2022年2月1日火曜日

水は大事だという話

95歳の祖父は夕食後母と叔母に手を取られてベッドに移動しようとして突然くずおれた。女性たちが抱き起こそうとしたが既に事切れていた。こんな情景で始まるエッセイを読んだ。なんとも見事な最期ではないか、なろうことなら・・・思わず感動した。

「人間のからだを構成する原子は、死後もずっと地球にとどまり続ける。地球の重力で繋(つな)ぎ留められた物質は、ほとんど地球から出ることができないのである」。ふ~ん、こんな言葉にも感心した。不意をつかれたのだ。原子炉とか原子力とか日常の新聞記事で眼にするほかにも原子があったことをふだんは忘れているからだ。このエッセイの終わりには「朝が来る。窓を開ける。/ 空がある。雲が動く。/ 鳥が鳴く。かつて誰かの肉体だった原子が、見えない風に運ばれている。/ 宇宙のどれほど遠くを探しても見つからないもの――それはすべての人の最も近くにある。/ 僕たちはそれをともに作り続けている」、こんな詩で結ばれている。森田真生さん、紙上では独立研究者という肩書がついている。調べてみると1985年生まれの数学者だそうだ。なかなか魅力的な人のようだ。(朝日新聞2022年1月14日朝刊「寄稿」)

たまたま物質を構成するものについて考えを巡らせているときにこのエッセイに出会った。思わず、ン?となった。いつの間にか誰かの原子が自分の中に入り込んでいる! いや、それだけではない。しじゅう入れ替わっていると考えるほうが当たっていそうだ。このことが直ちに、はて、自分は誰でしょうとはならないと思うが不思議な感じがする。

人の体の60%以上は水だそうだ。枯れた年寄でも50%以上あるらしい。胎児では90%が水だという。そもそも人間は水の中で発生したらしいではないか。受精まもない胎児は魚のような形からイモリのような形になり、人の形に変るのだそうだ。このことをドイツの学者は、羊水の中で生物の歴史をなぞりながら人間として生まれてくると唱えたという。(サントリー「水大事典」)

水の三態(サントリー水大事典より)

水なしでは生きていけない、体の不調は水が原因、足がつると、水を飲めとマッサージ師は言う。そんなこんなで小学生並みのアタマの持ち主は、水を少し勉強しようと考えた。インターネットで手頃な手がかりがないか探していると、ルルドの水の奇蹟の話が出てきてドイツの学者が解明に取り組んだことを知った。その縁がわが九州大学農学部に繋がっていて多くの学者とその卵さんたちが生命の研究に取り組んでいるのを知った。九州大学の白畑実隆教授、既に故人であるがエッセイ「水のこころ」を残されているので、まずここから水の世界に入ってみた。

このエッセイは細胞制御工学教室といういかめしい名前の研究室の片隅に残されている大変長い語録である。読む前にその研究室の現状を覗いてみると、次のようなことが書いてあった。

九州大学大学院農学研究院遺伝子資源工学部門細胞制御工学教室では10年以上に亘って「健康に良い水」の分析・機能評価に関する研究を行ってきました。この度、当研究室では「健康に良い水」についてさらに広い知見を得るために、「健康に良い水」である可能性のある飲料水等について、試験管内試験、培養細胞を用いた試験、さらに必要があれば動物実験まで行い、健康に良い水かどうかの総合評価を行う共同研究を行います。本共同研究にご関心のある方はお気軽にご相談下さい。

こうなると水の研究と言っても物理や科学、原子力などの理論の世界ではなく、われわれ自身の体を守ろうという非常に身近で切実な現世世界のご利益を見出そうということだと身にしみて分かる。

エッセイ「水のこころ」には細胞制御工学教室ホームページからリンクとして跳ぶことができる。 http://www.agr.kyushu-u.ac.jp/lab/crt/index12.html

ここで話が少し跳ぶ。『文藝春秋』新年号に「愛子さまご誕生の瞬間」と題されて山王病院名誉院長の堤 治氏の寄稿が掲載されている。掲載は愛子さまが成年になられた節目を記念してのことで、話題は20年前の雅子皇后ご懐妊から出産までの記録でもある。私は一読してある種の感銘をおぼえた。両陛下が超音波画像を仲良くご覧になりながら医師の説明を聞かれたという事実が述べられてあったからだ。普通の市民であればこういう情景は当たり前であるが、天皇と皇后が、となるとなぜか当方は思わずエッと驚きが先に立つ。堤医師は侍従長に逆らってまでも分娩予定日を明かさなかった。37歳8ヶ月という高齢出産の母体に及ぼすマスコミの有害な反応を避けるための配慮だった。また胎児の性別を前もって知らせることをしなかった。天皇に伺うと知らなくてよいと答えられた。分娩予定日も性別のことも、ともに後継者にかかわる議論がもたらす危うさを深く考慮したものであることはいうまでもない。

超音波画像を見ながら医師の説明と診断を聞くという光景は、現在の医療場面では既に珍しいことでなくなってはいる。しかし、両陛下の眼前に展開されたはずの画面がどのようなものであったろうかと想像してみれば、やはり驚きであったし続いて戸惑いの気持ちが起きた。プチっと黒い粒がエコー画面に現れる頃から現実味を帯びてくる新しい人間の始まりと、天皇の後継は男子であることという決まりごとがどうやって結びつくのだろうか、との違和感と疑問が湧いてきたのである。同時に既に20歳になられた一個の人格をどのように処遇するのか、親でありながら他人の手にわが子の行く末を委ねなくてはならない不自然さをどのように結着させるのか。天皇ご一家にはお気の毒なことでしかない。自然の働きについて考えを巡らせているとき、たまたま手にした雑誌にこの記事が載っていたまでのことではあるけれども、これは不自然でかつ不条理な事柄に類するのは確かだ。

さて、われわれの身体を作る物質は、どこからとも知れずいつの間にか他所から入り込むのだという。胎児の体は90%が水だときけば、その水を作っている物質は原子であり、分子である事を考えてみたり、それらはどれほどの大きさのものかなどと思う。

エッセイ「水のこころ」第10話(2009年5月)では、fMRIという研究装置の機能と、その権威として新潟大学教授中田力氏の名を教えられた。そして脳の神経回路のうち「水のない空間を未知の気体が流れることでできた渦流が、大脳皮質の上層にある水の薄膜に渦の興奮を伝わることで大脳の意識や記憶を働きが行われるという脳の渦理論」を紹介され、「この脳の渦理論によって、全身麻酔薬の働きやアルコールで意識がかく乱される仕組みをよく説明できます。脳という高度な器官において、水が心の働きに無くてはならない働きをしているということは大変興味深いことだと思います」と結ばれている。

中田教授について調べると長くカリフォルニア大学で研究されて名誉教授でもあったが2018年に68歳で旅立たれていた。「脳の渦理論」は難解な仮説であるらしいが、ノーベル賞に最も近い研究者とされていたという。図書館に『脳の中の水分子』(2006年 紀伊國屋書店)という著書があったがどんな内容だろうか。この著書については松岡正剛さんも書いている。松岡さんは先立つ2冊の著書を読んだあとに『脳の中の水分子』を読んだそうだ。それが2008年、著書にお会いして色々聞いてみたいとあるが、その機会はついになかった。「水のこころ」の白畑教授はヒントのように麻酔に触れているが、全身麻酔は意識を奪うことであることに中田教授が気がついたのが、脳が意識(こころ)に関与する仕組みの解明に到達する入り口であった。それから25年もかかったが、その間、脳科学者たちは誰ひとり振り向いてくれなかったという。それはひとえにそんな事があるものかという思い込みのせいであったのだ。こういうエピソードに惹かれてこの著書を読んでみようと思い立った。知らないことが次々に出てきて少々錯乱するかも知れないが。(2022/2)