「生体の基本となる細胞のもつ環境は水分子の作り出す熱力学的な環境空間であり、脳がどう働くかの原則も、熱力学的理論体系に従うことが知られている。医学の基本は生物学にあり、生物学の基本は化学にある。そして化学の基本は物理学にあり、脳がどのように働くかでさえも、正確な物理理論として記載可能なのである。そして、その基本原則を支える環境空間は、水によって作られている。水は、本当に生命の源なのである。」(中田 力著『脳の中の水分子』p78)
九州大学の白畑教授のエッセイ「水のこころ」に教わって新潟大学中田 力教授のお名前を知ったが、お二人共すでに故人になってしまわれた。生年が同じ1950年で没年も同じ2018年とはなにか不思議な気がする。ご冥福を祈るばかりである。
中田教授は「脳の渦理論」という研究実績をお持ちだ。人間の意識があるという状態が脳の水分子の動態に深く関係しているという仮説である。滞米25年の結論でもある論文は1996年に完成したまま陽の目を見ていない。脳はそれぞれの部位がそれぞれに役割処理機能を備えているという機能局在論が常識となってしまって、そうではなく常に新しい情報を受け入れて処理する自己形成型の機能をも持つことが理解されていない。大脳皮質に備わる2種類の機能、それには1000億個のニューロン細胞のほかにその10倍もの数のグリア細胞の働きがあるから可能になる。その領域では水分子が活躍している。
長らく脳神経学と臨床医学の教授を勤めた後、アメリカに籍を置いたままMRI開発研究者として新潟大学脳研究所に招聘されたとき、同僚となる脳神経生理学の教授に座談として訊いてみた。「もし、脳の中で、水が動いていて、それが脳機能と結びついていると言ったら、どう思う?」相手は即答した。「そりやあ、おかしい人と思われますよ」。いまのところ、これが常識なのだそうだ。
1999年に立花隆氏のインタビューを受けたとき、脳科学にも関心の深い同氏に「脳の渦理論」入門編を話してみたうえで、アテストしてくれるか尋ねたら「いいですよ」と即答してくれた。これで論文が正式に誕生した、と著書にある(前掲書 P166)。
「脳の渦理論」にまで到達できた中田氏にとっての、そもそもの発端は東大医学部時代にライナス・ポーリング(1901-1994)の論文に出逢ったことだった。ポーリングは化学賞と平和賞との二度ノーベル賞を受けただけでなく多くの分野で実績をあげた大科学者である。たまたま図書館で見つけたその論文には、全身麻酔効果のある薬剤すべてが水の分子のクラスター形成を安定化し、小さな結晶のようなものをつくりだすとあった。彼はその所説を「水和性微細クリスタル説」と呼び、1961年『サイエンス』誌に発表した。だが、直後に撤退している。薬剤の水分子への働きが明らかになった、そのあと、なぜ意識を抑制することができるのかの説明できなかったからだ。中田氏はポーリングの所説を『水性相理論』と呼びかえているが、その全身麻酔薬の作用機序を説明した論文は完璧であり、圧倒されたという。ちなみに作用機序とは医学の常用語で、薬物が人体へ与える効果の仕組みをいう。そのうえ、ポーリングの説明は麻酔薬の大気圧依存性という奇妙な特徴までも説明できていた。当時の医学では全身麻酔薬は脂肪によく溶けるから効果が出やすいという1900年頃以来の「脂肪溶解度説」がもっぱらで、薬剤の作用機序は全く知られてはいなかった。ポーリングにしてもまだ科学における複雑系の概念が理解できていなかったのだ。全身麻酔薬がなぜ効くか、生体にどう作用するかポーリングが知り得たのは、脳内細胞の水分子に作用して結晶を作りやすいことまでだった。そのことが何故か人の意識を抑制する。その「何故か」に中田氏は賭けてみようと決めた。ここから出発すれば、脳がどのようにして覚醒し、意識と呼ばれる形而上的実存を作り上げるのかが解明できるはずであると。
日本には、こころとよばれる脳機能を、脳科学の立場から研究する基盤が存在しなかったため、臨床研修を終えた1976年に渡米してバークレイで同じ目的をもった脳神経の医師たちと合流した。アメリカにおいても実状は、脳神経学から高次機能を追求する医師は異端とされ、こころとは精神科とか心理学の範疇にはいるものであった。異端者のグループを率いていたのは、数学、物理学の世界から医学に転向した天才的な知識と理論展開能力をもったユダヤ系アメリカ人だったという。この著書にこの人物が紹介されていないのが残念である。近代言語学の祖、ノーマン・ゲシュウィンドの弟子であったこの御仁から、中田氏は医学でさえも数式で扱えることを教えられた。そして、偉大なる哲学者はすべて偉大なる物理学者であり、偉大なる物理学者はすべて偉大なる哲学者であるという彼の言葉は、私の生き方にはっきりとした道筋を与えてくれたと述べている(前掲書p154)。
この著書『脳の中の水分子』に明らかにされている解明の過程を読めば、脳はまさに複雑系の世界であって、その中で展開されている自然の生態動作の精妙さには驚かされるばかりである。生物、化学、物理などにまたがる知識を次々に知らなくては自然の動態にはついてゆけない。中田氏の跡を追いかけるには知らなければわからないことが多すぎる。しかし、用語の意味を知れば文章はわかりやすい。優れたサイエンス・ライターだと思う。私は調べながらこのエッセイの展開を楽しんでいる。
現実の世界ではインターネットで探ってみても、全身麻酔薬の作用機序についてはポーリングの「水性相理論」の先行きを解明する説は見当たらない。本書にあるように大脳皮質の情報処理機能はニューロン細胞だけにあるのではない。その10倍以上もあるというグリア細胞のネットワークが必須だったのだ。新しい論文を眺めていると、グリア細胞やアクアポリンという専門語までが現れる状況になっている。後者は1992年に発見された水を透過させるタンパク質である。中田教授の先進性を示す証拠であろうし、脳における意識の解明が少しずつ進んでいることを感じる。
数年前に神経外科医に腰椎の痛みをとってもらったときは全身麻酔であった。いまでもその時の手術室の張り詰めた緊張感が普通ではなかったことを覚えている。そして麻酔が解けたとき、ベッドを囲んだ人たちの間にホッとした空気が一斉に流れだしたように感じられた。どちらもただならぬものであった。
全身麻酔薬の作用機序がわかっていないことについては半世紀を経ても同じであるが、医師たちは、それはそれなりに工夫と技術を重ねて患者の安全に尽くしてくれていると思いたい。アメリカ大統領の専用機内には手術室があって、麻酔医までもが同行するのだそうだ。飛行高度の大気圧によって微妙に変化する麻酔薬の効果も研究され尽くしていることだろう。だから現場職人の経験頼りにすぎないと怖れたり、無責任だと非難するのは無用なことだ。現状は、科学が到達した先端にあることには違いなく、完成した理論の正当さがまだ実証されていないということなのである。
著者が『日本老年医学』誌に寄稿した『水分子の脳科学』も高年齢者には参考になる。インターネットのPDFで読める(「水分子の脳科学」ーJ-Stageで検索)。この寄稿文は、私がいま取り組んでいる『脳の中の水分子』の科学総論だとしてある。こちらは、やや専門臭が強いがむずかしくはない。
読むという行為でいえば、中田氏による文章には医事や化学の専門用語に漢語が多い。日本語使用の歴史的な推移に関係すると思われる。そのことを除けば易しい日本語である。事態の説明には一般的な日本文より一層論理的に字句がつづられている感じが強い。著者の置かれた環境から想像するに、手慣れた英語説明が自動的に日常日本語に置き換えられたのでなかろうか。そのうえ、中田氏はその師から「教え方」も学んだのではないか。主題の好悪は当然読者によるが、内容に興味のある読者にわかりやすい書き方だと思う。本書は3冊めだから、前2冊『脳の方程式 いち・たす・いち』と『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』も一層の理解のためには読んでみたい。
耳慣れない用語のなかに、わずかに親しみのあるものが出てきた。MRIだ。腰椎手術の事後点検のために年に一度はお世話になる。
MRIは最新の技術ではなく1952年のノーベル賞の対象になった核磁気共鳴(NMR)という物理現象の利用だそうな。MRIは水分子の水素原子核が磁場に置かれたときに示す共鳴現象を捉える技術であり、身体をつくっている分子の中で水分子の数が圧倒的に多いから水素分子が利用される。放射能を浴びるわけでないから身体には非常に安全な画像法なのだそうである。その代わりというわけではないが、原子核をもった分子を磁場の中に入れなくてはならないので、患者に大きな磁石の中に入ってもらわなくてはならないという説明だった。人間は体重の50から75パーセントほどが水分だという。そして高齢者は水分が少なく、老化とは細胞水分の減ることだという。そうだった、1日2リットルを少しずつ補給せよ、とどこかで読んだ。これは中田先生ではない。ここらで休憩することにしよう。
読んでいる本:『脳の中の水分子 意識が創られるとき』中田 力著 2006年 紀伊國屋書店 (2022/2)