NY POSTのサイトから |
1975年夏にシンガポールに赴任したとき、彼の地でこの曲は流行っていた。着任早々知り合った日本人が神戸っ子のT氏で、アポロホテルの10階を住まいにしていて、夕食後の憩いの場が同ホテル1階のイオン・バーだった。お互い一人駐在なので所在なさを紛らわすにはここは安全で気分が良い。お誘いの電話をもらっては、いそいそと出かけたものだったが、ステージがあって女性歌手が夜毎出演している。"Yesterday once more", "El condor pasa"など英語の不得手なT氏は一生懸命にタイトルを覚えてはリクエストしていたものだ。長い曲名"Tie a Yellow Ribbon~"も苦労して彼のリクエスト曲になったが、もとより我々はそれをもとにしてやがて映画が作られようとは知る由もなかった。80年以後前後して帰国してからも、曲名が「幸せの黄色いリボン」になっているとも知らず、相変わらずT氏と「タイ ア イエロー リボン~」などと回らぬ舌で話していて周りが「ン?」となったりしたのも今思い出すとおかしい。そのT氏は帰国して何年か後に亡くなってしまった。
映画の「幸福の黄色いハンカチ」は、”幸福の”と書いて”しあわせの”と読ませるらしいが、山田洋次監督で高倉健が演じたとは知っているものの、映画も後続のテレビドラマも見たことはない。ドラマにはドーン(Dawn)の演奏が挿入されているとimdbにあるが、映画にも使われているのだろうか。
さて、ピート・ハミルは8月5日に亡くなった。1935年生まれだそうだから同世代だ。ジャーナリストでコラムニスト、最初の夫人は1972年に離婚し、87年に再婚、それが現在の奥さんの青木冨貴子氏と知ってあッと思った。岩波新書で『「風と共に去りぬ」のアメリカ』を読んで感心したのは随分前のことだが、この人も優れたジャーナリストだと思う。
ハミルが日本映画『幸福の黄色いハンカチ』の原作者と書いてあったが、正確にはそうでない。アメリカのどこかに古くからの口頭伝承があった。刑期を終えた男が何年かぶりに我が家に戻ろうとするとき、妻が待っていてくれるだろうか不安になった。もし迎えいれてくれる気があるなら樫の木に黄色いリボンをつけておいてくれ。そうでなかったら家には寄らない、と書き送っておく。そしてバスから見えた風景には樫の木に黄色いリボンがつけてあったのだ。その言い伝えをハミルは少しアレンジして、1971年にニューヨーク・ポスト紙にコラム『Going Home』を書いた。1973年にオーランドとドーン(Dawn featuring Tony Orlando)が売り出したときハリムは自分が原作者だとして提訴したが、ドーンの歌の作詞者側に立った民俗学者が古くからの伝承を見つけたので訴訟を取り下げた。
1949年のジョン・ウェイン主演の騎兵隊ものの『黄色いリボン』があるが、これは娘が首に巻く黄色のリボンで、男への愛を示す合図だとのこれも伝承によるらしい。
で、ハミルの物語はどうなっているかといえば、ネットのあちこちに原文が出ている。
(例えば、https://nypost.com/2010/02/26/the-post-column-that-sparked-the-yellow-handkerchief/ )
Vingo sat there stunned, looking at the oak tree. It was covered with yellow handkerchiefs, twenty of them, thirty of them, probably hundreds—a tree standing as a banner of welcome Billowing in the wind.
Vingoは刑期を終えた男の名前だ。かしの木にはハンカチがいっぱいだ。20枚、30枚、いや何百枚もあるぞ。かしの木は風をはらんでふくらんだ歓迎の幕のようにみえた。
というぐあいで、歌の文句のリボンはハンカチに変えられている。ハミルのコラムもリボンではなく、ハンカチをつけてくれ、と手紙に書いたとなっている。なんだ、これなら山田映画の原作と言ってもいいのでは、と私は思いなおした。山田洋次は物語を聞いて「樫の木に黄色いリボンが花のように咲く」のをイメージしたそうだけれど、これは倍賞が伝えた歌の方の物語の印象なのだろう。
Tonyが歌う曲のおしまいは、たくさんのリボンになっている。
a hundred yellow ribbons round the ole oak tree
I'm comin' home
(Refrain) Tie a yelllow ribbon~
サックスの渡辺貞夫の娘さん、倍賞千恵子、山田洋次のリレーで物語が映画になったエピソードもネットに教わった。
ハミルの代理人によると、ハミルは日本の電気製品がアメリカ市場を荒らしているとして日本に好意を持っておらず、作品の上映は日本国内限定で海外に出すことは絶対に認めないとの条件がつけられた。作品が好評を得た松竹が輸出したいと望んで、山田洋次がアメリカまで出向いてハミルに試写を見てもらった。ハミルは「ビューティフル」と喜んで承諾が得られたとも書いてあった。(Wikipedia 「幸福の黄色いハンカチ」)
以上、他愛のない話ではあるが、日本では映画が大ヒットした。英語の音曲は流行る範囲が狭い。だが、シンガポールで日々を過ごした私たちが思い出すのは、この歌である。メロディーが頭の中で鳴り出すと、とたんに数年間のあれこれがイメージとなって押し寄せてくる感がする。たまたまお盆だ。亡きT氏にあらためてこの物語を手向けて冥福を祈ろう。(2020/8)
追記:ハミル氏のコラムを映画の原作と呼んでいいかどうか、は実はどうでもいいことです。アメリカには黄色いリボンまつわる伝承があったのは事実でしょう。私としてはハミる氏の訃報を教えてくれた「天声人語」が"Tie a yellow ribbon~"の音楽を思い出させてくれたことが、往年の様々なことにつながったわけです。ただそれだけのことのために、この文章を書きました。それにしてもたかがリボンとハンカチがこんぐらがって、やはり我が脳細胞が衰えていることが証明されました。以上