2020年8月29日土曜日

随想 昭和天皇の戦争責任

「先の大戦」とは天皇の発言にいつも出てくる表現であるが、その大戦に天皇はどのように関わっていたのか。数え切れないほどの出版物があるが、これでわかったというふうにはなかなかならないのが素人の悲しさである。新憲法誕生のいきさつを書いた本を読みながら、占領下にあって世界の国々から戦争犯罪を問われる立場の天皇が、アメリカ人による画策によって東京裁判に出廷させられることが免れたことを改めて認識した。けれども何かスッキリしない、というのは庶民感覚で考えても、あれだけの惨禍を経験させられたことについてなにか責任があるはずであり、国外にあって皇軍の名のもとにずいぶんひどいことをしてきた軍隊の最高位の存在であったことにも責任があるはずという気持ちがどうしても抜けないからである。戦争中の天皇は神とされていて、神は責任を取らないとされていたと聞くけれども、それは勝手に作り上げた絵空事であって、昭和46年の正月には「人間宣言」の詔勅が出されているからにはそうは行くまいと思う。帝国憲法第一条に神聖ニシテ侵スベカラズとして君主無答責根拠があるにしても、憲法は国内のことであり国際的には有責を問われるだろう。
ハーバート・ビックスの『昭和天皇』(2002年)を拾い読みしている。原著の表題は "HIROHITO and The Making of Modern Japan "(2000年)である。ちなみに、昭和天皇という呼び方は死後の諡(おくりな)である。名は裕仁(ひろひと)、天皇家には姓はない。日本人はいつの世の天皇を呼ぶにも名で呼ぶことをしない。翻訳書の表題はそのことを考慮したのであろう。
日本の軍隊は皇軍と呼ばれたように天皇の軍であるから天皇の命令によって動く。先の大戦では大本営があったから、陸軍の作戦は大本営陸軍部が立案して参謀総長が上奏する。天皇はそれを裁可して参謀総長に命令する。参謀総長はそれを下部に伝達する、という順序があった。天皇が裁可した命令は「大陸命」として連番がつく。参謀総長からの指示は「大陸指」である。「大陸指」の現物を見れば「大陸命」〇〇号に基づき左のごとく指示す、などとある。ウエブサイトでは毒ガスに関する朝日新聞の記事で「大陸指」の例が読める。
天皇が裁可するとは裁量して承認することで、署名をして御璽を押す。御璽は天皇のハンコである。
第10章(下巻)に昭和天皇が戦争にどの程度関与したか具体的に述べている。
第一次戦後に日本も調印した国際的な協定では催涙ガスを含め毒ガスの使用が禁止されていた。日本陸軍の考えでは、軍事技術の面で劣った敵に対してはこの禁止を守らなくて問題はないと考えていた。昭和天皇も明らかに同じ考えであった。「天皇が化学兵器使用を最初に許可したのは。1937年7月28日のことであり、それは閑院宮参謀総長により発令された。北京―通州地区の掃討について、『適時催涙筒を使用することを得』と書かれていた命令である」(p.13)。つづいていくつかの特別な化学兵器部隊を上海に配備することを許可し、以後次第に規模が大きくなって、翌年春・夏には中国・モンゴルの主要な戦闘地域で大規模に毒ガスが使用されることとなった。
日中戦争の全期間を通じて毒ガスは、天皇、大本営、統帥部が周到に、そして、有効に管理した。前線部隊はもちろんのこと、方面軍司令部ですら毒ガスを使用する権限を持っていなかった。毒ガスは指揮命令系統に基づいて使用許可が求められ、通常、まず最初に天皇の裁可があり、その後、参謀総長の指示を「大陸指」形式で発令、大本営陸軍部から現地軍に送られた。このように説明したあと著者は毒ガスが用いられたおびただしい時と数量、場所を例示している。1941年7月の南部仏印進駐に際して杉山元参謀総長は毒ガス使用禁止を明示した命令を出した。またアメリカが化学兵器を保有している懸念から、第二次世界大戦終結まで日本は化学兵器を使用しなくなったと述べられている。
この箇所の記述でわかることは、国際的に認められない毒ガスの使用について、天皇を含む国ぐるみで隠蔽しようとした意図がわかる。軍事技術の面で劣った敵に対しては使い、フランスや英米相手には使わない、つまりバレないように使うという実に卑怯な魂胆である。似たようなことは捕虜の扱いにも言える。
化学兵器とは別に細菌兵器がある。本書には次のような記述がある。
1940年、昭和天皇は中国で最初の細菌兵器の実験的使用を許可した。現存する文書史料で、昭和天皇と細菌兵器を直接結びつけるものはない。しかし、天皇は、科学者の側面を持ち几帳面で、よくわからないことには質問し、事前に吟味することなく御璽を押すことは拒絶する性格であった。したがって、みずからが裁可した命令の意味を理解していただろう。細菌戦を担当した関東軍731部隊に参謀長が発令した大本営指令の詳細は、原則として天皇も見ていた。そしてこのような指令、すなわち「大陸指」の根拠となった「大陸命」に、天皇は常に目を通していた。中国での細菌兵器の使用は1942年まで続いたが、日本がこの細菌戦・化学戦に依存したことは、第二次世界大戦が終了すると、アメリカにとって、にわかに重大な意味を持つことになった。まず、トルーマン政権は大規模な細菌戦・化学戦の計画に予算を支出したが、それは日本の細菌・科学研究の発見と技術に基づいていた。ついで、それはベトナム戦争で、アメリカが大量の化学兵器を使用することへとつながった(p.16)。
言うまでもなくこれは枯葉剤を思い起こさせる文章である。

「昭和天皇は中国を「近代」国家とは見なさず、中国侵略が悪いとは夢にも思わなかった。そのため、中国に宣戦布告をすることを控え、中国人捕虜の取り扱いに際して国際法の適用を除外する決定を認めた。すなわち、1937年8月5日、陸軍大臣により出された指令をみずから承認した。その指令は、現在は支那を相手とする全面戦争をしていないのであるから、陸戦にかかわる法規慣例に関する条約や交戦法規に関する諸条約を適用することは適当でない、としている。その結果、毎年1万人以上の中国兵が捕虜になっていたが、戦争終結後、日本当局は数千人の欧米人捕虜が捕虜収容所にいると主張したけれども、中国人捕虜はわずかに56人の存在を認めたに過ぎない。読者は否応無しにその数値の差に注目させられる。
また、上に触れた大臣による通牒では、現地参謀に、「俘虜」という言葉の使用を控えるように指導した、と著者は書いている。ここは読者として推量を強いられる。「俘虜」が存在する場合に「俘虜」という言葉の使用を控えるにはどうするか。一部に放免した例も伝えられているが、現場では「いないことにせよ」という意味に受け取ったのでないか。なお、用語として「俘虜」と「捕虜」の使い分けがこの箇所に見られるが、原文ではどちらもprisoner(s) of warである。少し調べてみたが、西周による「万国公法」の訳語は「俘虜」であったようで、この漢語を掘り下げると「捕虜」という語と明確に使い分けられていた事実がある。「俘虜」には人間として扱う心が込められているに対して「捕虜」には首をはねるとか容赦のない仕打ちが向けられた有様がわかる。第一次大戦の青島戦で捕虜になったドイツ兵を収容したのは板東俘虜収容所であった。満州事変以後は一般に「捕虜」が使われるようになったと理解してよいようだ。英語を漢語を介して日本語に翻訳し、その日本語の使われ方が時とともに変化した事例である。と書いて思い出した。大岡昇平氏は『俘虜記』や他の作品でも俘虜と書いている。氏独自の人間哲学によるものと考える。
ビックスによれば昭和天皇は国際法を立 作太郎(筆者注:たち さくたろう、東京帝国大学教授、国際法学者、1874年(明治7年) - 1943年(昭和18年))に学び、捕虜取り扱いに関するジュネーブ条約に日本が調印(ただし、批准せず)したことも知っていた。明治・大正の両天皇が煥発した宣戦布告の詔書が国際法遵守に触れていることも知っていた。しかし、大量虐殺や中国人捕虜虐待を防ぐよう軍に命令を出すことはしなかった。1930年代の日本ではこういう不作為は官僚、知識人、右翼の間に広く認められた傾向であり、国際法自体を全く西洋の産物とみなし、西洋人が自己の都合のいいように普及させたものに過ぎないと考えていた。日本軍の残虐行為の背景には、国際法適用を拒む陸軍の存在があり、国際法が実効性を持たなかったことには天皇にも責任があった(p.12-13)。
このほか著者は直接関与の文書は存在せずとも天皇の責任ありとして、重慶その他への戦略爆撃(1938年)をあげる。様々な種類の対人爆撃だったということが著者の注意をひいたように読める。無差別爆撃のモデルでもあったことは広く知られてきたが、英国によるドレスデン爆撃、そして東京大空襲がある。中国の日本軍占領地区の都市漢口でもアメリカ空軍が実験的に焼夷弾による無差別爆撃をして住民2万人が死亡している。これによりルメイ将軍は東京爆撃に自信を得たとされる。
昭和天皇は中国における「無人区化」作戦も承認したと著者はいう。南京大虐殺よりも遥かに規模の大きいものだそうであるが、後に中国共産党は「三光政策」、日本軍は「三光作戦」と呼んだ。「光」はすべてを意味し、「焼き尽くす」「殺し尽くす」「奪い尽くす」の意味だとある。1938年末に天皇はこういう作戦に承認を与えている。この作戦は「敵および土民を仮想する敵」と「敵性ありと認むる住民中15歳以上60歳までの男子」殺戮を目標とするようになったと述べる。この三光作戦による中国軍被害について日本には何の統計もないそうだが、歴史学者姫田光義による概算では「247万人以上」の中国の非戦闘員がこの作戦の過程で殺されたとしている。「綿密に計画された三光作戦は、陸軍の化学戦・細菌戦や「南京大虐殺」とは比較にならないほど破壊的で、長期におよぶものであったことがいつの日か判明するだろう。しかし、アメリカでは日本の戦時行為のなかで南京事件に道義的な非難が集中し、ドイツによるヨーロッパでのユダヤ人大量殺戮と――目的とか、脈略、あるいは究極の目標とかかわりなく――軽率にも比較さえされている」と評している。(p.19-20) 。
ほんの20ページ足らずを読んだだけで、これだけの考える材料が出ている。すっかり忘れていたけれども、かつての家永三郎『戦争責任』はほぼ同じ文脈で論じているが、30年近く時間を経過したビックス本が扱う史料は格段に増えている。今後読みつづける体力があるかどうか自信がないが、読みながら湧いてきた妄想は中国という国の存在である。山東出兵や満州国のころから日本が手玉に取られてきたのは、底なしの沼のような国だった。抜けられないままに日本は世界の敗戦国となり、中国は相変わらず隣国で戦勝国として存在する。
戦争責任は別にして、昭和天皇という人は臣民や国民をどう思っていたのだろうとときに不思議な気持ちになる。惨憺たる敗戦に終わった戦後、国民大衆にどのように迎えられるか不安なままに試みたお伊勢参りの列車行幸では、案に相違して沿線大衆から大歓迎を受けてマッカーサーも天皇もほっとした。その前に東京大空襲の焼け跡を見に来て、こんなにやられたのか、とつぶやいたと伝えられるが、天皇の姿を見かけた民衆は土下座をして、こんなに焼いてしまって申し訳ないと涙を流して詫びていた。我が身を神と唱え、片や神と崇めたことには、どっちもどっちだと言ってしまってはそのように仕向けられた国民が気の毒だ。
最後の最後に沖縄が戦場になったころ、伊勢湾にアメリカ軍が来れば伊勢も熱田も危ない。神器を早く手元に移さなくては国体が護れないと焦った。神器と国民とどちらが大事なのか。神器がなくては天皇が天皇でなくなるということらしい。国体護持が叫ばれたが、国体とは天皇制のことだと今頃になってわかった。共産主義のソ連に対抗するため、沖縄をアメリカ軍の基地に提供するとマッカーサーに申し出た。あんなふうに惨めに犠牲にされた住民をどう思っていたのだろうと訝しむ。天皇は沖縄の住民はもともと日本人ではないと考えていたのかもしれない。マッカーサーはそのように理解していた。歴史的にはそのとおりではあるが。
こう考えると、敗戦後、全国を経巡った列車行幸と「あ、そう」と言って民衆に近づいた昭和天皇の大御心には、心底から国民をおもう気持ちがあったようには思えなくなる。洛中の死臭が漂う御所にあっても歌詠みに興じた七百余年前から変わらぬ伝統であろうか。
参照した本:H・ビックス『昭和天皇 (下)』2005年 講談社学術文庫 (2020/8)