。となれば、このカニュドスに拠った奥地住民たちもまた戦に備えなくてはならなくなったのである。
討伐に向かった軍隊はきらびやかな軍装に光り輝く武器を手に進軍したものの、乾燥地帯の暑熱、毒蛇、牛の血を吸う蝙蝠のもたらすペスト菌など、荒れ地のあらゆる反抗にあって敢なく屍の列をなした。
二度三度と討伐軍の試みが失敗したあと、第四の大遠征軍はカニュドスとアントニオ師にまで到達するためには正式の植民地戦争を行う戦略と戦術を練らなければならなかった、と作家は記述している。
結末の数行をここに引いておく。
カニュドスは、もはや無い。叢林(カティンガ)の天の王国も、無い。神秘に燃え上がったこの年は、乾きの平原の民を旧に倍した悲惨に突き落とした。そうして彼らが再びの大旱魃期(セッカ・グランデ)を迎えて、この光の地獄から次なる地獄に突き入れられるまでに十年はかからなかった。
二十世紀は、ゴムを必要とした。乾きの平原の、数百万の襤褸の民は、海岸に駆り集められ、奴隷船に詰め込まれて、北西へ海を航し、海の如き川を遡り、このたびは、光と乾きの代りに、水と緑の地獄であるアマゾン奥地に叩き込まれ、日も射さぬ真暗な密林のゴムの木の傍に放り出された。ゴムの木を。アマゾンの原住民は、泪する木と呼んでいた。
末尾に主要資料 Lucien Bodard : Le Massacre des Indiens、 とある。
作品の内容を紹介することを兼ねて作家が用いた語彙を借りながら中心話柄の梗概を述べてみたが、ブラジルの地には西洋人に発見される以前数千年にもすでに人間がいたことをも含めて先住、原住と形容せられる人間の層が複雑なこと、その上に白人種が侵入したことで共存が破壊された歴史がある。文明の名をかりての破壊による混沌の有様を描くのは容易でない。近頃流行りの多様性の問題などはブラジルの土地にあっては普通のことだったように思う。
ルシアン・ボダール氏には『アマゾン原住民の虐殺』(1972)があるが、6年間もブラジルに住み込んでいたらしいから堀田氏が参照した記述もどこかにあるのだろう。
「聖者の行進」に堀田氏はアントニオ師のことを、「精神錯乱者にして神託受領者、偏執狂者にして聖者、預言者にして悪魔であり、かつそれらのすべてでもあった」と表現し、かつ「アントニオ師が出現したのは、これらの孤立閉鎖地帯のなかでももっとも純潔かつ完璧に維持されてきた地域からであった」と書く。
ブラジル北東部に広がる広大無辺の内陸曠野はポルトガル語でセルタンと呼ばれ広さはフランスの二倍はあり、地味は痩せていた。この、人のあるべき地でないところに二千五百万の人間がいたのだそうである。いかに広くてもとても養いきれるものでない、とある。
白人たちがエメラルドの山、あるいは銀塊を求めて四世紀、あるいは五世紀にもわたってこの内陸に乱入し続けた。何もあるはずはなかったが、結局は原住各民族との乱婬の結果だけが残された。未開野蛮の徒と見られていた種族の女、開化の民と称していた男たち、そうした男たちを教化すべく砂礫の地を踏み越えて入ってきた僧侶たち、これら三者の乱婬の結果が残された。白人たちは原住民族の男を使い潰し、殺戮した。しかし屍の数よりも、生まれる者の数のほうが多かった。
宝さがしに絶望した男たちはやがて出て行ったが、たまさかに留まって牧畜を始めた者があった。牛を飼う者は、彼らが産みつけた混血児たちであった。混血に混血が重ねられた。永遠の同質混血だった。あまりに広大な地で他との交流は不可能だったのである。いわば閉じ込められたこの地に宗教が目をつけた。ここに天国を築くことが目論まれた。
僧侶司祭は遥か大西洋の彼方から王の勅許を得て、外部からの白人をも含めての侵入を許さず、東方海岸地帯との、また南方の肥沃な土地との商行為をも含めて一切の交流を禁じた。天国ができるはずのところに夢魔に憑かれた僧侶司祭が約束したものは地獄であった。こういう孤立閉鎖地帯から出てきたのがアントニオ師であった、と、こういうことになろう。
グーグル地図で検索してみた。カニュドスでは見つからない。Wikipediaでブラジルの歴史を参照する。以下にその一部を抜粋する。
1894年に初の文民大統領として、サンパウロ州出身のプルデンテ・デ・モライスが就任した。旧共和政初期には旱魃や低開発が続く北東部は極めて不安定であり、モライス時代には1896年に北東部のバイーア州でアントニオ・コンセリェイロ(助言者アントニオの意)によって率いられたカヌードスの反乱が勃発した。コンセリェイロはキリスト教に深く帰依し、バイーア州の奥地のカヌードスにコロネルの支配が及ばない30,000人が生活する共同体を築いていたが、政府はカヌードスを認めず、三次に渡る遠征の末、1897年10月5日カヌードスの住民は一人残らず皆殺しにされ、反乱は鎮圧された。この反乱はエウクリデス・ダ・クーニャに『奥地』を書かせた。
これでわかった、カヌードスだ。地図にはカヌドスcanudosがある。でも、湖がある。そばにアントニオ・コンセリェイロ記念碑の存在も付記されてある。これに違いないが、なにか変だ。この地で事件があったのだ、しかし記念碑があるとは。
エウクリデス・ダ・クーニャ 『奥地』で検索すると、没後100周年とうたった日本ブラジル中央協会による記事があった。事情が読めてきた。
堀田作品の対極にあるかのような作品が見つかった。
『カヌードスの乱―19 世紀ブラジルにおける宗教共同体』(春風社、2018 年)著者は名桜大学・ 住江淳司 教授。あらましが『ラテンアメリカ・カリブ研究』(2018)のweb pdfファイルで読める。
https://lacsweb.files.wordpress.com/2018/06/25sumie.pdf
書物は現在入手困難。県立図書館に見つかったがすぐには読めない。
このような経過を経て事件のあらましを知ることができた。
堀田氏が挙げた資料「インディアンの虐殺」はボダールの著書としては見あたらなかったが、事件の結末が共和国政府による2万5千人住民のみな殺しであることが明らかであることから当該事件を述べたルポであることがわかる。
「聖者の行進」は事実を材料にした堀田善衛氏の創作ということで理解できる。同氏が綴る文章に散りばめられ数々の語彙から、この作家の大きなテーマ「時代と人間」と、さらに「民族」という人間所在の現実を深く考えさせられる。(2022/8)
カヌドスの記念館前にあるアントニオ師の像 追記:住江教授の説明では、カヌードスに現存する湖は中央政府の手による人造湖で、事件の忌まわしさを水で覆ったと見られる。教授が現地を訪れたときは折しも渇水期で会堂の上部が水面上に現れていたという。記事には写真が添えてある。(8月6日記)