2020年8月18日火曜日

読書随想 憲法改正・近衛公爵・ノーマン

ハーバート・ノーマンが占領期日本でGHQに勤務していたことに関連して古関彰一氏の『日本国憲法の誕生』(2017年)を読んでみる気になった。同名の2009年上梓の旧著を大幅に改定した増補版である。新資料が多く参照されていても、まだ未公開のものが多数あるという。著者が末尾に詳細な年表をつけてくれている。<1945年6月18日沖縄軍牛島満司令官の陸軍参謀本部に「決別電報」打電>から、<1947年5月3日日本国憲法施行>までが記されている。これが本書の内容の範囲でもある。多くの事柄が入り組んでいる内容をいちどきには掴みきれない一般読者にとっては大変にありがたい労作である。注になっている引用または参照資料も膨大である。読者としては用語や制度などの忘れたことやもともと知らなかったこともわんさと出現する。現代の百科事典インターネットは誠にありがたい存在である。本文450頁におよぶ本書を読み通すのは相当な力仕事である。著者の筆の運びは精確を期していても堅苦しくはなく、ときにさりげないユーモアを漂わせたりもする。銷夏読み物には少し重いが、よくできたノンフィクションとして読めばよい。
余談ながら、国立国会図書館のウエブサイト「憲法の誕生」は参考になる。私は用語解説をはじめ、古関氏が使用した資料原本などを参照した。本稿で触れるマッカーサー・近衛会談の内容もある。https://www.ndl.go.jp/constitution/index.html

さて本書には、憲法改正を最初に口に出したのはマッカーサーだった、と書いてある(p.11)。1945年10月4日、GHQへ二度目の訪問をした近衛公爵に、日本の憲法は改正しなければならないと述べたのである。近衛は、帰路の車中で通訳の奥村勝蔵に「今日はえらいことを言われたね」と言ったという。木戸内大臣と相談して近衛が内大臣府の御用掛となって憲法改正作業をすることになった。それまでの近衛の立場は東久邇宮内閣の副総理格の無任所大臣だ。この内閣は翌5日には、マッカーサーのいわゆる「人権指令」が発令されたことをうけて瓦解する。マッカーサーが近衛に会う直前にこの指令を決裁していたとは近衛は知る由もなかったが、この指令によって釈放される徳田球一などのマルキシストが軍閥とともに戦争責任があると、近衛が長々と話すのをマッカーサーはどのように聞いたのだろうか。
10月9日幣原新内閣成立、新首相は11日にマッカーサーを訪問し、婦人解放、労組奨励などの5大改革の指示を受けるが、そこに憲法問題は含まれていなかった。13日の新聞には、5大改革をあげる前に「元帥の見解」として「ポツダム宣言を履行するに当たり……社会の秩序伝統を矯正する必要があろう。日本憲法の自由主義化の問題も当然この中に含まれてくるであろう」との判断のあったことが紹介されていた。その日のトップ記事は天皇が近衛を内大臣府御用掛に任命した記事だった。国民はこの報道によってはじめて近衛が改憲作業に入ることを知ったのであり、憲法改正は天皇が近衛に命じ、5大改革はマッカーサーが幣原に命じたと読み取れる紙面になっていた。後の憲法調査会で高木八尺は、マッカーサーが幣原との会談で要求すると予想される事項から憲法改正だけは別扱いにすることを事前に要請し、憲法改正が自主的に日本の側で、というふうに考慮された形を整えることに努めたのだと語っている。著者古関は、このことでGHQが日本側での自主的な憲法改正に極めて協力的であったことも知ることができる、と述べている。
幣原はマッカーサーとの会談の直後の13日に松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会の設置を決めた。これは幣原・マッカーサー会談直前に、木戸からの電話で、近衛に改憲作業をやってもらう趣旨が伝わったので、双方で会談したが折り合いがつかず、競合する事態になったと著者は見ている。松本の見解は憲法改正を「やるのは内閣を除いてあるべき道理はない」ということだった。このあと国民に見えないところで両者の作業が続くが、上記の新聞報道のあとは朝日、毎日などが学者の見解を伝えるようになる。世論の大勢は内閣による改正が正当とする意見が強かったらしい。一方、海外では、特に米国内では近衛が憲法改正にあたることに強い批判があらわれた。10月26日、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙はフランク・ケリー記者の東京電でこの事実を伝えたあと、社説で、アメリカが極東で犯した馬鹿げた失敗の中で最も甚だしいのは近衛公爵を日本の新憲法の起草者として選んだことである、としてマッカーサーの責任をきびしく追求した。
時間は戻るが、マッカーサーの憲法発言に同席していた国務省から出向のアチソン政治顧問も、やはり「えらいことになった」と国務省の憲法についての指示を仰ぐべく打電した。この回答は10月17日に来る。23日には覚書となってマッカーサーに伝えられた。その骨子を近衛を補佐していた高木が25日に聞き出している。憲法改正にあたっての基本構想は、国民主権の確立とその限りにおいての天皇制の改革であった。とにかく最大の心配事であった天皇制護持の見通しがついた。
ところが、11月1日夜GHQは「近衛公は連合軍当局によって、憲法改正の目的のために専任されたのではない」との声明を発した。この声明は3日付で新聞に報ぜられた。「近衛公は首相の代理としての資格において日本政府は憲法を改正することを要求されるであろう旨通達されたのである」と述べ、もはや内閣が変わった以上近衛はその任にないとし、「幣原新首相に対し憲法改正に関する総司令部の命令を伝えた」と述べた(pp.25-6)。驚いて高木八尺が新聞発表の翌4日アチソンの下のエマーソンを訪問したところ、彼らの態度が豹変していたという。会見は数分で決裂した。
GHQの近衛に対する方針は、百八十度転換していた。すでにアチソンはノーマンに近衛の戦争犯罪に関する調査を命じていた。ノーマンはその報告書を高木らがエマーソンに会った翌5日にアチソンに提出している。ノーマンの報告書のさわりを著者は引いている。
近衛の公式記録を見れば、戦争犯罪人にあたるという強い印象を述べることができる。しかし、それ以上に彼が公務にでしゃばりよく仕込まれた政治専門家の一団を使って策略をめぐらし、もっと権力を得ようとたくらみ、中枢の要職に入り込み、総司令官に対し自分が現状勢において不可欠の人間であるようにほのめかすことで逃げ道を求めようとしているのは我慢がならない。 
一つたしかなことは、かれが何らかの重要な地位を占めることを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。かれが憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものはすべて残骸と化す(p.27)。
近衛の運命は大きく暗転し始めていた。
ノーマンの提出した覚書によって近衛が適任者でないと判断したGHQ上層部は改定作業は別組織によってされるべきと決定した。9日には戦略爆撃調査団から喚問され、東京湾上に浮かぶアンコン号上で尋問を受ける。中国侵略、日米開戦前夜の政策決定責任について、かなり厳しい尋問がなされているが、近衛はその責をすべて軍部と東条英機に転嫁することに終止した。しかし、12月6日近衛は戦犯に指定され、収監される当日の16日朝、服毒自殺しているのが発見された。

日本国憲法が新しくなる舞台の序幕は近衛の退場で次の段階、日本人による草案作成とGHQの介入の場面に移るが本稿はこのへんで終わることにする。ノーマンは新憲法誕生に関しては、民間における人権思想の存在と憲法改正の動きが扱われる章に、戦前に逼塞させられた旧知の研究者鈴木安蔵を探し出すことから、憲法研究会の設立までしばらくの間登場している。
ところで10月9日の幣原内閣成立以降もGHQは近衛側と会って示唆を与えてきたのに、11月1日になって近衛を袖にするのは変ではないかと、誰しもが疑うのは自然なことである。GHQは近衛に改憲を示唆したことに対する内外の批判があまりに厳しいので、政策を急いで変更したと解釈するしかない、として著者も当時を探っている。マッカーサーが憲法改正を説いたのは、通訳の誤訳だったという説が占領終了後になって流布したことがあるそうだ。出所は『東京旋風』(1954年)で、著者はGHQ憲法草案作成メンバーであったワイルズという人。著者がこの線をたぐってわかったことは、マッカーサーあるいはGHQの失態をアチソンが隠蔽したということである。ノーマンから近衛戦犯の報告書を受け取った11月5日に、アチソンはすぐさまトルーマン大統領に書き送って、あの「えらいことになった」日の会談で、近衛の通訳が「行政の改革」の正確な日本語を思いつかないまま「憲法の改正」と元帥の言葉を訳してしまったのだと弁解した。通訳が自分でそのように話しているということまで装って。
近衛に憲法改正をやらせるという判断の誤りを知ったアチソンの保身術である。奥村通訳には気の毒なことだったと同情する。 このアチソンの弁解術をよく考えてみれば日本人を差別視するアメリカ人の通弊だと私は思う。戦前から原爆投下まで日米戦は人種差別戦争だったと思う。奥村氏はマッカーサーと会談した天皇の通訳も務めている人物であるから、それなりの能力を備えた官僚であったはずだが、アチソンにこういうふうに扱われていたことは知らないで終わったかもしれない。
マッカーサーも憲法改正を示唆する相手を間違えていたことを知った。同時にアメリカでの反響の大きさにも驚いた。本国政府に直結しているアチソンほか国務省関係者を憲法問題を扱うチームからはずすようになった。11月7日、アチソンは手紙で国務長官あてにその動きを報告している。

GHQには終始マッカーサーの側近としてフェラーズ准将という人がいた。フィリピン以来の側近の情報将校、本職は心理作戦である。アナポリスに学ぶ前に大学で日本人学生から教わったラフカディオ・ハーンに傾倒したのが日本通になる始まりだった。天皇を戦犯指名から外して占領行政を成功させる重要な存在であった。この人物について次の論文が大いに参考になる。
http://netizen.html.xdomain.jp/Fellers.html
加藤 哲郎(一橋大学、政治学)「ハーン・マニアの情報将校ボナー・フェラーズ」(平川祐弘・牧野陽子編『講座 小泉八雲 1 ハーンの人と周辺』(新曜社、2009年8月)所収、pp.597-607.)

憲法改正については基本的に「ポツダム宣言」をどのように理解したか、日本人の受け止め方が問われて、結果としてGHQに教わりながら草案を作ることになった。それがいわゆる押しつけ論の根拠になったが、天皇を上に戴く観念が抜けきれないまま、戦争裁判もくぐり抜けて戦後に移っていった日本社会の問題である。その中で生きている国民にとってはどうしようもないかのような問題であるが憲法といい、天皇の存在といい、なんとも厄介なことではある。本書はそのような全体にはふれないけれども、問題点を指摘されて考える基本を教えてもらえる。通読半ばであるが一端を記してみた。
読んだ本:古関彰一『日本国憲法の誕生』増補改訂版 岩波書店2017年 (2020/8)